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第五話 ボルドーワインの女

第五話 ボルドーワインの女


 シュタイン商公国の夜は、聖マリアーヌ王国とはまるで違っていた。


 港から吹き込む潮風には香辛料の匂いが混じり、石畳には夜遅くまで馬車の音が響いている。通りを歩く女たちは堂々と胸を張り、深く背を開けたドレスを纏いながら笑っていた。


 誰も隠れない。


 誰も怯えない。


 その空気が、カトレアには眩しかった。


「緊張しているな」


 低い声が耳元へ落ちる。


 振り返ると、クロード・シュタインがこちらを見ていた。


 黒の燕尾服。銀のタイピン。長い指先には革手袋。相変わらず夜そのものみたいな男だ。


「……少しだけ」


「少し、で済む顔ではないぞ」


 からかうような声音に、カトレアは僅かに視線を伏せた。


 今夜は、シュタイン商会主催の夜会だった。


 クロードに雇われてから三週間。カトレアは商会の帳簿整理を任され、文字通り昼夜なく働いていた。


 だが、その仕事は驚くほど快適だった。


 誰も彼女の成果を横取りしない。


 書類を勝手に持ち出さない。


 紅茶を淹れれば感謝される。


 作業が終われば休憩を命じられる。


 最初はその全てが理解できなかった。


 特に、


「君の仕事は金になる」


 とクロードに言われた時は、本気で混乱した。


 今まで自分の能力は、“家族のために使うもの”だったからだ。


「さて」


 クロードが微笑む。


「今夜は君の初陣だ」


 カトレアの喉が小さく鳴った。


 視線は自然と、自分の姿へ落ちる。


 ボルドーワイン色のマーメイドドレス。


 深く艶のある赤。


 滑らかなシルクは身体へぴたりと沿い、腰から裾へかけて波のように広がっている。


 胸元は大胆に開いていた。


 谷間を隠す布はほとんどなく、白い肌が柔らかな曲線を描いている。


 背中も大きく開いていて、黒髪がそこを流れるたびに、冷たい空気が肌を撫でた。


 鏡を見た時、自分だとわからなかった。


 こんな格好、自分には似合わないと思った。


 けれど。


 クロードは一言だけ言った。


『似合う』


 その声が、なぜか今も耳に残っている。


「……本当に、これでよろしいのでしょうか」


「何がだ?」


「露出が……」


 クロードはふっと笑った。


「君は胸元を隠しすぎる癖がある」


「ですが、はしたないと……」


「誰が決めた?」


 カトレアは答えられなかった。


 誰が決めたのだろう。


 母?


 貴族社会?


 それとも、自分自身か。


 クロードはゆっくり近づき、彼女の顎へ触れた。


 革手袋越しの指先は冷たい。


「よく見ろ」


 彼が鏡を示す。


 映ったのは、美しい女だった。


 腰は細く締まり、胸元は成熟した曲線を描いている。長い黒髪が背中へ落ちるたび、深紅のシルクが夜の酒みたいに艶めいた。


 今までの灰色ドレスとは別人だ。


 カトレアは呆然と呟く。


「……これが、わたくし……?」


「そうだ」


 クロードの声は静かだった。


「君は元々、美しい」


 胸の奥が熱くなる。


 そんなこと、一度も言われたことがなかった。


 リリーの方が可愛い。


 華やか。


 似合う。


 ずっとそう言われてきた。


 だから、自分は地味で良いと思っていた。


 思い込んでいた。


「行くぞ」


 クロードが腕を差し出す。


 カトレアは恐る恐るその腕へ触れた。


 夜会会場へ入った瞬間、空気が変わった。


 ざわり、と。


 視線が集まる。


 シャンデリアの光。香水の匂い。グラスの触れ合う音。その全てが、一斉にこちらへ向いた気がした。


「……誰だ?」

「クロード様の隣の女……?」

「美人……」

「待って、あれ聖マリアーヌの……」


 囁きが波みたいに広がる。


 カトレアの心臓が速くなる。


 怖い。


 逃げたい。


 けれど隣のクロードは悠然としていた。


「顔を上げろ」


「ですが……」


「君は商品の欠陥品ではない」


 その言葉に、カトレアは息を呑んだ。


 商品。


 欠陥。


 彼は時々、人を市場価値で語る。


 なのに不思議と不快ではなかった。


 そこに侮辱がないからだ。


 むしろ彼は、本気で彼女を高く評価している。


「堂々としていろ」


 クロードが囁く。


「君の価値を決めるのは、他人ではない」


 その瞬間、カトレアの胸に何かが落ちた。


 静かに。


 けれど確かに。


 彼女は会場中央を歩く。


 深紅のドレスが脚へ絡みつき、歩くたび裾が揺れる。背中へ流れる髪が、露わな肌をくすぐった。


 視線を感じる。


 男たちの熱。


 女たちの嫉妬。


 驚愕。


 羨望。


 全部が自分へ向いている。


 なのに。


 不思議と嫌ではなかった。


 今までのドレスは違った。


 リリーへ譲る前提で選び、汚されないよう保管し、傷つけられても怒らなかった。


 けれどこのドレスは違う。


 これは。


 本当に。


「……わたくしのために作られている……」


 気づけば、そう呟いていた。


 クロードが横目で彼女を見る。


「今さら気づいたか」


「こんな感覚、初めてです……」


 胸が熱い。


 ドレスが身体へ馴染むたび、自分という輪郭を初めて知っていく気がした。


 誰かに奪われる前提じゃない。


 誰かへ譲るためでもない。


 これは、自分のものだ。


 その事実が、どうしようもなく幸福だった。


 クロードが微笑む。


「当然だ」


 低い声。


「君の資産価値は高い」


 その瞬間、カトレアは初めて、自分が“所有される側”ではなく、“価値を持つ側”なのだと理解した。



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