エピローグ 花菖蒲の咲く庭で
エピローグ 花菖蒲の咲く庭で
初夏の風が、水面をやさしく撫でていた。
シュタイン商公国の郊外に建つ新しい屋敷は、商会本館のような威圧感はない。白い壁と大きな硝子窓を持つ、どこか静かな家だった。
その裏庭には広い池がある。
澄んだ水辺には、あやめ、かきつばた、菖蒲の花が咲き誇っていた。
紫。
藍。
白。
雨上がりの光を吸い込んだ花弁はみずみずしく、風が吹くたび、細い葉がさらさらと揺れる。
湿った土の匂い。
青葉の香り。
遠くで小鳥が鳴いている。
カトレアは縁側へ腰掛け、静かにその景色を眺めていた。
淡い藤色の単衣ドレス。
胸元は以前ほど大胆ではないが、柔らかな曲線を自然に見せる仕立てになっている。
肩の力を抜いた、美しい服だった。
「ここにいたか」
後ろから低い声がする。
振り返ると、クロードが片手に書類束を持って立っていた。
今日は珍しく簡素な服装だ。
黒シャツに薄い上着だけ。
それでも妙に様になるのだからずるい男である。
「また仕事を持ち込んだのですか?」
「違う」
クロードは眉を寄せた。
「これは君への報告書だ」
「報告書?」
「先月の商会利益」
カトレアは思わず笑ってしまった。
「こんな綺麗なお庭で最初にする会話がそれですか?」
「重要だろう」
「重要ですけれど」
クロードは当然のように隣へ座る。
池の水音が近い。
風が吹くたび、花菖蒲がゆっくり揺れていた。
「……綺麗ですね」
カトレアが呟く。
クロードは池を見ながら頷いた。
「ああ」
「昔は、花を見る余裕なんてありませんでした」
「帳簿ばかり見ていたからな」
「はい」
苦笑する。
本当にそうだった。
数字だけ見ていた。
損失だけを数えていた。
誰かを怒らせないために。
誰かへ迷惑をかけないために。
自分を削ることばかり考えていた。
けれど今は違う。
風が気持ちいいと思う。
花が綺麗だと思う。
好きな人と静かな時間を過ごしたいと思う。
そんな当たり前のことを、ようやく知った。
クロードがふいに彼女の髪へ触れる。
「最近、よく笑うな」
「そうでしょうか?」
「昔は謝ってばかりだった」
カトレアは少し黙った。
脳裏に浮かぶ。
灰色のドレス。
完璧な土下座。
あの息苦しかった日々。
だが不思議と、今はもう苦しくない。
「あの頃のわたくし、怖かったですか?」
クロードは少し考えた。
「怖いというより、危うかった」
「危うい?」
「壊れているのに、自分で気づいていなかった」
カトレアは静かに笑う。
「フェリックス様にも言われました」
「あいつは正しかった」
「ええ」
そこはもう否定しない。
否定できない。
クロードは彼女の肩を抱き寄せた。
体温が近い。
昔のカトレアなら、きっと緊張して固まっていただろう。
でも今は違う。
自然に寄り添える。
それが嬉しかった。
「ところで」
クロードが唐突に言う。
「今年の予算だが」
「はい」
「庭園維持費が増えている」
カトレアは瞬きをした。
「……花の?」
「ああ。庭師が張り切りすぎた」
カトレアは思わず吹き出す。
「削減します?」
「君が嫌ならしない」
即答だった。
カトレアはまた笑ってしまう。
「前なら、無駄だと思っていました」
「今は?」
池を渡る風が頬を撫でた。
花菖蒲の香りがする。
静かで。
穏やかで。
あたたかい。
「必要経費です」
クロードが低く笑った。
「そうか」
「はい」
カトレアは水面を見る。
花影が揺れている。
あやめも。
かきつばたも。
菖蒲も。
昔の彼女なら違いすら気にしなかっただろう。
でも今は、一つ一つが愛おしい。
世界には、こんなにも綺麗なものがあったのだ。
「クロード様」
「何だ」
「わたくし、ちゃんと黒字になれていますか?」
クロードは少し驚いた顔をした。
それから、呆れたように笑う。
「今さら聞くのか」
「気になるので」
「当然だ」
彼は迷いなく答えた。
「君は俺の人生で最高利益だ」
カトレアはまた笑った。
本当に、この人は最後までこういう言い方なのだ。
けれど。
その不器用な愛情表現が、今は何より愛しかった。
風が吹く。
花が揺れる。
池の水面がきらきら光る。
カトレアはそっと目を閉じた。
もう、自分を差し出さなくていい。
我慢だけで生きなくていい。
愛されてもいい。
幸せになってもいい。
その事実が、胸いっぱいに広がっていく。
初夏の風は、どこまでも優しかった。
羽二重のような光沢を帯びた、はんなりとした再生譚になっていましたら幸いです。




