第十話 愛という名の黒字
第十話 愛という名の黒字
春の夜風は柔らかかった。
シュタイン商公国の港には無数の灯りが浮かび、水面へ金色の波を落としている。遠くから聞こえる船鐘の音。潮の匂い。夜市の香辛料。賑やかな街なのに、不思議と心は静かだった。
カトレアは商会本館のバルコニーに立ち、夜景を見下ろしていた。
深い紺色のドレス。
夜空を溶かしたみたいなシルク生地は、腰から足先へなめらかに流れている。胸元は大きく開いていたが、今の彼女はもう、それを隠そうとは思わない。
風が吹くたび、背中へ流れる黒髪が肌を撫でた。
「ここにいたか」
低い声。
振り返ると、クロード・シュタインが立っていた。
黒の礼装。銀のカフス。相変わらず隙のない男だ。
けれど今日は少しだけ雰囲気が違う。
妙に静かだった。
「まだ仕事をしていたのですか?」
「君ほどではない」
クロードは苦笑しながら隣へ並んだ。
夜風が二人の間を抜けていく。
カトレアは小さく笑った。
「決算処理は楽しいので」
「普通の女は、舞踏会を楽しいと言うんだ」
「数字も美しいですよ?」
「そこが君らしい」
クロードは肩を揺らす。
カトレアは夜景へ視線を戻した。
この国へ来て、一年。
色々なことが変わった。
最初は怖かった。
自分のためにドレスを着ることも。
欲しいものを口にすることも。
怒ることも。
笑うことも。
全部、知らなかった。
けれど今は違う。
仕事は評価される。
欲しい物は自分で選べる。
嫌なことには嫌と言える。
それがこんなに楽だなんて、昔の自分は知らなかった。
「何を考えている」
クロードが尋ねる。
カトレアは少し迷い、それから正直に答えた。
「……幸せだな、と」
クロードの瞳が僅かに細まる。
「そうか」
「はい」
カトレアは笑った。
「昔のわたくし、ずっと損失管理ばかりしていました」
「知っている」
「赤字を出さないように、怒られないように、迷惑をかけないように」
風が頬を撫でる。
「でも今は違います」
クロードを見上げる。
「利益を考えられるようになりました」
「ほう?」
「美味しい食事とか、綺麗なドレスとか、好きな人と過ごす時間とか」
言った瞬間、自分で少し恥ずかしくなる。
頬が熱い。
だがクロードは低く笑った。
「優秀だな」
「何がです?」
「ようやく人生運営の基本を理解した」
その言い方がおかしくて、カトレアは吹き出した。
本当にこの男は、何でも経営用語で話す。
けれど。
その冷たい言葉の奥に、ちゃんと優しさがあることを、今の彼女は知っている。
クロードが静かにポケットへ手を入れた。
「カトレア」
「はい?」
「契約更新をしたい」
その言葉に、カトレアは目を瞬いた。
「……契約?」
「ああ」
クロードは小さな箱を取り出す。
ベルベット製の黒箱。
カトレアの鼓動が速くなった。
まさか。
まさかこれは。
「普通の求婚は好みじゃない」
クロードが淡々と言う。
「君もそうだろう」
「……否定はできません」
「だろうな」
彼は箱を開いた。
そこにあったのは――。
「……え?」
カトレアは固まった。
指輪ではなかった。
巨大ダイヤでもない。
そこに収まっていたのは、小さな算盤だった。
純金製。
細工は驚くほど精密で、算盤玉には極小のダイヤモンドが埋め込まれている。灯りを受けて、きらきらと繊細に輝いていた。
カトレアは呆然とする。
「……そろばん」
「特注だ」
クロードは平然としていた。
「職人が泣いていた」
「でしょうね……」
思わず笑ってしまう。
笑いながら、胸の奥が熱くなる。
こんな贈り物、世界中探しても存在しない。
でも。
これ以上、自分らしい贈り物もない。
クロードはゆっくり彼女を見つめた。
紫水晶みたいな瞳が、夜の灯りを映している。
「君となら、人生最大の利益を出せる」
低い声だった。
冗談みたいな言い方なのに。
その声は驚くほど真剣だった。
カトレアの胸がぎゅっと締めつけられる。
前世でも。
今世でも。
自分はずっと、“便利な人間”だった。
役に立つことだけが価値だと思っていた。
でもこの男は違う。
能力だけじゃなく。
泣き方も。
笑い方も。
弱さも。
全部見た上で、隣へ立たせようとしている。
気づけば、視界が滲んでいた。
「……ずるいです」
「何がだ」
「こんなの、嬉しいに決まってるじゃないですか……」
涙が零れる。
けれど悲しくない。
あたたかい涙だった。
クロードが少し困った顔をする。
「泣くほどか?」
「泣きます……」
「そうか」
彼は不器用にカトレアの頬へ触れた。
大きな手。
少し冷たい指先。
でもその触れ方は、とても優しい。
カトレアは笑いながら涙を拭った。
「受け取っても?」
「もちろんだ」
「減価償却しません?」
「一生しない」
その返答が可笑しくて、また笑ってしまう。
クロードも小さく笑った。
港の灯りが揺れる。
春の風が吹く。
カトレアは純金の算盤を胸へ抱きしめた。
そしてその夜、新しい帳簿を開く。
真新しい紙。
インクの匂い。
人生で初めて、自分のためだけに記す帳簿。
カトレアは静かにペンを走らせた。
『愛情収益:
計測不能』
その文字を見た瞬間、彼女はようやく理解した。
人生には。
数字では測れない黒字があるのだと。




