また働いている
中編です
公爵邸の厨房は、広かった。
天井が高くて、窓から朝の光が差し込んでいて、食材の種類も豊富だった。
(悪くない)
前世の職場を思い出した。白い蛍光灯の下、狭い調理室で立ちっぱなし。ここはあの頃とは比べ物にならない。
私はまず、棚に並んだ食材に手を伸ばした。
これが、転生してから持っている唯一の特技だ。
食材に触れると、声が聞こえる。効能と、最適な調理法が、本能のように流れ込んでくる。どうしてこんなものが身についたのかはわからない。転生したときから、ただそこにあった。
鶏肉に手を当てると、静かな声が返ってきた。
「緊張をほぐすのが得意。ゆっくり、時間をかけて煮込んで」
香草の束を持ち上げると、別の声が重なる。
「私と合わせて。深い眠りを助ける」
根菜を手に取ると、また別の声。
「体の芯から温める。今日の彼には必要だと思う」
(今日の彼)
食材が「彼」と言ったことが、少し引っかかった。
昨日ペリーから聞いた言葉が頭に残っていた。「公爵様は、長らくよくお眠りになれていないのです」
余計なことはしない、と思った。ただ料理を作って出すだけ。それが私の仕事だ。
でも、食材が呼んでいる。
前世でも、患者の食事制限を考え始めると止まらなかった。職業病というやつだ。
(……仕方ない)
私は鶏肉と香草と根菜を手に取り、作り始めた。
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昼食を運んでいったとき、初めて公爵様を見た。
執務室の机の前に座っていた。
黒い髪。金色の瞳が書類の上を走っている。肩幅があって、姿勢がいい。一目で、仕事ができる人間だとわかる佇まいだった。
顔色が悪かった。目の下にくまがある。口元に力が入っている。体だけが、悲鳴を上げているようだった。
(仕事しすぎだ、この人)
前世から抜けない癖だ。人の顔を見ると、どうしても体調が先に目に入る。
「昼食をお持ちしました」
「置いておけ」
書類から目を上げなかった。
(わかった)
私は音を立てずに皿を置いて、下がった。
執務室を出るとき、背後で紙をめくる音がした。それだけだった。
不思議と、静かな人だと思った。
怒鳴らない。夜会でエドガー様がしたことを、この人はしない。
(関係ないことだけど)
廊下を歩きながら、なぜかそのことが頭に残った。
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夕方、空になった皿が戻ってきた。
ペリーが運んできて、少し驚いた顔をしていた。
「……珍しいことです」
「何がですか」
「公爵様が、昼食を残さず召し上がったのは。食欲がないとおっしゃって、いつも半分ほど残されるので」
「そうですか」
(食材の声は正しかった)
前世でも、食事指導がうまくいったとき、患者の顔色がよくなるのを見るのは——嫌いではなかった。それで結局、あの仕事を続けていたのだと、今になって思う。
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翌朝、ペリーが厨房に来た。
「フィーナ様」
「はい」
「公爵様が——昨夜、久しぶりによくお眠りになられたそうです」
私は手を止めた。
「……そうですか」
「ええ。側仕えの者が言うには、何十日ぶりかと」
(食材の声、当たった)
胸の中で、静かにそう思った。別に嬉しいわけではない。
でも——何十日も眠れていなかった人が、初めて眠れた。
それを聞いて、何も感じないかと言われれば——少し嘘になる。
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昼前、足音が聞こえた。
廊下から、まっすぐこちらへ向かってくる足音。速くも遅くもない、迷いのない歩き方。
公爵様が厨房の入口に立った。
ペリーが後ろで少し慌てている。公爵様自らここへ来るのは珍しいことらしい。
金色の瞳が、静かに私の顔を確認した。昨日と同じ目だった。感情の読めない、真っ直ぐな目。
「昨夜の料理」
「はい」
「また作れるか」
短い言葉だった。催促でも命令でもなく、ただ確認するような口調だった。責める色も、急かす色も、どこにもなかった。
「……作れます」
「頼む」
それだけ言って、踵を返した。
(口数が少ない人だ)
廊下へ戻っていく背中を、私はしばらく見ていた。
飾り気がない。それだけなのに。
(……静かな人だ)
なぜかそれが、少し、落ち着いた。
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その夜、食材の声を聞きながら鍋をかき混ぜていると、ふと気づいた。
休みたいと思っていたはずだった。
前世でも今世でも、ずっとそう思っていた。
なのに今、眠れない公爵様の体調を考えながら献立を組んでいる。食材の声に耳を傾けながら、今日は何が効くかを真剣に考えている。
(休みたいだけなのに)
包丁を置いて、天井を仰いだ。
(……また働いている)
まあ、いい。
ただ——明日の朝、あの人の顔色が少し良くなっていたら。
それだけは、少し楽しみだと思っていた。
最後まで読んでいただきありがとうございます。
これからは、自分のペースで執筆をつづけていくつもりです。
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