第八話 124着分の請求書
第八話 124着分の請求書
エルスワイン伯爵邸の応接間には、紙の擦れる音だけが響いていた。
さらさら、と。
乾いた筆記音。
それが妙に静かで、妙に恐ろしい。
カトレアは長机の中央へ座っていた。
深緑のサテンドレス。
滑らかな光沢を持つ生地は、灯りを受けるたび濡れた森みたいな色を浮かべる。胸元は大きく開き、白い肌の中央でエメラルドが揺れていた。
昔の灰色ドレス姿を知る者なら、誰も同一人物だとは思えないだろう。
だが彼女自身は、落ち着いていた。
むしろ驚くほど冷静だった。
「次を」
静かな声。
秘書が即座に書類を差し出す。
「はい。衣装管理記録その四十六です」
カトレアは書類へ視線を落とした。
紙からはインクの匂いがする。
懐かしい匂いだった。
前世でも、こうして数字と向き合っていた。
違うのは、今は“自分の損失”を計算していることだ。
向かい側では、リリーが半泣きになっていた。
「お姉様ぁ……もうやめてくださいぃ……」
涙で化粧が崩れている。
薄桃色の唇は震え、肩も小刻みに揺れていた。
だがカトレアは淡々としている。
「やめる理由がありません」
「そんな……!」
リリーは机へ身を乗り出した。
「家族でしょう!?」
その言葉に、カトレアの手がぴたりと止まる。
一瞬だけ、沈黙。
昔なら、その一言で全部譲っていた。
“家族だから仕方ない”と。
けれど今は違う。
カトレアはゆっくり顔を上げた。
「はい。家族でした」
静かな声だった。
その“でした”という言い方に、リリーの顔が引きつる。
「お姉様……怒ってるの?」
「いいえ」
「絶対怒ってる!」
「怒っていません」
本当に、怒りはなかった。
むしろ不思議なくらい感情が静かだ。
数字を整理している時の自分に近い。
だからこそ恐ろしい。
カトレアは一枚の請求書を机へ置いた。
「まず、ドレス百二十四着」
どさり。
紙束が積まれる。
伯爵が青ざめた。
「ひゃ、百二十四……!?」
「うち、完全損壊二十七着。ワイン染み三十二着。香水変質十四着。無断サイズ変更四十一着」
「そんな細かいことまで!?」
「当然です」
カトレアは即答した。
「衣装資産管理の基本ですので」
リリーが涙声で叫ぶ。
「だって、お姉様いつも笑ってたじゃない!」
カトレアは静かに彼女を見る。
その瞳にはもう、怯えも遠慮もない。
「ええ。笑っていました」
「なら良いじゃない!」
「良くありません」
きっぱりした声だった。
「私は“嫌だ”と言えなかっただけです」
その言葉に、部屋が静まる。
伯爵も継母も言葉を失っていた。
カトレアは再び視線を落とし、次の書類をめくる。
「続いて宝飾十九点」
また紙束が積まれる。
「サファイア首飾り、ダイヤティアラ、真珠耳飾り、エメラルドブローチ――」
「ちょ、ちょっと待って!」
リリーが悲鳴を上げた。
「そんなの全部、お姉様が貸してくださったんでしょう!?」
「返却義務付きです」
「聞いてない!」
「借用契約は口頭でも成立します」
リリーが絶句する。
カトレアは静かに紅茶を飲んだ。
深緑のドレス越しに白い胸元が揺れる。
昔なら視線を避けていた仕草だった。
だが今は違う。
彼女は自分の身体を隠さない。
隠さなくて良いと知ったからだ。
「ひどい……」
リリーがぽろぽろ涙を零す。
「お姉様ひどい!」
継母も震える声で言った。
「カトレア、そこまで追い詰めなくても……!」
するとカトレアは、ゆっくり微笑んだ。
美しい微笑みだった。
けれど冷たい。
「ひどい?」
彼女は首を傾げる。
「いいえ。適正価格です」
ぞくり、と空気が冷えた。
伯爵が机を叩く。
「カトレア! 家族相手に金を取る気か!?」
「未払い債務ですので」
「お前は血も涙もないのか!」
その瞬間だった。
カトレアの瞳が、ほんの少しだけ揺れた。
血も涙もない。
昔の自分なら、その言葉で崩れていただろう。
謝って。
譲って。
また全部抱え込んでいた。
けれど今は違う。
クロードの声が脳裏によみがえる。
『君の価値を決めるのは、他人ではない』
胸の奥が静かに熱くなる。
カトレアはゆっくり立ち上がった。
深緑のサテンが光を滑る。
胸元のエメラルドが、まるで冷たい炎みたいに揺れた。
「お父様」
静かな声。
「私は今まで、皆さんのために働いてきました」
伯爵が黙る。
「支払いを処理し、借金を整理し、契約を更新し、在庫を管理していました」
カトレアは自嘲気味に笑った。
「でも誰も、それを“当然”だと思っていた」
リリーの顔が青ざめる。
「わたくしは……」
「ええ。あなたは悪気がなかったのでしょう」
それが一番恐ろしい。
カトレアはようやく理解した。
この家では、“姉が差し出す”ことが当然だったのだ。
だから誰も止めなかった。
壊れるまで。
彼女は最後の請求書を机へ置く。
どん、と重い音が響いた。
「総額はこちらです」
伯爵が震える手で紙を見る。
そして顔色を失った。
「……は?」
継母も息を呑む。
リリーは数字を見た瞬間、へなへなと床へ座り込んだ。
「う、嘘……」
伯爵家の年間収益を超えていた。
完全な破産額。
静まり返る室内。
カトレアはそんな彼らを見下ろしながら、妙に穏やかな気持ちになっていた。
これが自分の損失だったのだ。
今まで失い続けてきたものの重さ。
ようやく数字になった。
その時、不意に背後から低い笑い声がした。
「見事だな」
振り返る。
扉の前に、クロード・シュタインが立っていた。
黒いコートを羽織り、楽しそうに口角を上げている。
「完璧な監査だ、カトレア」
彼女は小さく息を吐く。
そして初めて。
本当に初めて。
“自分の味方がいる”という感覚を知った。




