第13話 勝たせながら、進ませない
セルディア軍は、国境の砦を捨てた。
火も掛けず、罠も残さず、門を開けたまま退いた。
報告を受けたベルグラント軍は前進した。逃げた、と判断したのだろう。
それでいい。
高台の天幕に、地図が広げてある。風で四隅がめくれるので、拾った石で押さえた。乾いた羊皮紙の匂いに、踏み潰された下草の青い匂いが混ざる。
遥は紙の上へ手を置き、北東へ意識を向けた。
知りたいものを、一つずつ拾う。
敵本隊、二万一千四百。
糧秣の残量。兵数と一日あたりの配給量から見積もれば、通常消費で九日ほど。
補給隊、北東街道を南西へ移動中。荷車百四十二。護衛、千六百。
もう少し。
列の速さ。先頭と最後尾の距離。荷車ごとの積み荷――。
こめかみの奥に、細い針を押し込まれたような痛みが走った。視界の端が白く濁る。
「もういい」
隣からクラウスの声がした。
「あと少しです」
「顔色が悪い」
「でも、補給隊の位置と速さが分からないと」
「分かる範囲でやる」
「でも」
「そこまでで十分助かっている。あとは俺の仕事だ」
橋の夜と、同じだった。
――責任を取るために、俺がいる。
あのときは、それで黙った。
今は、口が動いた。
「……あと、荷車の間隔だけ」
「駄目だ」
「そこが分かれば、次の荷がいつ届くかが」
「倒れた軍師を運ぶ荷車の余裕はない」
「軍師じゃ――」
「今さらだ」
真顔だった。
遥は地図から手を離した。息を整えてから、もう一度、口を開く。
「糧は、九日分ありました。……たぶん、途中の村で足すつもりだった分を入れて」
「山際まで抜けるのに六日だ」
クラウスが、地図の南西へ指を滑らせた。
「あれは、その足で組まれた行軍だな」
六日で抜けて、山の向こうで戦う。
半日ずつ遅らせれば、六日は七日になり、八日になる。
そして、帰りの分を残さない軍はいない。
遥は、街道の一点へ指を置き直した。
「たぶん、ここで止まります」
「いつだ」
「七日目くらい」
「止まったら」
「そこで、交渉してください」
クラウスは、地図を見たままだった。
それから、天幕の外へ短く声をかけた。
その日の夕方、王都へ向かう早馬が、高台の下を駆けていった。
*
ベルグラント軍が、河谷へ入った。
二万という数字は、地図の上では短い。
現実の二万人は、終わりが見えなかった。
槍。盾。馬。荷車。旗。
地平から溢れ続ける鉄の色。地面を踏む音が重なって、遠雷のように途切れない。風の向きが変わるたび、汗と革と馬の匂いが高台まで届いた。
あれが、二万一千四百。
数字なら、一瞬で視える。
なのに、目では一度に見渡せない。
自分が考えた配置の中へ、その巨大な列が入ってくる。
遥の指が、外套の裾を握った。
橋の夜は、七百八十一人だった。
今度は、国が動いている。
こんなものを十八歳が考えていいのかと、まだ思う。
けれど、クラウスは言った。
――その場で使える形にしたのが、お前だ。
なら、考えるしかない。
覚えている戦を、片端から思い出す。勝った戦も、負けた戦も。
テルモピュライ。
細い道では、二万は二万として戦えない。前の列しか槍が届かず、後ろは詰まって動けない。
ロシアの冬。
遠くへ来た軍ほど、食べ物は遠くから運ばれる。運ぶ荷車も、守る兵も、その分だけ道の上に長く伸びる。伸びたものは、どこかで切れる。
四面楚歌。
追い詰められた軍は死ぬ気で戦い、帰り道のある軍は帰る。
目的は、倒すことじゃない。
ここは通れないと、向こうに決めさせること。
*
街道沿いの村から、人が退いていく。
荷車に積まれるのは、鍋と、毛布と、麻袋。袋の口から種籾がこぼれ、老人が屈んで一粒ずつ拾っていた。
「焼かんのか」
通りかかった兵に、老人が聞いた。
「焼かん」
兵が答えた。
老人はしばらく黙って、それから袋の口を丁寧に縛り直した。
遥は数えた。村を出ていく荷車。歩いている人。背負われた子ども。
視れば分かる。それでも、数えた。
ベルグラント軍は進んだ。砦を取り、村を取り、道を進んだ。
けれど、取った村に人はいない。穀物庫は空で、家畜も、運べる食糧も先に移されている。井戸と、家と、畑だけが残された。火は放たれていない。
橋は、選んで落とした。
落とせば、大軍は残った橋へ集まる。
向こうも、分かっている。
分かっていて、通る。
迂回すれば三日。三日分の食糧を捨てるより、狭い道を半日で押し通るほうが安い。
安いほうがある限り、敵は同じ道を来る。
残した橋の先は、崖と川に挟まれた細い道になっていた。
セルディア軍は、その出口に立った。
前は道幅の分しか来られず、背後は開けている。
昼前に、先頭がぶつかった。
高台からは遠い。剣の音は届かず、鬨の声だけが、風に乗って切れ切れに届く。
二万一千四百のうち、その道に並べるのは四十人ほどだった。
残りは、後ろで詰まっている。
日が傾くころ、押し出してくる数が増えた。
セルディア軍は退いた。開けた場所に敵が並ぶ前に、自分から。
追う側は、四十人ずつしか出てこられない。
敵は、道を通った。
通るのに、半日かかった。
勝たせながら、進ませない。
*
六日目の夜。
北東街道の方角で、空の底が赤く滲んだ。
補給隊を襲ったセルディア兵は、護衛を殲滅しなかった。荷車を壊す。馬を逃がす。運べない糧秣に火をつける。そして、追手が集まる前に退く。
夜風が山肌を伝って、焦げた匂いを運んできた。
麦だった。
誰かが食べるはずだったものが、ぱちぱちと音を立てて燃えている。
遥は、外套の襟に顔を埋めた。
羊の匂いがした。それでも、麦は消えなかった。
*
七日目。
ベルグラント軍が、止まった。
◆ 遥が思い出した三つについて
テルモピュライ(前四八〇年)
ペルシア戦争。ギリシア側が選んだのは、山と海に挟まれた細い道でした。何万いても、一度に前へ出られるのは道幅の分だけです。三日持ちこたえましたが、山越えの間道を教えられて背後を取られ、突破されます。スパルタ王レオニダスと三百人が残って戦死した話が有名です(残ったのはスパルタ人だけではありませんでした)。ペルシア軍の規模は、ヘロドトスが百万を超えると書いていますが、いまの見積もりはもっと控えめです。
ロシアの冬(一八一二年)
ナポレオンのロシア遠征。ロシア側は正面からの決戦を避けて後退を重ね、フランス軍は勝ち進みながら、補給の線だけが伸びていきました。六十万を超えたとも言われる軍のうち、帰り着いたのはごくわずかです。ただし兵を減らしたのは冬将軍よりも、飢えと病と落伍でした。しかも、その多くは行きの道で起きています。
四面楚歌(前二〇二年)
四字熟語として知られていますが、もとは実際の戦の話です。垓下の戦いで、項羽の軍は劉邦の漢軍に囲まれました。夜、四方から楚の歌が聞こえてくる。項羽は「漢はもう楚を取ったのか、楚の人間がなぜあんなに多いのか」と驚きます。逃げ場のない軍がどうなるかの例で、このあと項羽は八百騎で囲みを突き破り、外へ出ていきました。
三つとも、大軍のほうが壊れた戦です。




