悪くない
後編です。
数日が経った。
ライアス様の顔色が、少しずつ変わっていった。
目の下のくまが薄くなった。口元の力が抜けた。食事を残さず食べるようになった。それだけのことだが、食材の声を聞きながら料理を作っている私には、わかった。
ライアス様が昼前に厨房へ来るのが、習慣になっていた。
(なんか来てる)
最初は「また作れるか」だけだった。それが少しずつ変わった。
「今日は何を使う」
「この食材は何に効く」
私は少し考えてから答えた。
「鶏肉には、眠りを助ける成分が含まれています。体の芯の緊張をほぐして、自然な眠気を誘う。香草と合わせると相乗効果があるので、今日はそうしました」
「……なぜそこまで知っている」
「食の知識は、昔から。それに——」
「それに?」
「食材が、そう言っているので」
少し間があった。
「……信じるのか、それを」
「知識と一致しているので」
また少し間があった。
「そうか」
それ以上は聞かなかった。おかしいとも言わなかった。ただ「そうか」と言って、今日の食材を見た。
(変な人だ)
変、というより——信じるのが早い人だと思った。
食材の声を信じる、と言ったとき、「そうか」の一言で終わらせた人は初めてだった。
(関係ないけど)
鍋を火にかけた。
---
ある午後のことだった。
仕込みが終わって、次の準備まで時間があった。
厨房は静かだった。窓から差し込む午後の光が、床にまっすぐ伸びていた。
(少し、座ろう)
椅子を引いて、腰を下ろした。
前世でも今世でも、こんなに静かな午後は久しぶりだった。蛍光灯の代わりに窓の光があって、消毒液の匂いの代わりに香草の匂いがして、山積みの書類の代わりに——何もない。
(悪くない)
目を閉じると、光が瞼の裏に温かく滲んだ。
——気がついたら、眠っていた。
---
どれくらい経ったのか、わからなかった。
窓の光が、少し傾いている。
ゆっくりと顔を上げると——ライアス様が、壁にもたれて眠っていた。
書類が膝の上にある。いつの間に来たのか、まったく気づかなかった。
眉間のしわが、消えていた。
よく眠れている顔だ、と思った。
それから——なぜか、ほっとした。
(……ちゃんと眠れていますか、公爵様)
昔からの習慣が抜けない。眠っている人の顔を見ると、まず体調を確かめてしまう。
今は患者じゃない。雇い主だ。それはわかっている。
どうしようかと思っていたら、ライアス様が目を開けた。
金色の瞳が、静かにこちらを確認する。
二人、しばらく無言だった。
「……悪かった」
ライアス様が先に言った。
「いえ」
でも、ライアス様は立ち上がらなかった。
私も、なぜか立てなかった。
厨房に、静かな午後の光が差し込んでいる。
「……ここは」
ライアス様が、ぽつりと言った。
「落ち着く」
私は少し考えた。
「厨房が、ですか」
「……ああ」
少し間があった。
「お前がいると、なおさら」
返す言葉を探した。でも、うまく見つからなかった。
(なんだそれ)
心の中でそう思ったが、なぜか悪い気はしなかった。
ゆっくりと息を吐いた。
そうか、と思った。
地味すぎると言われたこの静けさが——この人には、落ち着くらしい。
(まあ、いい)
---
婚約破棄されて、やっと休めると思った。
なのに今、眠れなかった公爵様の隣で、私も眠っていた。
(休みたかっただけなのに)
でも——
この厨房の静けさも、食材の声も、眉間のしわが消えたあの顔も。
今世の休み方も、どうやらまた間違えているらしい。
でも今回は。
(……悪くない)
そう思う自分が、少し、おかしかった。
最後まで読んでいただきありがとうございます。
これからは、自分のペースで執筆をつづけていくつもりです。
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