第12話 正面
翌朝、遥のもとに装束が届けられた。
白いブラウスの上に、濃紺の胴衣。金の小さなボタンが二列に並び、その上を焦茶の革帯が締める。下は同じ濃紺の、足首まで届く長いプリーツのスカート。黒い脚衣に、踵の低い黒の長靴。
そして、黒の長外套。裾と袖口に、鈍い金の細い意匠が幾何学の形で走っている。背には頭巾。
飾りらしい飾りは、襟元の蝶結びに留められた青い石だけだった。革帯の留め金の一つが、光の加減で琥珀色に見えた。
「軍師じゃないんですけど」
「陣に立つ者の見た目は、兵の士気に関わる」
クラウスは真顔でそう言った。
――そんな役目、引き受けた覚えはありません。
――というか、聞いてません。
口に出せば、たぶん「もう聞かせた」と返される。だから言わなかった。
白い衣裳は、部屋に置いていく。
鏡を見て、遥は気づいた。
昨日は、白が多かった。
今は、濃紺と黒が多い。
同じ色を使っているのに、まるで違う人間が立っていた。
袖を通すと、不思議と背筋が伸びた。外套は思ったより重く、その重さが、肩の上で覚悟の形をしていた。
*
「どこへ行くんですか」
「軍議だ」
廊下を歩きながら、クラウスは前を向いたまま答えた。
やっぱり、と遥は思う。
何とか静かにやり過ごそう。座って、聞いて、終わったら部屋へ戻る。それでいい。
扉の前で、クラウスが足を止めた。
「昨夜、俺が言ったことを覚えているか」
「……はい」
「嘘も、世辞もない」
そして、遥を見た。
「正面で、受け止めてくれ」
――正面。
その言葉が、やけに重く残った。
*
軍議の席は、謁見の間より狭かった。
卓が一つ。周りを囲むのは、十人ほど。
全員が、遥より年上だった。たぶん、全員が、私より戦を知っている。
レオンの姿はなかった。この場は軍の席だ、ということらしい。
地図が広げられる。
その瞬間、視界の端に数字が滲んだ。
街道の幅。谷の長さ。川までの距離。
誰も口にしていない数が、勝手に並んでいく。
遥は指先で、無意識にそれをなぞっていた。
クラウスが、遥の手元を見ていた。
目が合う。
彼は地図へ視線を戻し、何も言わなかった。
「では、軍師どのの案を伺おう」
誰かが言った。
軍師どの。
――誰のことだろう。
一拍おいて、自分のことだと気づいた。
喉が、渇いた。
「……あの」
声が小さい。自分でも分かる。
「もう一度」
クラウスが言った。責める調子ではなかった。
「皆に聞こえん」
真っ直ぐに、遥を見据えている。
――正面。
遥は息を吸った。
「……正面から、戦わない方がいいと思います」
卓の何人かが、顔を上げた。
「二万と六千です。ぶつかれば、負けます。だから、ぶつからない方法を」
「逃げ回れと?」
白髪の混じった将が言った。
「……逃げ回る、というか」
言葉に詰まる。
頭の中には、地図がある。河谷の形も、街道の幅も、川の位置も、全部入っている。
なのに、それを人に伝える言葉が、出てこない。
教室で「どう思う?」と聞かれたときと、同じだった。
――言え。
自分に言い聞かせる。
橋の夜も、集落の夜も、言葉にしたから何かが動いた。黙っていたら、七百八十一人は渡れなかった。
私の言葉は、人を助けられる。
「敵は、この国が欲しいわけじゃありません」
遥は地図に指を置いた。
「通りたいだけです。だから、通り道として使えなくします」
「どうやって」
「大軍ほど、たくさん食べます」
指を、河谷へ滑らせる。
「二万人は、二万人分食べます。馬も食べます。武器も壊れます。剣や槍だけじゃなくて、その後ろに、食料を運ぶ荷車があって、飼料があって、水があって、傷ついた人を運ぶ人がいる」
言いながら、少しずつ声が戻ってきた。
「強い軍隊ほど、身体の大きい生き物みたいなものだと思います。……大きいほど、食べないと動けない」
誰かが、身を乗り出した。
「だから、前じゃなくて、後ろを狙います」
「補給線か」
「はい」
「昔、それで倒れた軍がいくらでもいます。遠くまで攻めた軍が、距離と補給に削られて」
ナポレオンのロシア遠征。
名前は、口に出さない。ここでは通じない。
「加えて、街道沿いの食糧庫は、空にします。人も、先に逃がします」
「補給を断ち、進路上にも、大軍が使える人や物を残さない。……そういうことだな」
白髪の将が頷いた。
「人を払って、村は放棄か。……焼き払うのだな」
卓の空気が、当たり前のように動いた。
誰も、異論を挟まなかった。
それが常道なのだと、その静けさで分かった。
「……焼きません」
遥は言った。
「焼かねば、敵の糧になるぞ」
「中身は、運び出せます」
声が、思ったよりはっきり出た。
「でも、器は、燃やしたら戻りません」
将が、眉を寄せる。
「一年かけて実らせたものを、一晩で灰にする話です。それをやったら、敵が去ったあと、そこにいた人たちが飢えます」
――集落の、湯気の立つ鍋を思い出した。
あそこには、まだ人が帰ってこられる。焼いていないから。
沈黙が落ちた。
言い過ぎただろうか。
やっぱり、素人が口を出すことでは――。
「戦う場所を、選びたいです」
言ってしまった。
二万と六千が、開けた場所でぶつかれば、数がそのまま結果になる。
でも、狭い場所なら違う。
道の幅に入れる人数は決まっている。前の列しか戦えず、後ろは詰まって動けない。
――森で、そうだった。
千二百が、たった数十本の倒木に足を止めた。
地形は、数を削れる。
それに、大軍が通れる道は限られる。限られた道には、必ず荷車の列が伸びる。
誘い込む場所と、補給を断つ場所は、同じでいい。
だから、選びたい。
言ってから、遥は自分の言葉に気づいた。
「こうした方がいいかもしれません」ではなく。
自分から、したい、と言った。
初めてだった。
これまでは、いつも相手が決めていた。橋を落とすと決めたのはクラウスで、集落へ来ると決めたのは敵だった。私はそのたびに、決まったあとの盤面に、後から手を伸ばしていただけだ。
クラウスが、卓の上の駒を一つ動かした。
「――砦を捨てる」
将たちが、一斉に彼を見た。
遥も、意味が分からなかった。
砦は、守るための場所だ。捨てる理由が――。
そこまで考えて、繋がった。
砦がある限り、敵はそこへ来る。
だから、戦う場所はいつも敵が決めていた。
――捨てれば、選べる。
息を呑んだ。
この人は、いま、私の一言で、守るはずのものを手放した。
「敵に、逃げたと思わせる。誘い込む場所は、軍師どのが選ぶ」
「閣下、しかし」
「三倍の敵に、正面から当たって勝てる案があるなら聞く」
誰も答えなかった。
砦を捨てると言い出した人間が、その責任を一人で負う顔をしている。
私が「選びたい」と言っただけで、この人は迷いなくカードを差し出した。
――正面で、受け止めてくれ。
私が、それを。
遥は、自分の手が震えているのに気づいた。
通ってしまった。
自分の言葉が、これから六千人を動かす。
当初は12話で第一章が終わるプロットでしたが、増えてます。書きたくて、遥の成長のようなものを。




