第10話 夜の厨房
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深夜に、厨房に人の気配がした。
私は眠れなくて、水を飲みに来ていた。廊下を歩いていたら、厨房の扉の隙間から光が漏れていた。
扉を開けると、ライアス様が立っていた。
コップを持って、水を飲んでいた。それだけだった。
「……フィーナ」
「……ライアス様」
二人、しばらく無言だった。
ライアス様の手元に、食べかけのパンがあった。薄い、乾いたパン。厨房の端に置いてあった残り物だ。
「夕食を食べていないのですか」
「……会議が長引いた」
「それはいつですか」
「昼過ぎから」
「つまり、昼から何も食べていない」
ライアス様は答えなかった。
私は割烹着を取った。
「何か作ります」
「夜中に手を煩わせることはない」
「夜中に乾いたパン一枚で済ませる方が、私には煩わしいです」
ライアス様が少し黙った。
反論しなかった。
私は食材の棚を確認した。深夜だから、新鮮なものは少ない。でも——卵がある。残り野菜がある。昨日の出汁が少し残っている。
前世でも、深夜勤明けの患者に「これだけは食べてください」と渡すものを決めていた。胃に優しくて、体が温まるもの。卵と出汁は、どちらの世界でも答えが同じだった。
「十分で作れるものを作ります。座っていてください」
「……わかった」
珍しく、素直に言うことを聞いた。
ライアス様が椅子に座った。いつもの窓際の椅子。深夜の厨房は暗くて、ランプの光だけがある。
卵を溶いた。出汁を温めて、野菜を刻んで入れる。卵を流し込んで、ゆっくりかき混ぜる。
「眠れていますか、最近」
「……以前よりはいい」
「今日は眠れそうですか」
「わからない」
「会議の内容が頭に残っているとき、眠れないことがあります」
「……そうだ」
「何か飲みますか。眠りに向く食材で作れます」
「今作っているものがある」
「これは食事です。飲み物は別に作れます」
ライアス様が少し黙った。
「……頼む」
鍋の横に、小鍋をもう一つかけた。牛乳と、乾燥させた香草。蜂蜜を少し。加熱しながらゆっくり混ぜる。
厨房に、温かい匂いが広がった。
「香草の種類によって、味が変わるのか」
「変わります。眠りに向くものは少し甘い香りがします」
「……甘い」
「苦手ですか」
「いや」
卵の雑炊が仕上がった。小さな椀に盛って、ライアス様の前に置いた。
「熱いので、少し待ってください」
ライアス様は湯気を眺めていた。
私は香草のホットミルクを仕上げて、それも置いた。
ライアス様がカップを手に取った。一口飲んで、少し動いた。
「……甘い」
「蜂蜜を入れました」
椀に手を伸ばした。
一口食べた。
「……温かい」
「卵が体を温めます。胃に優しいので、夜中に食べても重くない」
「なぜそこまで知っている」
「前世でも、深夜に食べることが続いていたので。患者に勧めるものと、自分が夜中に食べるものが、だいたい同じでした」
「……お前も、深夜に一人で食べていたのか」
「はい。いつも」
ライアス様が少し黙った。
「今は」
「今は厨房があるので」
ライアス様の口元が、わずかに動いた。
「……お前と食べている」
「……はい」
深夜のランプの光の中では、表情が昼間よりわかりやすい。
「……フィーナ」
「はい」
「お前も、眠れないのか」
私は少し考えた。
「今夜は、もう眠れそうです」
「そうか」
ライアス様が立ち上がった。椀とカップを、律儀に流しの横に置いた。
「世話になった」
「料理人の仕事です」
扉の方へ歩いていって、一度振り返った。
「……また、頼むかもしれない」
「夕食を食べていただければ、その必要はなくなります」
「……善処する」
扉が閉まった。
後片付けをしながら、前世のことを思った。深夜に一人で食べていたあの頃と、今と——どちらが恵まれているかは、もう考えるまでもなかった。
灯りを落とした。
来てよかった、と思った。
そう思う自分が、少し——おかしかった。
最後まで読んでいただきありがとうございます。
これからは、自分のペースで執筆をつづけていくつもりです。
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