第18話 妹が縫った最初のドレス
第18話 妹が縫った最初のドレス
服飾工房で働き始めて三日目、リリーは床いっぱいに深紅の絹を広げていた。朝の光を受けた布は薔薇の花びらのように艶めき、窓から入る風に揺れるたび、さらさらと乾いた音を立てる。リリーは薄桃色の仕事着に白い前掛けをつけ、銀色の裁ち鋏を手にしたまま、布の上へ直接しゃがみ込んでいた。
「リリー、その手を止めなさい!」
工房長のマルタが叫んだ。五十代のマルタは黒い仕事着を着て、首から巻き尺と糸切り鋏を下げている。昼食用の玉ねぎを切っていたらしく、太い指からは絹糸ではなく玉ねぎの匂いがした。
「どうしてですか。これから裾飾りを作るところです」
「その花びらを何枚切るつもりなの」
「たくさんあったほうが華やかでしょう。百枚くらいです」
「その絹が一尺いくらするか知っている?」
「上等なものだとは聞いています」
「金貨一枚と銀貨八枚よ。あなたはさっきから、金貨十二枚分の布を花びらの切れ端にしているの」
リリーは裁ち鋏を持ったまま、床へ散った絹を見回した。伯爵令嬢だったころは、仕立屋が何種類もの布を屋敷へ持ってきた。気に入らなければ別の色を出させ、少しでも傷があれば新しい反物へ替えさせたため、一尺の値段など尋ねたこともなかった。
「余った部分で、手袋を作ればいいのではありませんか」
「これだけ細かく切った布から、どうやって手袋を作るの。指を一本ずつ赤い花びらで包むつもり?」
工房の職人たちが、作業台へ顔を伏せて笑った。リリーは唇を尖らせたが、笑った者を叱りつけることはできなかった。ここでは伯爵令嬢ではなく、見習い職人として週に銀貨六枚を受け取っている。失敗すれば叱られ、余計に使った材料費は給金から差し引かれた。
「でも、このドレスは華やかな夜会用です。裾に花が多いほうが、きっと喜ばれます」
「注文書を読み直しなさい。依頼主は、馬車へ乗り降りしやすく、踊っても裾を踏まないドレスを望んでいる。百枚も花をつけたら、重くて歩けないでしょう」
「きれいなだけでは、いけないのですか」
「ドレスは壁に飾る絵ではないの。人が着て、歩いて、座って、食事をして、時には裾を踏まれるものよ」
マルタは床の絹を拾い、使える大きさと使えない切れ端に分けた。リリーも裁ち鋏を置き、その隣へ座った。絹の切れ端は指に軽く張りつき、床に積もった細い糸は仕事着の裾からなかなか取れなかった。
「この絹は、南の港から運ばれてきたの。蚕を育てる人がいて、糸を繰る人がいて、染める人がいる。船に積み、倉庫で保管し、荷馬車でここまで運ぶ人も必要よ」
「工房が布屋へ代金を払えば、それで終わりではないのですか」
「その代金の中に、全部の仕事が入っているの。あなたが一度で切り損なえば、何人分もの働きがごみになる」
リリーは手の中の赤い布を、もう一度広げた。伯爵邸でドレスを仕立ててもらったとき、床へ落ちた切れ端は使用人が片づけていた。彼女はそれを見たこともなければ、誰の手で作られた布なのか考えたこともなかった。
「この切れ端は、本当に使えませんか」
「小さな花を作るなら使えるわ。ただし、百枚ではなく十二枚。依頼主が歩ける重さにしなさい」
「はい。やり直します」
昼休みになると、職人たちは長い作業台の上を片づけ、持参した弁当を広げた。マルタは先ほど切った玉ねぎと豆を鍋で煮込み、固くなった黒パンをちぎって入れた。リリーの弁当は、借家の近くの店で買った塩漬け肉と林檎だった。
「また塩漬け肉なの?」
隣の席の若い針子が尋ねた。
「料理をしたことがないの。焼こうとしたら、鍋から煙が出たわ」
「油を入れた?」
「お肉から出ると思っていました」
「最初に少し入れないと焦げるわよ。今度、玉ねぎと一緒に煮てごらん。失敗しても、塩味のスープにはなるから」
「玉ねぎは、皮をむけばいいの?」
「そこから説明が必要なのね」
