第一話 婚約破棄より恐ろしいもの
第一話 婚約破棄より恐ろしいもの
聖マリアーヌ王立学院の大広間は、甘い花の香りとシャンデリアの熱気で満ちていた。
卒業記念舞踏会。
磨き抜かれた大理石の床には幾重もの光が落ち、貴族たちの笑い声と弦楽器の旋律が絶え間なく反響している。
カトレア・エルスワインは、その喧騒から半歩引いた場所で静かに立っていた。
灰色の詰襟ドレス。装飾は最小限。胸元はきっちり閉じられ、細い指には宝石一つない。
今夜は本来なら、婚約者フェリックス・フォン・グラナードとの正式な婚約披露の夜だった。
――だったのだが。
会場中央で人々の視線を一身に集めているのは、異母妹リリーだった。
純白のマーメイドドレス。
胸元は大胆に開き、雪のような肌を惜しげもなく晒している。腰の曲線に沿って流れる刺繍には銀糸が織り込まれ、歩くたび星屑のようにきらめいた。
カトレアはぼんやりと、その刺繍を眺めていた。
やはり第三工房の仕事は美しい。縫製精度も高い。ビーズの配置も完璧だ。保管状態さえ良ければ十年後も資産価値は維持できるだろう。
そんなことを考えていると、隣の令嬢たちの囁き声が耳に入った。
「ねえ、あのドレス……」
「本当はお姉様用だったのでしょう?」
「よく平気で着られるわね……」
カトレアは首を傾げた。
平気も何も、リリーが着たいと言ったから譲っただけだ。
姉なのだから当然である。
すると、遠くで笑っていたリリーがこちらに気づき、ふわりと駆け寄ってきた。
「お姉様! 見て、このドレスすごく褒められてるの!」
甘い香水の匂いが鼻をくすぐる。
リリーは嬉しそうにスカートを摘まみ、くるりと回った。深く開いた胸元でダイヤのネックレスが揺れる。
そのネックレスを見た瞬間、カトレアは少しだけ瞬きをした。
あれは確か、フェリックスから贈られた婚約記念品だった気がする。
だが、リリーによく似合っている。
「ええ。素敵よ、リリー」
「でしょう? お姉様って地味だから、こういうの似合わないものね!」
悪意のない声だった。
本気でそう思っている声音。
だからカトレアも微笑んだ。
「そうね。あなたの方が華やかだもの」
その時だった。
鋭い足音が響いた。
振り向くより先に、強い力で手首を掴まれる。
「カトレア」
低い声。
フェリックスだった。
整った顔は青ざめ、金色の瞳には隠しきれない怒りが宿っている。
「フェリックス様?」
「来い」
彼は有無を言わせずカトレアを人の少ない壁際へ連れて行った。
会場のざわめきが遠のく。
近くで見る彼の顔は、ひどく疲れていた。
「……もう限界だ」
「え?」
「どうして平然としている」
フェリックスの視線が、リリーへ向く。
「あのドレスは君のものだろう」
「はい」
「その首飾りも」
「はい」
「僕が君に贈ったものだ」
「そうですね」
「なら、なぜ妹が着けている!?」
怒声に近かった。
近くの貴族たちが息を呑む気配がする。
だがカトレアは困惑した。
そんなに怒ることだろうか。
「リリーが気に入ってしまって……」
「だから何だ!」
フェリックスは髪を掻きむしった。
「君はいつもそうだ! ドレスも、宝石も、時間も、全部あの子に差し出す!」
「家族ですから」
「家族なら何を奪ってもいいのか!?」
カトレアは言葉に詰まった。
奪う、という表現は少し違う気がした。
共有に近い。
家族間の資産移動なのだから。
だから彼女は、いつものように説明した。
「家族間譲渡は非課税ですので、特に問題は――」
静まり返った。
音楽さえ止まったような錯覚。
周囲の貴族たちが、凍った顔でこちらを見ている。
「……は?」
フェリックスが、信じられないものを見る目をした。
「今、何と言った?」
「え?」
「いや、待て……君は本気で言っているのか?」
カトレアは戸惑った。
本気も何も、事実だ。
贈与税の概念がない以上、身内間の所有移転は――。
「カトレア」
フェリックスの声が震えていた。
「君、自分の物を取られて怒ったことはあるか?」
「ありませんが……」
「返してほしいと思ったことは」
「特には」
「嫌だったことは」
「……嫌?」
その言葉の意味が、一瞬わからなかった。
するとフェリックスは、苦しそうに目を閉じた。
「やっぱりだ……」
低い呟き。
そして次の瞬間、彼は大広間中へ響く声で叫んだ。
「もう耐えられない!」
会場がどよめく。
リリーがびくりと肩を震わせた。
フェリックスはカトレアを見つめたまま、吐き出すように言った。
「君の家族は異常だ!」
ざわり、と空気が揺れる。
カトレアの胸が小さく高鳴った。
来た。
ついに来たのだ。
前世の知識によれば、この状況は典型的な“婚約破棄イベント”である。
ここから冤罪が暴かれ、妹が断罪され、最終的に自分が勝つ。
そういう流れのはずだ。
だが。
誰もフェリックスを責めなかった。
むしろ周囲の視線は、奇妙なものを見るようにカトレアへ集まっていた。
「あの方……」
「ずっと我慢していたのね……」
「エルスワイン家、やっぱり……」
同情されている。
フェリックスが。
カトレアは理解できなかった。
なぜ。
悪いのは婚約破棄を宣言した側ではないのか。
するとフェリックスが、静かに言った。
「君は壊れている」
その声は怒りではなく、悲鳴に近かった。
「自分を大事にしろ、カトレア」
胸の奥が、妙にざわついた。
知らない感覚だった。
その時初めて、カトレアは周囲の視線に怯えを見つけた。
まるで化け物を見るような目だった。




