第15話 役に立ったかもしれません
翌朝。
ベルグラント軍が、北東へ動き始めた。
来たときとは、音が違った。
足音は続いている。それでも、あの遠雷ではない。列の途中に隙間があり、車輪の軋みも少ない。
道の端に、割れた車輪が置き去りにされていた。その脇を、列は避けもせずに通っていく。
旗が遠ざかっていく。
その下を歩く人間へ、遥は意識を向けた。
視る。
一万九千六十三。
息を止めた。
もう一度、視た。
一万九千六十三。
数字は動かない。
来たときは、二万一千四百。
二千三百三十七。
計算するまでもなかった。視た瞬間には、もう出ていた。
「……二千三百三十七」
声に出ていた。
隣にいたクラウスが、遥を見る。
「何だ」
「減っています」
遥は、遠ざかる列から目を離せなかった。
「来たときより、二千三百三十七人」
クラウスは、すぐには答えなかった。
「全員が死んだわけではない」
「分かっています」
クラウスから聞いた数がある。
確認できた戦死、二百八十七。捕虜、百二十六。
足しても、四百十三。
「……合いません」
「何がだ」
「千九百二十四人が、どこにもいません」
クラウスが、遠ざかる列へ目をやった。
「隊を離れた者は、帳簿には載らん」
「でも、人です」
言ってから、自分でも何を言いたいのか分からなくなった。
帳簿にいない。こちらの捕虜でもない。確かめられた死者でもない。
モスクワから、六十万が帰り着かなかったとき。
その一人ずつを数えた人は、いたのだろうか。
けれど、最初に来た二万一千四百の中には、確かにいた。
昨日聞いた名前が浮かんだ。
エドガー・シュタール。
あの男が連れてきて、連れて帰れなかった人数。
私の考えた作戦の中で。
勝った。たぶん、そういうことになる。
こちらにも、帰らなかった者がいるはずだ。
しかし、その数を遥は知らない。
聞いても教えてくれなかったし、なら、視てはいけないと思った。
二千三百三十七という数字だけが、頭の中で動いてくれなかった。
「なぜ追わん」
背後で声がした。
軍議で、逃げ回るのかと言った将だった。
「まだ届く距離だぞ」
「殿下がお約束なされた」
クラウスは短く答えた。
「それに、帰る敵を斬れば、次から誰も背を向けなくなる」
将は何か言いたげに片眉を吊り上げ、それから遥のほうを見た。
遥はクラウスを見ていた。
「次も、帰ってもらうためですか」
「次がないことを祈るがな」
言い終わるが早いか、白髪の将がクラウスの肩へ太い腕を回した。
「分かっている。ちょっと言ってみただけだ」
腹から出る、遠慮のない笑い方だった。
「クラウスよ、そう堅苦しいと、女史に振り向いてもらえんぞ」
「何のことだ」
「ほう、とぼけるのか」
もう一度笑って、それから、声の調子だけが変わった。
「二万を前にして、隊はほぼ全員が生きている。一人も欠けなかった小隊もあると聞いた」
「……ああ」
「こういう戦の終わり方も、あるのだな」
将の手が、クラウスの背を叩いた。
「礼を言わねばならん。なあ、クラウスよ」
「……はい」
そう答えたクラウスが、急に幼く見えた。
一人も欠けなかった小隊。
そこだけが、遥の頭に残った。
風が吹いた。ベルグラントの旗が、小さく揺れる。
やがて先頭が丘の向こうへ消え、槍が消え、荷車が消え、最後の旗も見えなくなった。
セルディア兵から、声が上がった。
最初は一人だった。それが二人、十人と増えて、丘を震わせる歓声になった。
遥はその中で、誰もいなくなった街道を見ていた。
*
王都では、鐘が鳴った。
高い音と低い音が重なって、石畳の街に降り注ぐ。窓の外で、誰かが名前も知らない歌を歌っている。通りには人が溢れ、兵が歩くたびに歓声が起きた。