針子は笑いながら、自分の豆の煮込みを少し分けてくれた。リリーは匙で口へ運び、湯気と一緒に胡椒の香りを吸い込んだ。伯爵邸で食べた料理よりずっと質素だったが、午前中ずっと床へ座って布を拾った体には、温かい煮込みがよく染みた。
その日の夕方、リリーは材料台帳をつけるよう命じられた。一本の糸にも値段があり、針にも油にも蝋燭にも金がかかる。職人の人件費、客の屋敷へ届ける輸送費、試着へ出向く馬車代まで足すと、一着のドレスを完成させるために多くの費用が必要だった。
「この刺繍に、三日もかかるのですか」
リリーは台帳を見ながら尋ねた。
「熟練の職人でも三日よ。急がせれば針目が乱れるし、夜まで働かせるなら残業代もいるわ」
「残業代まで払うのですか」
「当たり前でしょう。暗い中で細かな刺繍をしたら、目を悪くする。職人の目と指も材料の一部だと思いなさい。ただし、使い捨てにはできない一番大切な材料よ」
リリーは自分の人差し指を見た。仕事を始めてから針で刺した小さな傷が三つあり、一つには血止めの布を巻いている。以前なら、指に傷をつけた針子へ注意が足りないと文句を言っただろう。けれども、一日中布と向き合ったあとの目は熱を持ち、肩は石を載せたように重くなっていた。
それから二か月が過ぎた。リリーは布を切る前に型紙を置き、余り布の使い道まで考えるようになった。相変わらず大きなリボンや花飾りをつけたがったものの、装飾の重さを量り、予算を超えれば自分から数を減らした。
彼女が考えた華やかな舞踏会用ドレスは、工房で評判になった。腰に大きな花を一輪だけ置き、そこから細い刺繍を裾へ流すデザインで、少ない布でも豪華に見えた。マルタは完成品を前からも後ろからも確かめ、縫い目を指で引っ張った。
「悔しいけれど、飾りを考える才能はあるわね」
「悔しがらなくてもよいではありませんか」
「その口のきき方さえ直れば、もっと褒めるのに」
「これは生まれつきです」
「なら、直すのに時間がかかりそうね」
マルタはそう言いながら、リリーへ新しい注文書を渡した。紙には商公国の公家の紋章が押されている。リリーが依頼主の名を読むと、持っていた台帳を作業台へ落とした。
「カトレア・エルスワイン?」
「クロード殿下との結婚披露宴で着るドレスよ。先方から、あなたを担当にという指名が入った」
「どうして私なのですか」
「妹が服飾工房で働いているなら、最初の正装を任せたいと、ご本人が希望したそうよ」
「でも、私はまだ見習いです」
「だから私が監督する。ただし、デザインと仮縫いはあなたが担当しなさい」
リリーは注文書を拾った。予算欄には十分な金額が書かれていたが、色も形も空欄だった。希望として記されているのは、歩きやすいこと、長時間座っても苦しくないこと、装飾を外して別の式典でも着られることだけである。
「色の指定がありません」
「本人に聞きなさい。明日の午後、打ち合わせに来るわ」
「お姉様は、何色が好きだったかしら」
「私が知るわけないでしょう。妹なら知っているんじゃないの?」
リリーは答えられず、注文書を見つめた。姉が自分のために仕立てたドレスは、何度も譲ってもらった。けれども、それが姉の好きな色だったのか、両親が選んだ色だったのか、一度も尋ねたことがない。
翌日の午後、カトレアは工房へやってきた。青灰色の仕事着を着て、紺色の外套を腕にかけている。以前より顔色はよくなっていたが、腰の革鞄には書類が詰め込まれ、留め金が閉まりきっていなかった。
「いらっしゃいませ、カトレア様」
マルタが挨拶し、リリーを前へ押し出した。
「担当のリリーです。ご希望を詳しく伺います」
「よろしくお願いします」
カトレアが客用の椅子へ座ると、リリーは茶を淹れた。緊張して茶葉を多く入れすぎたため、一口飲んだカトレアの眉がわずかに動いた。リリーも自分の分を飲み、舌に残る強い渋みに顔をしかめた。
「濃すぎました」
「牛乳を入れれば飲めます」
「お姉様は、いつも我慢して飲みますね」
「捨てるのはもったいないでしょう」
