第17話 王妃の真珠
第17話 王妃の真珠
ドレス銀行が閉店して二時間後、裏口の呼び鈴が三度鳴った。カトレアは保管証書の確認を終え、冷めた豆のスープを食べようとしていたところだった。深夜に定められた合図で呼び鈴を鳴らすのは、昼間に姿を見られたくない事情を持つ客だけである。
「今夜の予約は入っていましたか」
カトレアは匙を皿へ戻し、灰色の毛糸の肩掛けを引き寄せた。閉店後なので、青い仕事着の襟元は少し緩めている。机の端には、夕方に脱いだ革靴と、底が薄くなった室内履きが並んでいた。
「いや、予約はない」
帳簿を整理していたクロードが顔を上げた。彼は白いシャツの上に濃紺の上着を羽織り直し、腰の短剣を確かめた。昼間に飲んだ紅茶のカップが机に残り、底には溶けなかった砂糖が固まっている。
「私が先に確認する」
「お客様なら、最初に顔を合わせるのは銀行の責任者である私です」
「強盗なら、最初に顔を殴られるのも君になるぞ」
「では、並んで行きましょう」
「そう言うと思った」
二人が裏口へ向かうと、呼び鈴がもう一度鳴った。今度は一度だけ、遠慮するような短い音だった。クロードが小窓の覆いを開けると、黒い外套を着た女性が一人で立っていた。顔は厚い頭巾で隠れているが、雨の降っていない夜なのに裾まで泥がはねている。
「お名前とご用件をお願いします」
カトレアが扉越しに尋ねた。
「名は、マリアと申します。首飾りを預けたいのです」
「身分証明書はお持ちですか」
「これで足りるでしょうか」
扉の下から、折り畳まれた紙が差し入れられた。クロードが拾って広げると、王宮の内廷でしか使われない紫色の封蝋が押されている。印章は、聖マリアーヌ王国王妃だけが持つ百合と月の紋章だった。
クロードはカトレアを見た。カトレアも黙ってうなずき、内側の閂を外した。
「どうぞ、お入りください」
女性は外套の裾を持ち上げ、狭い裏口を通った。同行者の姿はなく、小さな革鞄を自分で抱えている。扉が閉まると、彼女は頭巾を外した。
現れたのは、聖マリアーヌ王国のエレノア王妃だった。授与式で遠くから見たときは金糸のドレスと宝石に包まれていたが、今夜は町の婦人が着る濃茶色の服を身につけている。髪も飾り気のない三つ編みにしており、頬には冷たい夜風を受けた赤みが残っていた。
「王妃陛下」
カトレアが礼をしようとすると、王妃は慌てて手を伸ばした。
「今夜は、マリアとして扱ってください。王妃として来たのではありません」
「では、マリア様。こちらへどうぞ」
応接室ではなく、一般客が契約をする受付台へ案内した。王妃は丸い木の椅子へ腰かけたが、座面の高さが合わないらしく、何度かスカートの裾を直した。王宮では王妃の体に合わせた椅子しか使わないため、こうした椅子へ座るのは久しぶりなのだろう。
「温かいお茶をお持ちします」
「お気遣いなく。契約だけ済ませたら、すぐに帰ります」
「手が冷えていらっしゃいます。署名をするにも、指が動かないでしょう」
クロードが台所へ行き、湯を沸かし始めた。しばらくすると、薬草茶と固い胡桃パンを載せた盆を持って戻ってきた。蜂蜜の瓶もあったが、底に少し残っているだけだった。
「夜食の残りで申し訳ない」
「王宮を出る前に、夕食はいただきました。雉肉の香草焼きと、海老のスープと、林檎の砂糖煮です」
王妃はそう言ったが、胡桃パンを小さくちぎった。最初は一口だけのつもりだったのか、残りを皿へ置く。けれども、薬草茶を飲んだあとでもう一度手を伸ばし、結局一切れを食べきった。
「雉肉より、こちらのほうがおいしいです」
「冷えて固くなっていますよ」
カトレアが言うと、王妃は口元を押さえて笑った。
「王宮では、食べたくない日にも七皿並べられます。残せば料理長が叱られるので、侍女たちが私の皿を少しずつ空にするのです。自分で食べたいものを選ぶのは、思っていたより楽しいものですね」
王妃は革鞄を膝へ置き、留め金を外した。中から紺色の天鵞絨に包まれた細長い箱を取り出す。蓋を開けると、乳白色の真珠を三連にした首飾りが現れた。
一粒一粒が小指の先ほどもあり、蝋燭の明かりを柔らかく映している。留め具には王妃の紋章が刻まれ、中央には涙の形をした大粒の真珠が下がっていた。海水と白檀を混ぜたような、古い宝石箱特有の匂いがした。
