第19話 共同経営者に命令するな
第19話 共同経営者に命令するな
クロードとカトレアが結婚して最初の朝、二人は同じ食卓で別々の書類を読んでいた。窓の外では夜明け前に降った雪が庭木の枝へ薄く積もり、台所からは焼いた黒パンと茸のスープの匂いが流れてくる。カトレアは寝間着の上に厚い紺色の部屋着を羽織り、クロードは白いシャツの釦を一つ掛け違えたまま、商会から届いた手紙を開いていた。
「クロード、また釦が違っています」
カトレアはスープへ匙を入れながら言った。
「昨日の披露宴では間違えなかった」
「侍従が着せてくれたからです」
「今日は自分で着た。それだけでも評価してほしい」
「結婚したからといって、私は毎朝あなたの釦を直しませんよ」
「では、曲がったまま出勤する。商公国の公子が釦を掛け違えるようになったのは、妻が冷たいからだと噂されるだろう」
「責任を私へ移さないでください」
カトレアは立ち上がり、結局、クロードの釦を直した。披露宴で着た夜明け色のドレスはドレス銀行へ預け、今日はいつもの青灰色の仕事着へ着替える予定だった。結婚翌日くらい休むよう勧められたが、ドレス銀行の王都支店を開く準備があり、昼からは商会の定例会議も入っている。
侍女が焼きたての卵料理を運んできたところで、執事が銀の盆を持って入ってきた。盆には、クロードの伯父であるグラハム公爵からの手紙が載っている。封を切ると、朝食後に一族会議を開くので、カトレアも正装して出席するよう書かれていた。
「何の会議でしょう」
「結婚祝いなら、正装を命じたりはしないだろう」
クロードは手紙を裏返し、何か追記がないか確かめた。
「伯父上は、命令することが礼儀だと思っている。自分が飲む茶の温度まで、料理人へ数字で指示する人だ」
「何度なのですか」
「夏は六十二度、冬は六十五度だ。三度で何が変わるのか、私には分からない」
「今度、飲み比べをしてみたいですね」
「伯父上が知ったら、茶を実験に使うなと怒るぞ」
二人は朝食を終えると、北棟の大会議室へ向かった。カトレアは青灰色の仕事着ではなく、深緑の正装を選んだ。ただし、腰には鍵束を下げ、革鞄には帳簿と監査報告書を入れている。クロードは濃紺の礼服を着たものの、首飾りが窮屈だと言って廊下を歩きながら指を差し入れていた。
大会議室には、クロードの親族が十四人集まっていた。長い楕円形の卓の上には銀の燭台と花が並び、各席には葡萄酒と焼き菓子が用意されている。暖炉では香木が焚かれ、甘い匂いが部屋全体に満ちていた。
最上座にはグラハム公爵が座っていた。銀髪を後ろへ撫でつけ、葡萄色の上着に金の肩章をつけている。隣には公爵夫人と、商会の旧来部門を任されている二人の従兄が並んでいた。
クロードの席は、グラハム公爵の右側に用意されていた。カトレアの椅子はそこから三歩離れた壁際にあり、背もたれが低く、卓へ書類を置くこともできない。ほかの夫人たちと同じく、当主たちの話を後ろで聞くための席だった。
「カトレアの席は、あれか」
クロードが立ち止まった。
「公子夫人の席として、特別に用意させました」
グラハム公爵が答えた。
「特別に小さくしたのか」
「夫人が経営会議の卓へ座る必要はない。あそこなら、お前の話も十分に聞こえる」
クロードの眉間に深い皺が寄った。口を開こうとした彼の袖を、カトレアが軽く引いた。
「まず、ご用件を伺いましょう」
カトレアは壁際の椅子へは座らず、クロードの席の後ろに立った。革鞄を足元へ置き、金具を外す。親族たちはその音へ目を向けたが、グラハム公爵だけは焼き菓子を半分に割り、ゆっくり口へ運んだ。
「結婚した以上、カトレア殿には公子夫人としての役目を果たしてもらう」
