第四 聞けない学生
ヴェレンの学生通りには学生を泊める宿が軒を並べていて、宿の娘は学生に物を言うとき、母親から教わった遠回しの言い方をする。通りは夜まで窓が開いていて、はっきり言えば隣の宿まで聞こえるからだという。訳語学院の学生だけはこれに弱い。学院の流儀では、語は辞書に書いてあるとおりの意味で取り、辞書にない意味は取らない。これは語った学生が自分のことだと言った話で、語るあいだも辞書を膝に置いていた。
学生は芽吹きの月に学院へ入り、学生通りの宿の二階に部屋を借りた。宿は母親と娘の二人で切り回していて、娘は学生に膳を運び、灯の油を足し、朝は戸口で見送った。娘が学生を好いたのは青葉の月で、好いたことを娘は宿の言い回しで言った。今夜は灯の油が切れております、と娘は膳を下げながら言った。宿の言い回しでは、灯を早く落とすから暗くなったら来てよい、という意味で、学生通りの娘ならみな知っている。夜に読む本があったので、学生は、それは困る、と言った。
日が暮れてから、学生は徳利を提げて通りの端の油屋へ行った。油屋はもう戸を閉めていて、学生は戸を叩き、油屋が出てくるまで叩き、出てきた油屋に、宿の油が切れたと言って徳利いっぱいに油を買った。叩く音で隣の宿の学生たちが窓を開けて何事かと聞き、油が切れたのだと学生は答えた。宿へ戻ると、学生は一階と二階の灯に油を足して回り、自分の部屋の灯をいちばん明るくして、夜半まで本を読んだ。娘は暗くした部屋で待ち、二階の明かりが階段に落ちているのを見ていた。
次の日の夕方、娘はもう一度言った。裏の戸は、風で開きます、と娘は言った。宿の言い回しでは、裏の戸の閂を掛けずにおくから、そこから上がってよい、という意味である。学生は裏の戸を見に行き、閂が掛かっていないのを見て、風で開くのは不用心だと思った。学生は隣の宿で金槌と釘を借り、裏の戸に板を打ちつけた。板は三枚で釘は十二本で、打ち終わったのは夜半だった。打つ音で通りじゅうの窓が開き、娘は夜中に裏の戸を見に下りて、板を見て、部屋へ戻った。母親は寝床の中で金槌の音を数えていた。
三日目、娘は母親の前で言うことにした。母は、夜になると耳が遠くなります、と娘は学生の膳を置きながら言った。宿の言い回しでは、母親は寝入ると起きないから遠慮は要らない、という意味で、母親の前で言うのが娘の精一杯だった。学生は母親を見たが、母親は五十に手が届く歳で、昼の耳は確かだった。学生は、夜に耳が遠くなる人には昼のうちに言っておくのがよいと考え、膳の前で、母親に向かって大きな声で言った。灯の油が切れると聞いたので、油屋の戸を叩いて買ってきました。裏の戸が風で開くと聞いたので、板を打ちつけました。夜になると耳が遠くなると聞いたので、いま大きな声で言っています。
声は通りまで届き、母親は箸を置いた。宿の言い回しは母親が娘に教えたもので、教える前は母親が自分で使ったものだった。母親は学生ではなく娘を見た。娘は膳を抱えたまま赤くなり、台所へ逃げた。母親は学生に、耳はよく聞こえる、と言った。それから台所へ行って戸を閉めた。戸の向こうで母親の声がし、娘の声がし、隣の宿の学生たちが窓を開けて聞いていた。油屋の話と裏の戸の話は、その夜のうちに通りの端まで行った。
娘はその日から宿の言い回しを使わなかった。朝、戸口で学生を見送るときに、娘は一度だけ言った。あんたは字が読めても、人が読めない。学生は学院へ行って、訳語の辞書を引いた。人を読む、は辞書になかった。
女将の字で、六年前の花冠の月、ヴェレンの学生、辞書は膝の上、娘のことは聞いても答えなかった、とある。
私が足したのは、油屋の戸を叩いた、のくだりだけだ。書き取りには、油を買いに出た、とだけある。




