表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

PR
2/13

また働いている

中編です

 公爵邸の厨房は、広かった。


 天井が高くて、窓から朝の光が差し込んでいて、食材の種類も豊富だった。


(悪くない)


 前世の職場を思い出した。白い蛍光灯の下、狭い調理室で立ちっぱなし。ここはあの頃とは比べ物にならない。


 私はまず、棚に並んだ食材に手を伸ばした。


 これが、転生してから持っている唯一の特技だ。


 食材に触れると、声が聞こえる。効能と、最適な調理法が、本能のように流れ込んでくる。どうしてこんなものが身についたのかはわからない。転生したときから、ただそこにあった。


 鶏肉に手を当てると、静かな声が返ってきた。


「緊張をほぐすのが得意。ゆっくり、時間をかけて煮込んで」


 香草の束を持ち上げると、別の声が重なる。


「私と合わせて。深い眠りを助ける」


 根菜を手に取ると、また別の声。


「体の芯から温める。今日の彼には必要だと思う」


(今日の彼)


 食材が「彼」と言ったことが、少し引っかかった。


 昨日ペリーから聞いた言葉が頭に残っていた。「公爵様は、長らくよくお眠りになれていないのです」


 余計なことはしない、と思った。ただ料理を作って出すだけ。それが私の仕事だ。


 でも、食材が呼んでいる。


 前世でも、患者の食事制限を考え始めると止まらなかった。職業病というやつだ。


(……仕方ない)


 私は鶏肉と香草と根菜を手に取り、作り始めた。


 ---


 昼食を運んでいったとき、初めて公爵様を見た。


 執務室の机の前に座っていた。


 黒い髪。金色の瞳が書類の上を走っている。肩幅があって、姿勢がいい。一目で、仕事ができる人間だとわかる佇まいだった。


 顔色が悪かった。目の下にくまがある。口元に力が入っている。体だけが、悲鳴を上げているようだった。


(仕事しすぎだ、この人)


 前世から抜けない癖だ。人の顔を見ると、どうしても体調が先に目に入る。


「昼食をお持ちしました」


「置いておけ」


 書類から目を上げなかった。


(わかった)


 私は音を立てずに皿を置いて、下がった。


 執務室を出るとき、背後で紙をめくる音がした。それだけだった。


 不思議と、静かな人だと思った。


 怒鳴らない。夜会でエドガー様がしたことを、この人はしない。


(関係ないことだけど)


 廊下を歩きながら、なぜかそのことが頭に残った。


 ---


 夕方、空になった皿が戻ってきた。


 ペリーが運んできて、少し驚いた顔をしていた。


「……珍しいことです」


「何がですか」


「公爵様が、昼食を残さず召し上がったのは。食欲がないとおっしゃって、いつも半分ほど残されるので」


「そうですか」


(食材の声は正しかった)


 前世でも、食事指導がうまくいったとき、患者の顔色がよくなるのを見るのは——嫌いではなかった。それで結局、あの仕事を続けていたのだと、今になって思う。


 ---


 翌朝、ペリーが厨房に来た。


「フィーナ様」


「はい」


「公爵様が——昨夜、久しぶりによくお眠りになられたそうです」


 私は手を止めた。


「……そうですか」


「ええ。側仕えの者が言うには、何十日ぶりかと」


(食材の声、当たった)


 胸の中で、静かにそう思った。別に嬉しいわけではない。


 でも——何十日も眠れていなかった人が、初めて眠れた。


 それを聞いて、何も感じないかと言われれば——少し嘘になる。


 ---


 昼前、足音が聞こえた。


 廊下から、まっすぐこちらへ向かってくる足音。速くも遅くもない、迷いのない歩き方。


 公爵様が厨房の入口に立った。


 ペリーが後ろで少し慌てている。公爵様自らここへ来るのは珍しいことらしい。


 金色の瞳が、静かに私の顔を確認した。昨日と同じ目だった。感情の読めない、真っ直ぐな目。


「昨夜の料理」


「はい」


「また作れるか」


 短い言葉だった。催促でも命令でもなく、ただ確認するような口調だった。責める色も、急かす色も、どこにもなかった。


「……作れます」


「頼む」


 それだけ言って、踵を返した。


(口数が少ない人だ)


 廊下へ戻っていく背中を、私はしばらく見ていた。


 飾り気がない。それだけなのに。


(……静かな人だ)


 なぜかそれが、少し、落ち着いた。


 ---


 その夜、食材の声を聞きながら鍋をかき混ぜていると、ふと気づいた。


 休みたいと思っていたはずだった。


 前世でも今世でも、ずっとそう思っていた。


 なのに今、眠れない公爵様の体調を考えながら献立を組んでいる。食材の声に耳を傾けながら、今日は何が効くかを真剣に考えている。


(休みたいだけなのに)


 包丁を置いて、天井を仰いだ。


(……また働いている)


 まあ、いい。


 ただ——明日の朝、あの人の顔色が少し良くなっていたら。


 それだけは、少し楽しみだと思っていた。


最後まで読んでいただきありがとうございます。

これからは、自分のペースで執筆をつづけていくつもりです。


評価やブックマークで応援していただけると励みになります。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