公爵は指についた砂糖を布巾で拭いた。
「慈善会への出席、晩餐会の主催、親族間の贈答管理、それから後継者をもうけることだ。ドレス銀行と商会の仕事は、今月末で辞めてもらう」
「辞めるようお願いしているのですか。それとも、決定事項として命じているのですか」
「一族の総意だ」
「私は、その話し合いへ呼ばれておりません」
「当主夫人が帳簿に触れるなど、品位に欠ける。金勘定は男に任せ、夫を支えることに専念すればよい」
公爵夫人が扇を開き、口元を隠した。扇からは濃い薔薇の香油が漂っている。
「披露宴を終えた翌日から仕事へ行くなんて、クロードが妻を養えないように見えますわ。夫の面目を潰す行為です」
「私の仕事と、クロードの収入は関係ありません」
「妻が働かなければならないほど生活に困っている、と民は考えます」
「商公国の民は、私が何をしているか知っています。生活費のためだけに働いているとは思わないでしょう」
従兄の一人が鼻で笑った。名をロベルトといい、東方交易部門の責任者を務めている。袖口には高価な金糸の刺繍が施されていたが、その上へ菓子の粉をこぼしていた。
「ドレスを預かる程度の仕事を、国家事業のように言われても困りますな。婦人方の気晴らしにはなるでしょうが、商会経営とは別の話です」
「ドレス銀行は、先月だけで金貨三千二百枚の利益を上げました」
「その程度なら、商会の一部門にも及ばない」
「銀行単体の利益です。保管された資産を担保とする小口融資、貸衣装事業、修繕工房、輸送部門への波及利益は含めておりません」
ロベルトは答えず、葡萄酒を飲んだ。カトレアは革鞄から書類を出そうとしたが、グラハム公爵が卓を指で叩いた。
「今日は経営報告を聞くための会議ではない。結婚後の役割を確認するための場だ」
「私の役割を、私を除いて決めたのですね」
「家へ嫁いだ女性が、一族の方針に従うのは当然だ。お前は今日から、クロードの妻なのだぞ」
クロードが椅子を蹴るように立ち上がった。重い椅子の脚が床を擦り、親族たちの視線が一斉に集まる。
「カトレアは結婚しても――」
「クロード、私に話させてください」
「だが、こいつらは君に命令している」
「ですから、命令を受けた私が答えます」
カトレアは夫の前へ出た。クロードはまだ何か言いたそうだったが、拳を握ったまま一歩下がった。彼が黙ると、カトレアは監査報告書を一冊ずつ卓へ並べた。
「こちらは、商公国中央監査院が作成した、過去三年間の商会利益に関する報告書です」
グラハム公爵は書類を手に取らなかった。代わりにロベルトが最初の頁を開き、面倒そうに数字を追った。しかし、二枚目へ進むと指が止まった。
「昨年度、商会全体の純利益は金貨十八万枚。そのうち金貨七万二千枚が、私の提案した改革によって生まれています」
「計算が違うのではないか」
ロベルトが報告書を顔へ近づけた。
「四割だぞ」
「はい。商会利益の四割です」
カトレアが行った改革は、眠っていた倉庫の共同利用、運送馬車の往復便への荷物積載、女性職人との直接契約、商品ごとに別々だった帳簿の統一だった。空の馬車を戻さず、帰りにも荷物を積むだけで輸送費は大きく減った。織物や刺繍品を仲介商人から買うのではなく、女性職人へ適正な賃金を払って直接仕入れたことで、品質も利益も上がっていた。
「倉庫の共同利用なら、以前から案は出ていた」
グラハム公爵が言った。
「案を出しただけで、誰も実行しませんでした。荷物の管理責任が複雑になると反対されたからです」
「お前は、それを整理しただけだろう」
「その整理をするために、倉庫ごとの在庫を調べ、二百三十七種類あった書式を八種類へ統一しました。誰かがやらなければ、利益は生まれていません」
