表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

9/11

第九話 数字を操る女

第九話 数字を操る女


 王都グランセリアの冬は冷たい。


 石畳を渡る風には雪の匂いが混じり、吐く息は白く夜へ溶けていく。


 王立劇場では今夜、シュタイン商公国との新規交易締結を祝う晩餐会が開かれていた。


 巨大なシャンデリア。


 金の装飾。


 磨き抜かれた床。


 香水と酒の匂いが混ざり合う豪奢な空間の中、貴族たちは皆ひそひそと同じ名前を囁いている。


「見た?」

「シュタインの監査官……」

「まるで別人だわ……」


 フェリックス・フォン・グラナードは、その囁きの先へ視線を向けた。


 そして息を呑む。


 会場中央。


 人波の向こう。


 黒と金のドレスを纏った女がいた。


 漆黒の生地には細い金糸が流れるように刺繍され、歩くたび夜空へ星を散らしたみたいに輝く。太腿まで入ったスリットから白い脚が覗き、腰の曲線は鋭いほど美しかった。


 胸元は深く開いている。


 だが下品さはない。


 むしろ堂々としていた。


 肌を隠していた頃よりずっと、気高い。


 長い黒髪が背中を流れ、金の耳飾りが揺れる。


 その姿を見た瞬間、フェリックスは理解した。


 ああ。


 綺麗になった。


 本当に。


 昔のカトレアは、いつも自分を縮めていた。


 地味な灰色ドレスを着て、目立たないように笑っていた。


 誰かに譲る前提で生きていた。


 だが今の彼女は違う。


 空間の中心に立っている。


 誰にも奪われない顔で。


「……カトレア」


 思わず名前が漏れる。


 彼女がこちらを見た。


 一瞬だけ目が合う。


 紫がかった黒い瞳。


 昔よりずっと柔らかい。


 けれど芯がある。


 逃げない目だった。


 カトレアは静かに近づいてくる。


 ヒールの音がゆっくり響く。


 フェリックスは妙に緊張した。


 婚約していた頃より、ずっと。


「お久しぶりです、フェリックス様」


 落ち着いた声だった。


 フェリックスは苦笑する。


「ああ……久しぶりだな」


 近くで見ると、ますます息を呑んだ。


 胸元の曲線。


 艶のある肌。


 香水の甘い残り香。


 けれど何より変わったのは表情だった。


 昔はどこか空虚だった。


 今は違う。


 ちゃんと感情が宿っている。


「綺麗になったな……」


 気づけば口にしていた。


 カトレアは少し目を丸くし、それから静かに笑った。


「あの時の土下座のおかげです」


 フェリックスもつられて笑う。


「そんな成長の仕方、普通はしない」


「わたくしもそう思います」


 くすり、と。


 昔の彼女なら絶対にしなかった笑い方だった。


 自然で、肩の力が抜けている。


 フェリックスの胸が少し痛む。


 こんな顔をする女だったのか。


 自分は何も知らなかった。


「……元気そうで安心した」


「はい。おかげさまで」


「シュタイン商会で随分活躍しているらしいな」


「働きやすい職場です」


「職場って言うな」


 思わず笑ってしまう。


 カトレアも肩を揺らした。


 その仕草が妙に艶っぽくて、フェリックスは視線を逸らした。


 昔は意識したこともなかったのに。


「エルスワイン家は完全に潰れた」


 ぽつりとフェリックスが言う。


 カトレアは静かに頷いた。


「聞いております」


「恨んでるか?」


「いいえ」


 即答だった。


 フェリックスは少し驚く。


 カトレアは窓の外を見た。


 雪が降り始めている。


 白い結晶が夜空をゆっくり落ちていた。


「……昔のわたくしは、数字に縛られていました」


 静かな声。


「損を出さないように。怒らせないように。嫌われないように」


 その横顔は穏やかだった。


「全部、“処理”しようとしていたのです」


 フェリックスは何も言えなかった。


 わかるからだ。


 彼女がどれほど必死だったのか。


 壊れるほど。


「でも」


 カトレアがこちらを見る。


 黒と金のドレスが灯りを受け、ゆらりと輝いた。


「今は違います」


 その瞳には確かな熱があった。


「私はもう、数字の奴隷ではありません」


 フェリックスの胸が強く鳴る。


 ああ。


 本当に変わったのだ。


 昔の彼女なら、“奴隷”なんて言葉を使わなかった。


 自分を犠牲にすることを当然だと思っていた。


 けれど今の彼女は、自分の人生を自分のものとして語っている。


 それが嬉しくて。


 同時に、少し寂しかった。


「……後悔してる」


 気づけばそう漏れていた。


 カトレアが瞬く。


「何をです?」


「君を守りきれなかったことを」


 しん、と空気が静まる。


 遠くで楽団がワルツを奏でている。


 だが二人の間だけ、時間が止まったみたいだった。


 フェリックスは苦く笑う。


「もっと早く、君をあの家から引きずり出すべきだった」


 カトレアはしばらく黙っていた。


 やがて、ふっと柔らかく笑う。


「フェリックス様」


「ん?」


「わたくし、今は幸せです」


 その一言が、妙に胸へ沁みた。


 作り物じゃない笑顔だった。


 フェリックスはゆっくり息を吐く。


「……なら良かった」


 本心だった。


 心から。


 その時、背後から低い声が響く。


「随分楽しそうだな」


 振り返る。


 クロード・シュタインだった。


 黒の礼装姿で立つ彼は、相変わらず危険な色気を纏っている。


 そして自然な動作で、カトレアの腰へ手を回した。


 フェリックスは苦笑する。


「過保護だな」


「当然だ」


 クロードは平然と言った。


「彼女はうちの最高利益だからな」


 カトレアが呆れたように笑う。


「またそういう言い方を……」


 だが、その声はどこか嬉しそうだった。


 フェリックスは二人を見つめながら思う。


 もう大丈夫だ、と。


 あの壊れそうだった令嬢は、ようやく自分の人生を手に入れたのだと。



評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