第20話 異世界なら、私にも
やがて川が現れた。
幅の広い、ゆるやかな川だった。
軍が入っていったのは、対岸へ向かって石が点々と顔を出している一角――渡しと呼ばれる、浅い場所である。
水は膝ほどしかない。馬が渡れば、水飛沫が日を弾いて跳ねた。
岸には、水が引いたあとの筋が何本も残っている。いまの水面より、ずいぶん高いところに。
「よし……!」
夏帆が、両手で拳を作った。
「クラウスさんは追うなって言ってたけど、もう追ってきちゃったし」
敵がいる。戦場。異世界。
これだけ揃った。
そろそろ自分の出番である。
*
前のほうで隊列が組み直されるあいだ、夏帆は荷車の陰に立っていた。
「悠久の時を超えし灼熱の精霊よ! 我が呼び声に応え、紅蓮の炎となりて――!」
何も起こらなかった。
「……あれ?」
火ではないらしい。
「凍てつく永久の氷獄より来たれ!」
水でもない。
風。雷。光。闇。
「無詠唱タイプか!」
「ファイア!」
「アイス!」
「エクスプロージョン!」
何も爆発しなかった。
一通り試した。
この世界は、陽向夏帆が知っている異世界の作法に、驚くほど非協力的だった。
通りかかった兵が一度こちらを見て、それから見なかったことにして走り去った。
「そうだ、スキル! 鑑定やってみよう」
夏帆が、走り去った背中へ手をかざす。
――おかしな娘だな。
「おかしくない! おかしいのは世界のほう!」
兵は振り返らず、そのまま行ってしまった。
その頃には、戦場の様子が変わっていた。
東国軍が反転した。
退いていた列が足を止め、旗が向きを変える。
さらに、別方向から兵が現れた。
草の丈より低く伏せていた兵が、合図とともに一斉に立ち上がる。地面が起き上がったように見えた。
「伏兵だ!」
その数は、退いていった敵より多かった。
「……逃げてたのに」
セルディア軍が乱れる。
声の種類が変わった。命令の声から、名前を呼ぶ声へ。
夏帆は、前へは出ていなかった。
荷車から降りてはいたが、約束は守っていた。
前へ出なくても、戦場のほうが後方まで迫ってきた。
荷車の馬が棹立ちになり、麦の袋が転がり落ちる。御者が手綱を捨てて走った。
夏帆の近くで兵士が倒れた。
剣が地面を滑った。
「魔法がダメなら……!」
夏帆が拾う。
「フィジカルで!」
持ち上がった。
だが、そこまでだった。
「重っ……!」
両手で握る。
剣先が下がる。腕に力を入れれば、身体まで前へ引かれる。
隣では兵士が同じような剣を振るっている。
受ける。返す。速い。
剣というものは、拾えば使える道具ではなかった。
筋力。技術。経験。
どれも、持っていなかった。
横から来た敵兵が、剣を振った。
外套の裾が裂けた。
兵はそのまま走り抜けていく。夏帆を見てもいなかった。
「こんな、はずじゃ……」
夏帆の目が、剣から離れた。
倒れている兵の顔。すぐ横で剣を合わせている兵の顔。向こうから走ってくる敵の顔。
どれも、若かった。
そのときだった。
――怖い。
「え?」
振り返る。
兵士が横を走り抜ける。
――逃げたい。
「誰?」
敵兵を見る。
――死にたくない。
口は動いていない。
それでも、聞こえた。
声のようで、声ではない。
――帰りたい。
――怖い。
――助けて。
一つではなかった。
敵も。味方も。
近くの兵からも、遠くの旗の下からも、同じ強さで届いてくる。
「……待って」
夏帆が、自分の胸元を掴んだ。
「これ、誰の」
剣を握ったまま、その場に立ち尽くしている。肩が上下している。周囲の兵が走り抜けても、動かない。
「どれが、私の」
手が震えていた。
剣先が揺れて、また同じ場所に戻る。
夏帆が、空いた手で耳をふさいだ。
手の隙間から、蹄の音と、金物のぶつかる音が入ってくる。
声は、減らなかった。
「退け!」
「ここは保たん!」
戦列が崩れた。
渡ってきた浅瀬へ、人が殺到していく。
水飛沫が上がり、列が進まなくなった。膝までの水が、人と馬でかき混ぜられて濁っていく。荷車が一台、横倒しになった。
誰かが石を踏み外して、水の中に膝をついた。後ろから来た者が、その肩を掴んで引き起こす。掴まれた方は礼も言わず、そのまま走っていった。
馬が首を振り、鞍の上の兵が振り落とされそうになっている。
あれほど楽に渡れた川が、帰り道になった途端、通れなくなっていた。
「クラウスさん!」
夏帆が探す。
「クラウス!」
人の向こうに姿を見つけた。
馬上で、崩れた列へ向かって腕を振っている。声は、届いていない。
その瞬間。
今までよりも、はっきりと届いた。
――クゼ=ハルカがいてくれたなら。
クラウスの口は、動いていなかった。
周りの誰の口も、動いていなかった。
それでも、誰のものかだけは分かった。
夏帆の足が、止まった。
剣先が地面へ落ちる。刃が土に沈み、柄が横へ倒れた。
「……クラウスは、追うなって言ってた」
誰も聞いていない。
「久世さんなら、数えられたのかな」
「伏せてた人も、旗の向こうも、ぜんぶ」
魔法は出なかった。剣も使えなかった。
膝が、地面についた。
「……私じゃ、ダメなんだ」
その瞬間。
音が消えた。
*
蛍光灯。本棚。机。椅子。
「……え?」
学校の図書室だった。
窓の外は、まだ夕方だった。
スマートフォンを見る。
アンテナが立っている。電池は八割のまま。
「帰って……きた?」
膝は濡れていない。制服のどこにも、泥も、草の切れ端もついていない。
カウンターの上に、地図帳が開いたまま置かれていた。
司書はいない。
夏帆は本へ近づいた。
セルディア王国。
確かに存在している。
「夢じゃないんだ……」
ページの上を、夏帆の指がなぞる。
王都。街道。町。
その指は、東までは行かなかった。
夏帆が、顔を上げる。
「……久世さん」
開いたままのページの上で、セルディアを囲う点線の東側が、わずかに内側へ押し込まれていた。
この回まで、視点は夏帆の側にあります。地の文が彼女の内側に入らないのは、そのためです。何を考えていたかは、台詞と仕草だけで書きました。
聞こえた声には、まだ名前がありません。