「それでも、商会は一族のものだ」
「私も共同経営者として出資しています」
カトレアは契約書を開いた。結婚前にクロードと共同で立ち上げた新規事業について、彼女が資金と改革案を出し、利益の四割を受け取る権利が明記されている。婚姻によって契約が消滅しないことも、公証人の署名つきで確認されていた。
「私を妻として黙らせるなら、共同経営者として利益を回収します」
カトレアはもう一つの書類を卓へ置いた。
「今月末で辞任するよう命じられた場合、私は契約に基づき、出資金、未払い配当、改革案の使用料を回収します。あわせて、私が管理する事業の権利を商会から引き揚げます」
「使用料とは何だ」
「帳簿方式、輸送経路、工房との直接契約には、私の名義で登録した商業権が含まれています。結婚前、商会が利益だけを奪えないよう登録しました」
ロベルトは損失額の試算表をめくった。隣の従兄も肩越しにのぞき込み、口の中に残っていた菓子を急いで飲み込んだ。カトレアが辞任した場合、一年目の損失は金貨九万枚、二年目には取引先の流出を含めて十三万枚を超える。さらにドレス銀行との提携が切れれば、衣装、宝石、運送、保険部門にも影響が広がる。
「これは脅迫ではないか」
公爵夫人が扇を閉じた。
「いいえ。辞任を求められたので、必要な清算額を示しているだけです」
「家族になったばかりなのに、お金を持ち出すというの?」
「家族になれば、共同経営者の権利を無視してよいのですか」
「夫を愛しているなら、商会へ残すべきでしょう」
「私がクロードを愛していることと、無償で利益を譲ることは別です」
公爵夫人は口をつぐんだ。薔薇の香油と香木の匂いが混じった部屋で、紙をめくる音だけが続いた。暖炉のそばに置かれた焼き菓子は誰も手をつけなくなり、砂糖が湿気を吸って表面の艶を失っていた。
「仮に、仕事を続けるとしてだ」
グラハム公爵は損失額から目を離さずに言った。
「公子夫人としての務めはどうする。晩餐会も慈善会も、すべて放棄するつもりか」
「必要な公務は、クロードと分担します」
「分担?」
「晩餐会の献立は二人で決めます。来客名簿も二人で確認します。私が商会の会議へ出る日は、クロードが慈善施設を訪問します」
クロードが後ろから口を挟んだ。
「子ども向けの慈善施設なら、私のほうが人気があるぞ」
「菓子を配りすぎるからです」
「子どもが喜ぶ」
「夕食を食べなくなると、職員から苦情が来ています」
「次からは果物にする」
グラハム公爵は額へ手を当てた。
「公子が夫人の代わりに、慈善会へ出るというのか」
「代わりではない。公務を半分ずつ担当する。結婚は、私が仕事をすべてカトレアへ渡す契約ではないからな」
「家の慣習を変えるつもりか」
「利益の四割を失ってまで守る価値のある慣習なら、その理由を説明してくれ」
クロードが尋ねると、誰も答えなかった。カトレアが辞任した場合の損失額は、全員の前に数字で示されている。品位や慣習という言葉だけでは、金貨十三万枚の穴を埋められなかった。
長い沈黙のあと、ロベルトが監査報告書を閉じた。
「東方交易部門でも、往復便の仕組みを使いたい。カトレア殿に、来週の会議へ出席していただけないだろうか」
「先ほどは、婦人の気晴らしだとおっしゃいましたね」
「ドレス銀行については、私の理解が足りなかった」
「それは謝罪ですか」
「……申し訳なかった」
ロベルトは椅子へ座ったまま、頭を下げた。ほかの親族も報告書を読み直し、辞任を求める者はいなくなった。グラハム公爵は冷めた茶を一口飲み、すぐに顔をしかめた。
「この茶は何度だ」
給仕係が慌てて温度計を確かめた。
