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第七話 冷徹なる監査官

第七話 冷徹なる監査官


 エルスワイン伯爵邸の玄関ホールには、重たい沈黙が満ちていた。


 磨かれたはずの大理石には薄く埃が積もり、壁際の花は水を替えられていないのか、茶色く萎れかけている。


 かつては完璧に整えられていた屋敷だった。


 少なくとも、カトレアがいた頃は。


「旦那様……本当に来るのでしょうか」


 執事が青ざめた顔で囁く。


 伯爵は苛立たしげに舌打ちした。


「うるさい。騒ぐな」


 だが、その声にも余裕はない。


 三日前。


 シュタイン商公国から正式な通知が届いた。


 未払い債務に対する資産監査及び差押え執行。


 しかも担当者名を見た瞬間、伯爵は絶句した。


 カトレア・エルスワイン。


 実の娘の名前が、そこにあったのだ。


「まさか本当に来るなんて……」


 継母が震える声を漏らす。


 その隣で、リリーだけは不満げに唇を尖らせていた。


「お姉様も酷いですわ。家族なのに」


 その時だった。


 玄関扉が開く。


 冷たい外気が流れ込んだ。


 黒服の護衛たちが左右へ並ぶ。


 そして、その中央を一人の女が歩いてきた。


 ヒールの音が静かに響く。


 カツ、カツ、と。


 全員が息を呑んだ。


 黒ベルベットのドレス。


 夜をそのまま布にしたような深い黒。


 胸元は大きく開き、白い肌と柔らかな谷間を惜しげもなく晒している。首には雫型のダイヤモンド。歩くたび、光を受けて冷たく揺れた。


 背中へ流れる黒髪は艶やかで、腰を絞ったドレスラインが成熟した女の身体を際立たせている。


 誰も、昔の灰色ドレスの令嬢と同一人物だと思えなかった。


「……カトレア?」


 伯爵が掠れた声を出す。


 カトレアは静かに一礼した。


「お久しぶりでございます、お父様」


 声は穏やかだった。


 だがそこには、かつての怯えも遠慮もない。


 継母が青ざめる。


「あなた、その格好……!」


「シュタイン商公国監査官として参りました」


 淡々とした口調。


 感情が見えない。


 カトレアは手袋越しに書類を取り出した。


「エルスワイン伯爵家に対する未払い債務、契約違反、及び王室関連不履行案件について、資産差押えを開始いたします」


「待ちなさい!」


 伯爵が怒鳴る。


「家族だぞ!?」


「はい」


「ならば少しは融通を――」


「契約に私情を挟むのは違反です」


 即答だった。


 伯爵が言葉を失う。


 カトレアは静かに周囲を見渡した。


 視線が止まる。


 リリーだった。


 桃色のドレスを着ている。


 胸元にはレース。腰には細かな真珠刺繍。


 その姿を見た瞬間、カトレアの瞳が僅かに細まった。


「……あ」


 リリーがぎくりと肩を震わせる。


 カトレアはゆっくり近づいた。


 ヒールの音が静まり返ったホールへ響く。


「そのドレス」


「え……?」


「裏地は私の私物ですね」


 空気が凍る。


 リリーの顔から血の気が引いた。


「な、何を言って……」


「第三工房製。内側の縫製に銀糸補強が入っています。これは私が発注した特注仕様です」


 カトレアは指先でリリーの袖口を摘んだ。


「加えて、この真珠刺繍。右側だけ針幅が〇・三ミリ狭い。癖のある職人なので覚えています」


「そ、そんなの覚えてるわけ……」


「覚えています」


 静かな声だった。


「私の物ですから」


 リリーが後ずさる。


 その様子を、カトレアは冷静に見つめていた。


 昔なら、ここで譲っていた。


 “妹が欲しいなら仕方ない”と笑っていた。


 けれど今は違う。


 これは自分の財産だ。


 自分が働き、管理し、価値を理解していたものだ。


「監査記録を」


 カトレアが言うと、後ろの秘書がすぐ帳簿を開く。


「対象ドレス一点。無断使用による資産損耗あり。裾擦れ、中度。香水沈着あり。修復費加算」


「か、加算!?」


 リリーが悲鳴を上げる。


 カトレアは淡々と続けた。


「さらに胸元改造痕を確認。元デザインから三・二センチ切断されていますね」


「だ、だって流行だから……!」


「無断改造費を追加」


 さらさらとペンが走る音。


 その乾いた音だけが妙に大きく響いた。


 継母が震え声で言う。


「カトレア、あなた……本気なの……?」


「もちろんです」


「妹相手に、そこまで……!」


 カトレアはゆっくり継母を見た。


 その瞳は静かだった。


 静かすぎて、逆に冷たい。


「今まで私は、家族だからと譲ってきました」


 淡々とした声。


「ですが、その結果どうなりました?」


 誰も答えられない。


 カトレアは視線を落とし、リリーのドレス裾を指先で撫でた。


「この生地も、元は私が管理していたものです」


 ベルベット手袋越しに布を確かめる。


「保存状態は最低ですね。湿気管理が甘い」


 リリーの顔が歪む。


「お姉様、そんな……」


「あと、糸が一本ほつれています」


「え?」


「歩き方が雑です」


 カトレアは顔を上げた。


 そして、ほんの少しだけ微笑む。


「積算しましょうか」


 ぞくり、と。


 その場にいた全員の背筋へ悪寒が走った。


「糸一本単位で」



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