「代々、王妃から次の王妃へ受け継がれてきた首飾りです。六代前の王妃が、故郷から持参したものだと聞いています」
「王冠宝物ではないのですか」
クロードが尋ねた。
「違います。王家へ嫁ぐ女性の個人財産として受け継がれてきました。私も先代王妃から、退位の日に直接渡されました」
「そのことを証明する書類はありますか」
「ございます」
王妃は鞄から、羊皮紙の束を取り出した。歴代王妃の署名と印章があり、首飾りの所有者が王ではなく、その時代の王妃個人であることが記されている。紙の端は茶色く変色していたが、文字も印章も読み取れた。
「国王陛下が、この真珠を売ろうとしているのですね」
カトレアが尋ねると、王妃の手が首飾りの中央で止まった。真珠同士がぶつかり、小さな乾いた音を立てた。
「三日前、王宮へ宝石商が呼ばれました。侍女から聞いて、陛下へ確かめました。国の借金を埋めるため、近く売却すると言われました」
「王妃陛下の許可は求められたのですか」
「いいえ。王国が苦しいのだから、王妃として差し出すのは当然だと」
「借金の原因は何ですか」
クロードが記録用の紙を出した。
「昨年の戦勝記念祭と、新しい離宮の建設です。記念祭では花火を十日間上げ、離宮には外国から取り寄せた大理石を使いました」
「戦争は、いつ終わったのですか」
「二十二年前です」
「ずいぶん長い記念祭だ」
王妃は薬草茶のカップを両手で包んだ。指には指輪が一本もない。王宮を抜け出すために外したのだろうが、薬指には長年つけていた指輪の跡が白く残っていた。
「私は陛下へ、祭典を三日へ短縮するよう申し上げました。離宮も、今ある建物を修繕すればよいと。それでも重臣たちは、国母なのだから王の威光を支えよと言いました」
「国母なのだから耐えよ、ですか」
「ええ。王子を産んだときも、熱が下がる前に祝賀会へ出るよう求められました。父が亡くなったときも、国母が人前で泣くものではないと言われました。実家から相続した葡萄園を売られたときも、国のために耐えることが王妃の務めだと」
王妃は天鵞絨の上に首飾りを置き、真珠の列を一本ずつ整えた。慣れた手つきだった。長い間、式典のたびに自分で確かめてきたのだろう。
「この真珠を渡したくないのです。国が困っていても、渡したくないと思う私は、王妃にふさわしくないのでしょうか」
「王国へ援助するかどうかと、無断で私物を売られることは別の問題です」
カトレアは契約書を王妃の前へ置いた。
「これは王妃としてではなく、エレノア様個人の財産です。売るか、残すか、貸し出すかを決められるのは、所有者であるエレノア様だけです」
「夫である国王にも、渡さないのですか」
「はい。国王であっても、ご本人の署名なしには渡しません」
「軍を連れて取りに来ても?」
「その場合は、商公国への武力侵攻になります」
クロードが胡桃パンを食べながら答えた。
「真珠一つを取り戻すために戦争を始めれば、国の借金はさらに増える。国王も、そこまで愚かではないと信じたい」
「信じたい、なのですね」
「会ったことがあるからこそ断言できない」
王妃は声を抑えて笑い、目元を指で拭った。カトレアは首飾りの特徴を記録し、重さを量り、傷の位置まで図に描いた。中央の真珠には、肉眼では分からないほど細い筋が一本入っている。
「ほかにも、王妃陛下個人の財産はありますか」
「真珠を預けるだけではいけませんか」
「国王陛下が別の財産を売る可能性があります。所有権を証明するため、目録を作成することをお勧めします」
「ですが、どこまでが王家のもので、どこからが私のものなのか、考えたこともありません」
「一緒に確かめましょう。まず、結婚前から所有していたものを教えてください」
王妃はしばらく考え、鞄から小さな手帳を取り出した。表紙には料理の汁らしい茶色い染みがつき、頁の間には乾燥させた菫の花が挟まっている。王宮へ嫁ぐ前から使っている手帳で、実家から持参した品が細かく記録されていた。
「北部の葡萄園が三つ、王都の貸家が十二軒、母から相続した織物工房、それに銀山の採掘権が一部あります」
「先ほど、葡萄園は売られたとおっしゃいましたね」
「一つは売られました。代金は国庫へ入ったと聞いています」
