第四話 拾われた会計令嬢
第四話 拾われた会計令嬢
エルスワイン伯爵邸の応接間には、重たい沈黙が落ちていた。
窓の外では夕雨が降っている。
灰色の空。濡れた庭木。雨粒が硝子を細かく叩く音だけが、やけに耳についた。
カトレアは背筋を伸ばしてソファへ座っていた。
膝の上で揃えた指先が冷たい。
向かいには父、継母、そしてリリー。
三人とも、まるで被害者のような顔をしている。
「まったく……」
父が深いため息を吐いた。
「卒業パーティーであんな騒ぎを起こすとは」
「申し訳ございません」
反射的に謝罪が出る。
だが父は苛立ったように眉を寄せた。
「謝れば済む問題ではない!」
怒鳴り声に、リリーがびくりと肩を震わせる。
継母はすぐに娘を抱き寄せた。
「可哀想に……リリーは泣きっぱなしなのですよ?」
「わたくし、怖かったですわ……」
リリーは潤んだ目でカトレアを見た。
「お姉様、急に皆に責められるんですもの……」
責められていたのは、自分ではなかっただろうか。
そう思ったが、カトレアは口に出せなかった。
代わりに父が低い声で言う。
「フェリックス様との婚約も白紙だそうだな」
「……はい」
「なんという損失だ」
その言葉に、カトレアの胸が少しだけざわついた。
損失。
婚約破棄ではなく、損失。
やはり父はそう考えるのか、と妙に納得してしまう。
継母がハンカチを目元へ押し当てた。
「あなたがもう少し我慢できていれば……」
「え?」
思わず顔を上げた。
継母は本気で悲しそうな顔をしている。
「リリーはまだ子供なのです。お姉様なのだから、上手に支えてあげなくては」
「ですが……」
「妹のために我慢できないなんて、情けない子」
その言葉が胸へ沈んだ。
我慢。
またその言葉だ。
我慢するのが正しい。
ずっとそう教えられてきた。
なのに、なぜか今日は息苦しい。
喉の奥に何か詰まっているようだった。
リリーが恐る恐る口を開く。
「お姉様……怒ってます?」
「いいえ」
「本当に?」
「怒っていません」
怒る理由がない。
そう答えるべきなのに、言葉に妙な引っ掛かりがあった。
リリーはほっとした顔で笑う。
「良かったぁ。わたくし、お姉様に嫌われたかと思っちゃった」
その無邪気な声を聞いた瞬間、カトレアの頭に、フェリックスの言葉が蘇った。
『君は、自分を大事にしろ』
胸がざわつく。
自分を大事にする、とは何だろう。
今まで一度も考えたことがない。
父が机を指で叩いた。
「しばらく社交界には出るな」
「……はい」
「反省して頭を冷やせ。グラナード公爵家への謝罪文も用意しろ」
「承知しました」
「それから」
父の目が冷たく細められる。
「お前が余計なことを言ったせいで、リリーまで悪く見られている。二度とああいう場で家族に恥をかかせるな」
カトレアは静かに頭を下げた。
「申し訳ございません」
それで話は終わった。
まるで業務連絡みたいだった。
自室へ戻る廊下は薄暗い。窓の外では雨脚が強くなっている。
濡れた土の匂い。
遠くで雷が鳴った。
カトレアはぼんやり歩きながら、自分の胸の奥にある違和感を持て余していた。
苦しい。
何が苦しいのかわからない。
扉を開けると、部屋の中は静まり返っていた。
古い帳簿。計算機。積み上がった請求書。
いつもの光景。
安心するはずなのに、今日は妙に寒々しい。
ふと視線が鏡へ向く。
灰色のドレス。
閉じた胸元。
飾り気のない自分。
地味で、平坦で、存在感の薄い女。
リリーの方が華やかだ。
自分より似合う。
そう思っていた。
今までは。
「……わたくしは」
呟きかけた瞬間、扉が叩かれた。
コン、コン。
低く一定の音。
「どなたでしょう」
「シュタイン商会の者です」
聞き覚えのない男の声だった。
カトレアが扉を開けると、黒服の使用人が立っていた。
「主人がお会いしたいと」
「主人……?」
「クロード・シュタイン様です」
その名を聞いた瞬間、舞踏会の記憶が蘇る。
漆黒のスーツ。
紫水晶みたいな瞳。
『欲しいな』
ぞくり、と背筋が粟立った。
応接室へ案内されると、そこには本人がいた。
長い脚を組み、優雅に紅茶を飲んでいる。
黒の三つ揃え。銀時計。夜みたいな男だった。
クロードはカトレアを見るなり、ゆっくり笑った。
「来たか、会計令嬢」
「……何のご用件でしょう」
「勧誘だ」
あまりに単刀直入で、カトレアは目を瞬いた。
クロードは立ち上がる。
背が高い。
近づかれるだけで圧迫感がある。
「君を雇いたい」
「……わたくしを?」
「ああ。君は有能だ」
「ですが、わたくしは社交界で問題を――」
「だから良い」
クロードは即答した。
「他人に使い潰される女ほど、伸び代がある」
カトレアは息を呑んだ。
そんなことを言われたのは初めてだった。
有能。
伸び代。
自分へ向けられる言葉ではないと思っていた。
クロードは机の上へ箱を置いた。
「開けろ」
黒いベルベット箱だった。
恐る恐る開く。
その瞬間、カトレアは息を止めた。
深紅のシルクドレス。
滑らかな光沢を帯びた布地は、まるで熟れた葡萄酒みたいに艶めいている。
胸元は大胆に開き、腰は細く絞られ、裾は流れるような曲線を描いていた。
明らかに“大人の女”のためのドレスだ。
「……わたくしには」
「似合う」
クロードは断言した。
「君は自分を過小評価しすぎだ」
「ですが、こんな露出の多いもの……」
「嫌か?」
問われて、カトレアは言葉に詰まった。
嫌。
その感情を考えようとした瞬間、胸の奥が妙に熱くなる。
クロードはゆっくり彼女へ近づいた。
「君は今まで、“誰かのため”にしか生きていない」
低い声が耳を打つ。
「だから教えてやる」
紫水晶の瞳が細められる。
「価値ある女は、もっと贅沢に扱われるべきだ」




