第二話 家族間の資産移動は非課税ですので
第二話 家族間の資産移動は非課税ですので
ざわめきは、波紋のように大広間へ広がっていた。
弦楽器の演奏は再開されている。だが先ほどまでの華やかな空気は消え、貴族たちの視線には奇妙な緊張が混じっていた。
カトレア・エルスワインは、その変化の意味がわからなかった。
フェリックス・フォン・グラナードの婚約破棄宣言。
本来なら、彼が非難される場面のはずだ。
なのに周囲は違った。
誰も彼を止めない。
むしろ皆、どこか「とうとう言ったか」という顔をしている。
「お姉様?」
甘ったるい声が響く。
リリーだった。
純白のドレスの裾を揺らしながら近づいてくる。シャンデリアの光を受け、胸元のサファイアが青く煌めいた。
深く開いた谷間の中央で揺れるその宝石を見て、フェリックスの表情が強張る。
「……それもか」
低い声だった。
怒りを押し殺した声。
リリーはきょとんと首を傾げる。
「え?」
「その首飾りだ」
フェリックスが一歩前へ出る。
「それは去年、僕がカトレアへ贈った一点物のサファイアだ」
空気がぴん、と張り詰めた。
リリーは無邪気に笑う。
「はい! お姉様が貸してくださいました!」
「貸した?」
「だってわたくしの方が似合いますもの!」
悪びれた様子は一切ない。
むしろ褒められると思っている顔だ。
フェリックスはゆっくりカトレアを振り返った。
「……君が貸したのか?」
「はい」
「なぜ」
「リリーが着けたいと申しましたので」
「だから?」
「ですから、お貸ししました」
カトレアは正直に答えた。
だがフェリックスの顔色は悪くなる一方だった。
「カトレア。あれは婚約の証だぞ」
「存じております」
「君のためだけに選んだ」
「はい」
「なら、なぜ他人が身につけている」
他人。
その言葉に、カトレアは少し眉を寄せた。
「リリーは家族です」
「だから何だ!」
怒鳴り声に、近くの令嬢たちが肩を震わせた。
香水の甘い匂いの中に、微かにワインの酸味が混じる。
フェリックスは額を押さえた。
「君はいつもそうだ……。ドレスも宝石も、何もかも差し出す。おかしいと思わないのか?」
「おかしい、ですか?」
「思わないのかと聞いている!」
カトレアは困惑した。
なぜ怒っているのかわからない。
リリーは妹だ。
家族だ。
家族同士で所有物を融通することに、そこまで問題があるだろうか。
前世でも、親族間の譲渡には特別控除が――。
「家族間譲渡は課税対象外ですので……」
しん、と静まり返った。
グラスを持つ貴婦人の手が止まる。
楽団員の一人が音を外した。
誰も喋らない。
カトレアはようやく、自分が何か妙なことを言ったらしいと気づいた。
「……え?」
フェリックスが乾いた笑いを漏らす。
「課税対象外?」
「はい。親族間の資産移動に関しては通常――」
「そういう話をしているんじゃない!」
怒声だった。
リリーがびくりと身を縮める。
しかしフェリックスは妹など見ていなかった。
ただ、カトレアだけを見ている。
苦しそうに。
追い詰められた顔で。
「君は嫌じゃないのか」
「……何がでしょう」
「自分のものを奪われるのが!」
奪われる。
その単語が胸に引っかかった。
カトレアは考える。
ドレス。
宝石。
靴。
香水。
髪飾り。
リリーは昔から何でも欲しがった。
そして自分は渡した。
泣かせてはいけないと思ったから。
姉なのだから我慢すべきだと思ったから。
前世で読んだ物語では、妹を虐めた姉は必ず破滅していた。
だから間違えないように。
優しく。
譲って。
怒らず。
ずっとそうしてきた。
それなのに。
「……嫌、とは……?」
口にした瞬間、周囲からぞわりとした気配が広がった。
「怖……」
誰かが小さく呟く。
「洗脳されてるの……?」
「エルスワイン伯爵家って、前から変だと思ってたけど……」
囁きが耳に刺さる。
カトレアはますます混乱した。
なぜそんな顔をされるのかわからない。
するとリリーが不機嫌そうに唇を尖らせた。
「ちょっと、皆ひどくない? お姉様は優しいだけよ?」
「優しい?」
フェリックスが笑った。
けれどそれは冷たい笑いだった。
「これを優しいと言うのか?」
「だってお姉様、わたくしに何でもくれるもの」
「それが異常なんだ!」
リリーが目を丸くする。
「異常?」
「君は姉から婚約用ドレスまで奪って平然としている! 普通は遠慮するだろう!」
「だってお姉様、嫌って言わないもの!」
「言えないように育てられたんだろうが!」
空気が凍った。
カトレアの胸が妙にざわつく。
育てられた。
その言葉が、喉に引っかかった魚の骨みたいに残った。
フェリックスは荒く息を吐いた。
「カトレア。君は、自分の欲しいものを選んだことがあるか?」
「欲しいもの……」
「自分のために」
カトレアは答えられなかった。
欲しいもの。
そんなものを考えたことがない。
必要なものを管理し、整理し、損失が出ないよう調整する。それが自分の役目だった。
だから、欲望という概念が曖昧だ。
沈黙した彼女を見て、フェリックスはとうとう顔を覆った。
「……駄目だ」
掠れた声。
「君は、自分がどれだけ壊れているか理解していない」
その言葉に、カトレアの胸がひどく冷えた。
壊れている。
自分が。
けれど何が?
どこが?
理解できない。
会場の空気は重く、息苦しかった。
香水の甘さがむしろ吐き気を誘う。
遠くで笑い声がした気がしたが、それさえ他人事のようだった。
フェリックスは静かに言った。
「……君を責めたいわけじゃない」
金色の瞳が揺れる。
「でも僕はもう、この家族を見ていると怖い」
その“怖い”という一言が、なぜか胸の奥へ深く沈んだ。
カトレアは生まれて初めて、自分が周囲と違うのかもしれないと思った。




