第三話 完璧な土下座
第三話 完璧な土下座
楽団の演奏は続いていた。
だが大広間に流れる空気は、もはや舞踏会のものではない。
甘ったるい花の香り。ワインの酸味。人いきれ。熱を持ったシャンデリアの光。そのすべてが、カトレア・エルスワインには急に遠く感じられた。
周囲の視線が痛い。
貴族たちは露骨に囁き合い、しかし誰も近寄ろうとしない。
まるで、触れてはいけないものを見るような目だった。
フェリックス・フォン・グラナードは、そんな周囲など見えていないようにカトレアだけを見つめていた。
金色の瞳が、苦しそうに揺れている。
「カトレア」
低い声だった。
「君は、自分を大事にしろ」
その瞬間だった。
頭の奥で、何かが弾けた。
甲高い耳鳴り。
視界がぐらりと歪む。
――自分を大事にしろ。
その言葉が、奇妙なほど胸に刺さった。
大事にする?
自分を?
意味がわからない。
そんなもの、考えたこともない。
姉は我慢するものだ。
家族を優先するものだ。
妹を泣かせてはいけない。
怒ってはいけない。
譲らなければならない。
だって、前世で読んだ物語は全部そうだった。
妹に厳しい姉は悪役だった。
だから間違えないようにした。
ずっと。
ずっと。
そのはずなのに。
――お前、何やってんの?
不意に、別の声がした。
頭の奥から。
冷えた蛍光灯の光。積み上がった伝票。ブラックコーヒーの苦味。終電後のオフィス。
前世の記憶だった。
残業続きの会計事務所。
上司に頭を下げ、顧客に謝罪し、理不尽な修正に耐え続けた日々。
あの頃の自分は、何を考えていた?
失敗するな。
怒らせるな。
波風を立てるな。
謝れ。
先に謝れ。
とにかく謝れ。
そうすれば丸く収まる。
そうやって生き延びてきた。
胸の奥が急に冷たくなる。
カトレアの指先が震えた。
「お姉様?」
リリーが不安そうに声をかける。
「どうしたの……?」
その声すら遠い。
フェリックスが一歩近づいた。
「カトレア。聞いているのか」
聞いている。
聞こえている。
けれど頭の中で、前世と今世がぐちゃぐちゃに混ざっていた。
家族。
奉仕。
我慢。
譲渡。
謝罪。
処理。
調整。
損失回避。
脳の奥で数字が弾ける。
自分が今まで何をしていたのか、急に理解しかけてしまった。
ああ。
自分は。
何も感じないようにしていただけなのか。
喉がひゅ、と鳴った。
その瞬間、カトレアは反射的に動いた。
さっとスカートを払う。
足を揃える。
背筋を伸ばす。
床へ膝をつく。
大理石の冷たさが布越しに伝わった。
周囲がどよめく。
だがカトレアは止まらなかった。
両手を美しく揃え、指先を正確な角度で床へ置く。
腰を折る。
額が床につく寸前で停止。
呼吸速度を一定に保つ。
完璧な謝罪姿勢。
前世で叩き込まれた、“最も相手の怒りを鎮めやすい角度”。
「申し訳ございませんでした」
澄んだ声だった。
静まり返った大広間によく響く。
「わたくしの認識不足でした。フェリックス様へ多大なるご不快と損害を――」
「やめろ!!」
フェリックスの怒鳴り声が落ちた。
空気が震える。
カトレアはびくりと肩を揺らした。
しかし顔は上げない。
謝罪中に相手より先に動くのは印象が悪い。
前世で学んだ。
「違うだろう……」
フェリックスの声が掠れていた。
「どうして君が謝るんだ」
「ですが、婚約者としての管理責任が――」
「そういう話じゃない!」
カトレアは混乱した。
では何なのだろう。
謝罪とは、問題発生時に最も効率的な関係修復手段ではないのか。
周囲から息を呑む音が聞こえる。
「なんて綺麗な土下座……」
「怖いわ……」
「訓練されてるみたい……」
囁き声が耳に刺さる。
だがカトレアは顔を上げられなかった。
上げ方がわからない。
謝罪が受理されるまで待機するのが基本だからだ。
沈黙が落ちる。
長い沈黙。
やがて、カツ、と硬い靴音が響いた。
ゆっくり。
一定の速度で近づいてくる。
知らない足音だった。
貴族の軽い革靴ではない。もっと重く、硬質な音。
カトレアが僅かに視線を上げると、黒い革靴が見えた。
漆黒のスーツ。
長い脚。
金属細工のように鋭い指先。
男は静かに立ち止まり、床へ額をつけたままのカトレアを見下ろしていた。
低く甘い香木の香りがする。
異国の香りだ。
「……美しい」
男が呟いた。
会場がざわめく。
「シュタイン商公国の……」
「クロード・シュタイン……!?」
名前が広がる。
カトレアも聞いたことがあった。
若くして巨大商会を率いる怪物。
金と契約で国家を動かす男。
クロードは片膝をつき、カトレアの顔を覗き込んだ。
紫水晶のような瞳が細められる。
「完璧な角度だ。呼吸も乱れていない」
「……は」
「謝罪慣れしているな」
その言葉に、会場の空気がまた凍る。
フェリックスが険しい顔になる。
「お前、何を――」
だがクロードは楽しそうに笑った。
「いや、感心しているだけだ。これほど精密な土下座は初めて見た」
カトレアは呆然とした。
褒められているのか、馬鹿にされているのかわからない。
クロードは続ける。
「姿勢制御、感情抑制、状況判断。実に優秀だ」
そして彼は、ゆっくり口角を上げた。
「――欲しいな」
ぞくり、とした。
その声には、獲物を見つけた肉食獣の熱があった。