「次からは、濃いなら濃いと言ってください」
リリーは牛乳を足し、砂糖入れをカトレアの前へ置いた。姉が砂糖を何杯入れるのかも、今日初めて見た。カトレアは小さな匙に半分だけすくい、ゆっくり茶へ溶かした。
「披露宴のドレスについてですが、歩きやすく、座っても苦しくない形をご希望ですね」
「ええ。クロードは披露宴に各国の料理を用意すると言っています。食べられないほど胴を締めるドレスは困ります」
「殿下は、何を出すおつもりなのですか」
「牛肉の葡萄酒煮込みと、川魚の香草焼きと、林檎の焼き菓子だそうです。朝から献立表を持って歩いていました」
「お姉様の披露宴なのに、殿下のほうが楽しみにしているようですね」
「私より多く試食しています」
リリーは注文書へ書き込み、色見本の束を取り出した。白、青、緑、赤、金と、一枚ずつ姉の前へ並べる。カトレアはどれにも手を伸ばさなかった。
「お姉様は、何色が好きなの?」
尋ねたあと、リリーは鉛筆を握り直した。たった一つの質問なのに、今まで口にしたどんな謝罪よりも、返事を待つ時間が長く感じられた。カトレアは色見本を見つめ、すぐには答えなかった。
「考えたことがありませんでした」
「青ではないの? 昔から青いドレスをよく着ていたでしょう」
「お母様が、私には青が無難だとおっしゃったからです」
「では、白?」
「汚さないよう気をつけるのが大変です」
「赤はどう? 聖女の授与式では赤を着ていたわ」
「あれは、意思を示すために選びました。好きな色とは少し違います」
カトレアは窓の外へ目を向けた。冬の午後は日が短く、向かいの建物の屋根に淡い夕日が落ちている。工房では職人たちが針を動かし、糸を引く音と薪の爆ぜる音が続いていた。
「夜明け前の空の色が好きです」
「何色なの、それは」
「東の空に、まだ夜の黒が残っているでしょう。その下が少しずつ赤くなり、太陽が出る直前に金色へ変わります。夜の仕事を終えて庁舎の窓から見ると、もう少し頑張ろうと思えるのです」
「黒と赤と金ね」
リリーは三枚の色見本を並べた。華やかな桃色や紫を好む自分なら、一着のドレスに黒を使おうとは考えなかった。それでも、姉の話を聞いたあとでは、別の色を勧める気になれなかった。
「分かりました。夜明け前の空を作ります」
デザインが決まると、リリーは材料費を計算した。裾には黒の天鵞絨、腰から胸元には深紅の絹、肩には淡い金色の薄布を使う。金糸は高価なので、刺繍を増やしすぎず、朝日を表す細い線だけにした。
「金糸をあと十巻き注文したらどう?」
リリーが言うと、マルタは見積書を指で叩いた。
「予算は超えないけれど、どこへ使うの」
「裾に星を散らしたら、夜明け前らしいでしょう」
「星を増やしたら夜になるわ。朝を迎えられなくなる」
「では、三巻きにします」
「二巻きで十分。縫う前に、紙へ完成図を描きなさい」
リリーは何度も図案を描き直した。黒から赤へ変わる境目が不自然にならないよう、細い布を重ね、色を少しずつ移り変わらせた。裾を広げると暗い夜になり、立ち上がるにつれて赤く染まり、胸元と肩に金色の光が現れる。
仮縫いの日、カトレアは薄い下着姿で試着台へ立った。リリーは姉の腰へ巻き尺を回し、数字を書き取る。伯爵邸にいたころより腰回りが少し細くなっていた。
「ちゃんと食べているの?」
「食べています。クロードが毎朝、私の机へパンを置いていきますから」
「野菜は?」
「スープに入っています」
「お肉は?」
「披露宴で食べます」
「それでは遅いでしょう」
リリーは脇の縫い代を少し広げた。披露宴で料理を十分に食べても苦しくならないよう、見た目では分からない場所へ余裕を持たせる。姉の体へ針を刺さないよう、一本ずつ向きを確かめた。
「以前、お姉様のドレスを勝手にもらっていたわ」
リリーは裾を整えながら言った。
「覚えています」
「お母様が、姉のものは妹が使って当然だと言ったから、そういうものだと思っていた。でも、私も気に入ったドレスを誰かに持っていかれたら嫌だわ」