遥は城の窓から、それを見ていた。
手には、綺麗に畳まれた外套を抱いていた。
「ハルカ」
レオンが隣に立つ。
しばらく、どちらも喋らなかった。
「承諾はしてくれなかった」
レオンは、こちらを見なかった。
言われて、思い出した。
引き受けます、と言った覚えは、一度もない。
「ハルカは、どうしてこの国を助けてくれたの」
断る余地なんて、なかったじゃない。
何の役にも立たないと思っていた、世界史の知識。
クラウスは、頼ってくれた。
言っても何も変わらないと思っていた、自分の言葉。
この人は、聞かせてと言ってくれた。
たぶん、国を助けたかったわけじゃない。
なんて、王太子に言えないけれど。
必要としてくれたから。
あなたたちが。
あなたが。
「……殿下が」
「ハルカ」
「レオン、が――」
答えたいのに。
言うべきことが、うまく形を保たなかった。
「見えているだろう?」
街のほうへ、レオンが顔を向けた。
「君のおかげだ」
「違……」
反射的に出かけた言葉を、飲み込んだ。
クラウスが決めた。兵士が戦った。住民が避難した。私は――。
そこまで考えて、止まった。
橋を渡って戻ってきた、七百八十一人。
仮集落から逃げ切った人たち。
そして今朝、北東へ帰っていった、一万九千六十三人。
自分ひとりでやったわけではない。
でも、自分が何もしなかったわけでもない。
鐘が、一度、間を置いた。
「……少しは」
遥は、窓の外を見たまま言った。
「役に立った、かもしれません」
レオンは何も言わなかった。
ただ、隣で笑った気配がした。
鐘が、もう一度鳴る。
外套を抱く腕に、力が入った。
鐘の音が、白くなった。
*
紙と、埃と、古い接着剤の匂い。
暖房の低い唸りが、床を伝ってくる。
遥は、返却棚の前に膝をついていた。
「気がつきましたか」
穏やかな声だった。
灰色がかった髪。細い銀縁眼鏡。濃紺のベスト。
あの司書だった。
「……私」
「急に倒れられたので、驚きました」
遥は立ち上がる。
制服の袖を見た。濃紺のブレザー。泥も、煤もついていない。スカートも裂けていない。
鞄からスマートフォンを出す。
地図帳を開いてから、数分しか経っていなかった。
夢。
そう考えるのが、いちばん自然だった。
返却棚に、あの本がある。
震える手で開いた。革の表紙は、やはりほのかに温かい。
セルディア。
あった。小さな国。
そして。
「……違う」
遥は、一度見た図を忘れない。
最初に見たとき、北東部の国境は太い点線だった。
いまは、実線になっている。
――あの日、指でなぞった線だ。
その横に、なかったはずの小さな文字が並んでいる。
読めないはずの文字なのに、意味だけが入ってくる。
――セルディア・ベルグラント停戦協定。
遥は、実線を指でなぞった。
紙の上では、ほんの数センチだった。
顔を上げる。
「あの、これ――」
銀縁眼鏡の男は、もういなかった。
図書室には、遥ひとり。
返却棚の上に、開いたままの地図帳だけが残っていた。
*
翌朝。
教室へ入ると、鞄を置くより先に、自分の席の前に人が立っていた。
高い位置で結んだ髪が、振り向くのに合わせて大きく揺れる。毛先へいくほど、色が明るい。
名前だけは知っていた。同じ学年で、廊下でよく笑っている人。
話したことは、一度もない。
「あ、来た」
迷いなく、距離を詰めてくる。
そして、遥の机に両手をついた。
「セルディア王国、知ってるよね」
教室の音が、遠くなった。
陽向夏帆は、笑っていなかった。
第一章 了
タイトルの主題は戦記ものですが、遥たちの内面とか関係とか書きたい。むしろそっちが難しくて、楽しい。第二章、新ヒロインの登場です。




