第14話 エドガー・シュタール
動かなくなった鉄の列を、遥は高台から見下ろしていた。
隊形は崩れていない。旗も倒れていない。ただ、進んでこない。
「止まりました」
クラウスは答えなかった。長いこと、その列を見ていた。
「今なら潰せる、という声が出ている」
「……どなたから」
「軍議で、逃げ回るのかと言った将だ。他に二人」
低い声だった。
「向こうは動けん。糧も細っている。七日待って、いちばん良い形だ」
そのとおりだった。
遥が作った状況の中で、いちばん攻めやすい。
「……攻めたら、向こうも戦うしかなくなります」
まだ二万近くいる。糧が細っただけで、武器を失ったわけではない。ここで退路まで塞げば、彼らは生きて帰るために、こちらを突破するしかなくなる。
――囲師には必ず闕く。
囲むときは、必ずどこかを空けておく。
逃げ道のない相手ほど、強い。
「帰る理由を作るんです」
「理由」
「ベルグラントは、まだ負けてません。このまま進んでも、山の向こうまで軍を運べないだけです。だから……目的を達成できないから引き返した、と言える形にします」
クラウスの眉が、わずかに動いた。
「私たちは、勝たなくていいんです」
「面子を残すのか」
「たぶん、その方が、次に戦わなくて済みます」
言ってから、遥は自分の言葉に気づいた。
次。
もう、今日を生き延びることだけを考えていない。
クラウスが、しばらく遥を見ていた。
「分かった」
それだけ言って、天幕へ向かう。
「来い」
「え?」
「交渉に出る」
「私は、必要ないですよね」
「クゼ=ハルカ」
クラウスは振り返らなかった。
「お前が考えた戦だ。最後まで見ておけ」
*
両軍の間の、何もない場所が選ばれた。
低い草だけが生えた平地に、机が一つ。その向こうにベルグラントの旗、こちら側にセルディアの旗。
どちらも兵を連れている。ただし槍は立てたままで、弓に矢はつがえられていない。
風が草を擦る音だけが、妙に大きく聞こえた。日はもう高い。机の脚が、柔らかい土に少しだけ沈んでいた。
ここまで歩くあいだ、遥は一度も足元を見なかった。見たら、止まりそうな気がした。
前に立つのはレオン。その半歩後ろにクラウス。遥は、さらに後ろにいた。
レオンの外套には、街道の埃がそのまま乗っていた。
「……いらしてたんですね」
思わず小声で聞いた。
「交渉だから?」
疑問形なんだ。
「誠意を見せないとね」
それから、レオンは前を向いたまま続けた。
「ハルカが作ってくれた機会だ。活かしてみせるよ」
「殿下」
クラウスが低く言った。
「分かっている」
そして、王太子の顔になった。
軍議に、この人はいなかった。あそこは軍の席だったからだ。
ここから先は、軍の話ではない。
ベルグラント側から、一人の男が歩いてきた。
五十前後に見えた。派手な鎧ではない。肩と胸に細かな傷があり、磨いてはあるが、新しいものの光り方ではなかった。白いものの混じった短い髪が、風に揺れる。
遥は、その男を視た。
歩幅。呼吸の間隔。装備の重さ。腰の剣の長さ。
数字が並ぶ。
名前は、出てこない。
当然だった。名前は、数字ではない。
視線が、男の肩の向こうへ流れた。
――列の後ろ。
歩いている者、一万八千八百四十七。
本隊から離れて、道の脇に残っている者、六百二十二。
横になったまま、位置の変わらない者、百七十一。
こめかみの奥が、また痛んだ。
遥は視るのをやめた。
やめても、数字は頭から出ていかなかった。
六百二十二と、百七十一。
モスクワからの帰り道にも、こういう数があったはずだった。
その数を作ったのは、地図の上で自分が引いた線だ。
膝の裏から、力が抜けていく。
男が、机の前で止まった。
「ベルグラント南征軍指揮官、エドガー・シュタール」
低い声だった。
遥は瞬きをした。
視ても出てこなかったものが、本人の口から出た。
エドガー・シュタール。
レオンが名乗り返す。
「セルディア王国王太子、レオン・セルディアだ」
「王太子自ら出られるとは」
「国同士の話だからね」
エドガーの目が、細くなった。笑ったのかどうかは、分からなかった。
停戦の条件が、読み上げられた。
ベルグラントは撤退する。セルディアは追わない。捕虜は双方で照らし合わせ、後日返す。
そして、もう一つ。
この撤退は、敗走ではない。当初の目的を達する見込みが失われたため、遠征を中止する。
紙の上では、それだけだった。
書き付けが交わされ、蝋が垂らされ、印が押される。羊皮紙が乾いた音を立てて巻かれていくあいだ、誰も喋らなかった。
「我々は、セルディアを取りに来たのではない」
エドガーが言った。
「道が要った。山の向こうへ軍を運ぶための道が」
謁見の間で聞いたのと、同じ話だった。
エドガーが、自分の手のひらを一度だけ見た。節の太い、日に焼けた手だった。
「だが、ここから先へ進めば、向こうで戦う兵が残らん」
声に、怒りはなかった。
悔しささえ、遥には拾えない。
ただ、事実が並べられていく。
ベルグラントにとって、セルディアは敵ではなく、通るはずだった場所だった。
その場所を通るのが、高くつきすぎた。
だから、帰る。
それだけのことだった。
「一つ、伺いたい」
エドガーが言った。
視線が、レオンから外れる。
遥のところで、止まった。
「お前、軍人か」
「……違います」
視線が、遥の濃紺の装束を、上から下へ一度だけ通った。
「軍師ではないのか」
「……違います」
レオンとクラウスが、顔を見合わせた。
「そうか」
「では、質問を変える。この策を考えたのは、貴殿か」
喉が詰まった。
砦を捨てた。村から食糧を消した。橋を選んで壊した。補給隊を襲った。追い詰めず、帰る道を残した。
全部を、自分ひとりで決めたわけではない。クラウスが決め、兵が動き、村の人たちが家を空けた。
でも。
戦う場所を選びたいと言ったのは。
「私、が……」
声が小さくなった。
最後まで、言えなかった。
エドガーは、しばらく遥を見ていた。
「若い」
褒められたのか。
呆れられたのか。
どちらでもない気がした。
責める顔でも、称える顔でもない。ただ、そこにあるものを見た顔だった。
何か言わなければ、と思った。
謝る言葉ではない。誇る言葉でもない。
どちらも、違う気がした。
結局、遥の口は動かなかった。
エドガーがレオンへ向き直る。
「我々は」
少し、空気が変わった。
「礼を欠いたのか」
レオンは答えない。
「通してくださいと言えば、通してもらえたのだろうか」
レオンは、姿勢を正した。
そのまま、一度だけゆっくりと瞬きをした。
「撤退は明朝から始めます。約定どおり、追われぬよう」
「約束する」
レオンが、これには答えた。
エドガーは一度だけ頷き、それから、もう一度遥を見た。
「エドガー・シュタールだ」
「……はい」
「覚えておけとは言わん」
男は背を向けた。
「次に会わぬことを祈れ」
ベルグラントの旗へ向かって、歩いていく。
その背中を、遥は見送った。
エドガー・シュタール。
二万一千四百。
さっきまで、その二つは同じものだった。
今は、うまく重ならない。
「囲師には必ず闕く」は『孫子』軍争篇。包囲した敵にあえて逃げ道を残す教えです。補給を断って大軍を「痩せさせる」発想と合わせて、第一章の集大成でした。




