第九話 数字を操る女
第九話 数字を操る女
王都グランセリアの冬は冷たい。
石畳を渡る風には雪の匂いが混じり、吐く息は白く夜へ溶けていく。
王立劇場では今夜、シュタイン商公国との新規交易締結を祝う晩餐会が開かれていた。
巨大なシャンデリア。
金の装飾。
磨き抜かれた床。
香水と酒の匂いが混ざり合う豪奢な空間の中、貴族たちは皆ひそひそと同じ名前を囁いている。
「見た?」
「シュタインの監査官……」
「まるで別人だわ……」
フェリックス・フォン・グラナードは、その囁きの先へ視線を向けた。
そして息を呑む。
会場中央。
人波の向こう。
黒と金のドレスを纏った女がいた。
漆黒の生地には細い金糸が流れるように刺繍され、歩くたび夜空へ星を散らしたみたいに輝く。太腿まで入ったスリットから白い脚が覗き、腰の曲線は鋭いほど美しかった。
胸元は深く開いている。
だが下品さはない。
むしろ堂々としていた。
肌を隠していた頃よりずっと、気高い。
長い黒髪が背中を流れ、金の耳飾りが揺れる。
その姿を見た瞬間、フェリックスは理解した。
ああ。
綺麗になった。
本当に。
昔のカトレアは、いつも自分を縮めていた。
地味な灰色ドレスを着て、目立たないように笑っていた。
誰かに譲る前提で生きていた。
だが今の彼女は違う。
空間の中心に立っている。
誰にも奪われない顔で。
「……カトレア」
思わず名前が漏れる。
彼女がこちらを見た。
一瞬だけ目が合う。
紫がかった黒い瞳。
昔よりずっと柔らかい。
けれど芯がある。
逃げない目だった。
カトレアは静かに近づいてくる。
ヒールの音がゆっくり響く。
フェリックスは妙に緊張した。
婚約していた頃より、ずっと。
「お久しぶりです、フェリックス様」
落ち着いた声だった。
フェリックスは苦笑する。
「ああ……久しぶりだな」
近くで見ると、ますます息を呑んだ。
胸元の曲線。
艶のある肌。
香水の甘い残り香。
けれど何より変わったのは表情だった。
昔はどこか空虚だった。
今は違う。
ちゃんと感情が宿っている。
「綺麗になったな……」
気づけば口にしていた。
カトレアは少し目を丸くし、それから静かに笑った。
「あの時の土下座のおかげです」
フェリックスもつられて笑う。
「そんな成長の仕方、普通はしない」
「わたくしもそう思います」
くすり、と。
昔の彼女なら絶対にしなかった笑い方だった。
自然で、肩の力が抜けている。
フェリックスの胸が少し痛む。
こんな顔をする女だったのか。
自分は何も知らなかった。
「……元気そうで安心した」
「はい。おかげさまで」
「シュタイン商会で随分活躍しているらしいな」
「働きやすい職場です」
「職場って言うな」
思わず笑ってしまう。
カトレアも肩を揺らした。
その仕草が妙に艶っぽくて、フェリックスは視線を逸らした。
昔は意識したこともなかったのに。
「エルスワイン家は完全に潰れた」
ぽつりとフェリックスが言う。
カトレアは静かに頷いた。
「聞いております」
「恨んでるか?」
「いいえ」
即答だった。
フェリックスは少し驚く。
カトレアは窓の外を見た。
雪が降り始めている。
白い結晶が夜空をゆっくり落ちていた。
「……昔のわたくしは、数字に縛られていました」
静かな声。
「損を出さないように。怒らせないように。嫌われないように」
その横顔は穏やかだった。
「全部、“処理”しようとしていたのです」
フェリックスは何も言えなかった。
わかるからだ。
彼女がどれほど必死だったのか。
壊れるほど。
「でも」
カトレアがこちらを見る。
黒と金のドレスが灯りを受け、ゆらりと輝いた。
「今は違います」
その瞳には確かな熱があった。
「私はもう、数字の奴隷ではありません」
フェリックスの胸が強く鳴る。
ああ。
本当に変わったのだ。
昔の彼女なら、“奴隷”なんて言葉を使わなかった。
自分を犠牲にすることを当然だと思っていた。
けれど今の彼女は、自分の人生を自分のものとして語っている。
それが嬉しくて。
同時に、少し寂しかった。
「……後悔してる」
気づけばそう漏れていた。
カトレアが瞬く。
「何をです?」
「君を守りきれなかったことを」
しん、と空気が静まる。
遠くで楽団がワルツを奏でている。
だが二人の間だけ、時間が止まったみたいだった。
フェリックスは苦く笑う。
「もっと早く、君をあの家から引きずり出すべきだった」
カトレアはしばらく黙っていた。
やがて、ふっと柔らかく笑う。
「フェリックス様」
「ん?」
「わたくし、今は幸せです」
その一言が、妙に胸へ沁みた。
作り物じゃない笑顔だった。
フェリックスはゆっくり息を吐く。
「……なら良かった」
本心だった。
心から。
その時、背後から低い声が響く。
「随分楽しそうだな」
振り返る。
クロード・シュタインだった。
黒の礼装姿で立つ彼は、相変わらず危険な色気を纏っている。
そして自然な動作で、カトレアの腰へ手を回した。
フェリックスは苦笑する。
「過保護だな」
「当然だ」
クロードは平然と言った。
「彼女はうちの最高利益だからな」
カトレアが呆れたように笑う。
「またそういう言い方を……」
だが、その声はどこか嬉しそうだった。
フェリックスは二人を見つめながら思う。
もう大丈夫だ、と。
あの壊れそうだった令嬢は、ようやく自分の人生を手に入れたのだと。