「今は分かったのですね」
「布を一尺無駄にしただけで、給金から銀貨を引かれましたから。高い授業料でした」
「その給金で暮らせていますか」
「玉ねぎの皮をむけるようになりました。昨日は豆の煮込みも作ったのよ。少し焦げたけれど、水を足したら食べられたわ」
「今度、私にも作ってください」
「焦げていない日にね」
披露宴の三日前、ドレスが完成した。工房の大きな鏡の前で、カトレアは最後の試着をした。裾には深い黒が広がり、腰へ向かうにつれて赤が現れ、胸元には金色の布が重なっている。歩くたびに黒い襞の奥から深紅がのぞき、肩の薄布が光を受けて淡く輝いた。
装飾は取り外せるようになっていた。披露宴では金糸の朝日を胸元につけ、別の式典では外して落ち着いた正装として使える。腰を締めすぎていないので椅子へ座ることもでき、腕を上げても肩がつらなかった。
「どうかしら」
リリーは鏡越しに尋ねた。指先には針傷が増え、右手の中指には硬い胼胝ができていた。披露宴へ間に合わせるために夜まで縫った日もあったが、追加の人件費はすべて見積書へ記載した。
「私の好きな色です」
カトレアは黒い裾を持ち上げ、赤から金へ移る布を何度も確かめた。
「初めて、自分の好きな色のドレスを着ました」
「それなら、よかったわ」
リリーは笑おうとしたが、口元がうまく動かなかった。代わりに、裾へついた糸屑を拾い、仕事着のポケットへ入れた。
「こちらが請求書です」
工房長のマルタが書類を差し出した。材料費、仕立代、刺繍代、試着にかかった時間、ドレス銀行までの輸送費が一項目ずつ記されている。リリーのデザイン料も、見習いとして適正な額が加えられていた。
カトレアは最初から最後まで読み、羽根ペンを取った。
「お姉様、少し高いと思うなら、値引きしてもいいわ」
「なぜですか」
「家族だから」
「家族でも、仕事の代金は別です」
「でも、私は昔、お姉様からたくさん奪ったでしょう」
「その清算のために、今の仕事を安くする必要はありません。このドレスには、請求された金額だけの価値があります」
カトレアは値切らず、満額を支払う書類へ署名した。金貨の入った袋を受付台へ置くと、マルタが職人たちの前で数えた。そこから材料費と工房の経費を差し引き、リリーにも初めてのデザイン料が支払われた。
リリーは銀貨を一枚ずつ手のひらへ載せた。以前なら、姉の財布から同じ額をもらっても、少ないと文句を言っただろう。けれども今は、針を刺した指と、何度も書き直した図案と、眠りかけながら縫った最後の一針が、一枚ずつ銀貨になったように見えた。
「領収書をお渡しします」
リリーは客にするのと同じように、姉へ書類を差し出した。
「確かに受け取りました」
カトレアも客として領収書を受け取った。
披露宴当日、リリーは工房の職人たちと一緒に会場の後方へ招かれた。卓上には牛肉の葡萄酒煮込み、川魚の香草焼き、焼きたての丸パンが並び、林檎の焼き菓子からは甘い湯気が上がっている。マルタは料理を取りすぎたリリーの皿を見て、午後も仕事があるのだと小声で注意した。
扉が開き、カトレアがクロードと並んで入場した。黒から深紅、そして金へ移り変わるドレスは、蝋燭の明かりを受けるたびに色を変えた。クロードは隣を歩く花嫁を見たまま、階段を一段踏み外しかけている。
「殿下、前をご覧ください」
カトレアが小声で言った。
「見ている」
「私ではなく、階段です」
会場から笑いが起こった。リリーも笑いながら、自分の指に残った針傷へ触れた。姉から奪って着たドレスではない。姉が客として望み、自分が職人として作り、正しい代金を受け取った一着だった。
披露宴のあと、カトレアはドレスをドレス銀行へ預けた。所有者の欄にはカトレアの名が、制作者の欄にはリリーの名が記された。妹が縫った最初のドレスは、どちらか一方が我慢した証しではなく、二人が初めて対等に結んだ契約として、大切に保管された。