「六十一度でございます」
「一度低い」
「伯父上、一度くらい我慢してください」
クロードが言うと、公爵はさらに不機嫌な顔をした。カトレアは思わず口元を緩めたが、すぐに監査報告書をまとめた。
「それでは、私は仕事を続けます。今後、私の職務に関する話し合いには、必ず私を参加させてください」
「検討しておこう」
グラハム公爵が答えた。
「検討ではなく、決定してください」
「……分かった」
会議が終わっても、カトレアは壁際の小さな椅子へ一度も座らなかった。書類を革鞄へ戻していると、クロードが最上座の近くに置かれた予備の椅子を持ち上げた。背もたれが高く、座面にも厚い革が張られた、彼の椅子と同じ形のものだった。
「クロード、何をしている」
グラハム公爵が尋ねた。
「席を直している」
クロードは自分の椅子の隣へ、同じ高さの椅子を置いた。二脚の背もたれが、長い卓の右側に並ぶ。壁際の小さな椅子は使用人へ命じ、部屋の外へ運ばせた。
「夫人の席は後ろだ」
「私の共同経営者は後ろに座らせない」
クロードはカトレアへ向き直り、隣の椅子の背へ手を置いた。
「私の後ろではない。ここが君の席だ」
カトレアはすぐには座らなかった。伯爵家にいたころ、食卓の席は両親が決めた。婚約者の隣へ座るときも、令嬢として決められた位置に従っていただけだった。ドレス銀行の受付台には自分の椅子があったが、一族の会議でクロードと同じ高さの席を与えられるとは思っていなかった。
「座ってみろ。高さが合わないなら、職人に直させる」
クロードが言った。
「あなたは椅子まで私に合わせるつもりですか」
「毎朝、私の釦を直してもらっている。そのくらいはする」
「釦はご自分で直してください」
カトレアはそう答えながら、椅子へ腰を下ろした。座面は少し硬かったが、卓上の書類へ無理なく手が届き、誰かの肩越しに帳簿を見る必要もない。クロードも隣へ座ると、二人の目の高さはほとんど同じになった。
「この椅子で構いません」
「分かった。次の会議から、君の名札も用意させる」
「役職は、公子夫人ではありませんよ」
「商会共同経営者、ドレス銀行頭取、輸送改革部門責任者。全部書いたら、札が長くなるな」
「カトレアで結構です」
午後の定例会議では、カトレアの席が最初からクロードの隣へ用意された。机には彼女の名を記した札と、いつもの監査帳簿が置かれている。給仕係は二人の間へ胡桃の焼き菓子を置き、今度の茶は六十五度に合わせた。
「熱いですね」
カトレアが一口飲んで言った。
「伯父上の冬の指定温度だ」
「私は六十二度がよいです」
「三度で何が変わるのか分からないと言ったが、意外と変わるな」
「次からは別々に用意してもらいましょう」
二人が茶の温度を相談していると、商会の職員たちが入室した。誰もカトレアへ退席を求めず、帳簿を彼女の前へ差し出した。彼女は自分の名札を一度指でなぞり、最初の頁を開いた。
その席は、妻になった褒美として与えられたものではなかった。父の娘だったからでも、公子に愛されたからでもない。自分で考え、働き、利益を生み、失えば困ると一族に認めさせて得た席だった。
「それでは、会議を始めます」
カトレアが告げると、全員が帳簿を開いた。隣ではクロードが胡桃の焼き菓子を取ろうとしていたが、彼女は皿を自分の側へ少し引いた。
「一人二つまでです」
「共同経営者に命令するな」
「これは妻としての助言です。昨日も四つ食べたでしょう」
「ならば従うしかないな」
クロードは菓子を二つだけ取り、皿をほかの者へ回した。カトレアは同じ高さの椅子に座ったまま、商会の収支を読み上げた。もう誰かの後ろから許可を待つ必要はなかった。