「売却時の署名を覚えていますか」
「私は何も署名していません」
「では、無断売却の可能性があります。代金の返還請求を行えます」
王妃の個人財産は、調べるほど増えていった。父王から贈られた宝石、祖母から相続した森林、織物工房の収益、王妃個人へ献上された美術品もある。王宮ではすべて王家の財産として扱われていたが、贈答状や相続証書には、所有者としてエレノアの名が記されていた。
夜明け近くになると、カトレアは計算結果を読み上げた。
「無断で売却された葡萄園を含め、エレノア様の個人財産は金貨十二万八千枚相当です」
王妃は椅子から立ち上がりかけ、膝を机へぶつけた。薬草茶のカップが揺れ、残っていた茶が受け皿へこぼれる。彼女は濡れた指を前掛けで拭こうとし、自分が前掛けをしていないことに気づいて、カトレアから布巾を受け取った。
「そんなにあるのですか」
「王国の記録によると、国王陛下の個人資産は金貨九万枚ほどです。エレノア様の資産は、それを上回ります」
「私は陛下より裕福なのですね」
「少なくとも、個人財産ではそうなります」
「それなのに、私は新しい靴を一足買うにも、内廷費を管理する官吏へ申請していました」
王妃は泥のついた革靴を見下ろした。左足の爪先には、王宮の裏門を越えるときについたらしい深い擦り傷がある。王妃はその傷を指でなぞり、もう一度目録へ目を落とした。
「この財産を、私の名前で管理できますか」
「はい。収益を王国へ寄付することもできますし、ご自分のために使うこともできます。どちらもエレノア様がお決めください」
「女学校を作りたいのです。読み書きと計算を教え、働いたお金を自分で管理する方法も学べる学校を」
「十分に実現できます」
「それから、新しい靴も買います」
「それが最初でよろしいと思います」
王妃は真珠の保管証書と、財産目録の写しを受け取った。証書には王妃という称号ではなく、エレノア・マリアーヌ個人の名が書かれている。彼女は何度もその名前を指でなぞり、外套の内側に作られた隠しポケットへしまった。
翌朝、王宮では臨時の御前会議が開かれた。国王は赤い礼服の上に白い毛皮の外套をまとい、まだ朝食の葡萄酒が残る杯を手にしていた。長い会議机には、焼いた肉と卵、柔らかい白パンが並んでいるが、借金について話し合う席で食事を続ける者はいなかった。
王妃は昨夜の町娘の服ではなく、深い青のドレスを着ていた。首元には真珠も金剛石もなく、耳飾りさえつけていない。代わりに、手にはカトレアが作成した財産目録と、真珠の保管証書を持っていた。
「王妃、真珠の首飾りを宝石商へ渡せ」
国王はパンをちぎりながら命じた。
「今日中に金貨二万枚を用意しなければならない。王家のためだ。異論は認めぬ」
「何の支払いに使われるのですか」
「離宮の舞踏室へ取りつけた鏡の代金だ。それから、来月の狩猟祭にも費用がかかる」
「狩猟祭を中止なさればよいのではありませんか」
「王が催しを取りやめれば、国民に財政難を悟られる。王家の威信を守るため、真珠を売るのだ」
国王が手を伸ばすと、王妃は真珠ではなく、一枚の証書を机へ置いた。紙の上には、ドレス銀行の青い封蝋が押されている。重臣たちは椅子から身を乗り出し、互いに顔を見合わせた。
「真珠はどこだ」
「商公国のドレス銀行へ預けました」
「勝手なことをするな! あれは王家の宝だぞ」
「いいえ。六代前の王妃が持参し、代々の王妃へ個人財産として相続されたものです」
「王妃の財産は、王の財産だ」
「その根拠となる法律をお示しください」
国王は答えず、財務官を見た。財務官は慌てて書類を探したが、王妃の個人財産を国王が自由に処分できるという法律は見つからなかった。あるのは、未婚女性の財産を父や兄が管理できるという古い慣習だけで、既婚女性の私有財産を夫へ譲渡する条文はなかった。
「慣例だ。王妃は国母として、国へすべてを捧げるものだ」
国王は杯を机へ置いた。葡萄酒がこぼれ、白い卓布に赤い染みが広がった。
「国母なのだから耐えよ。これまで、お前もそうしてきただろう」
王妃は膝の上で両手を組んだ。王子を産んだ翌日の祝賀会も、父の葬儀へ出席できなかった日も、葡萄園が売られたと知らされた朝も、同じ言葉を聞いた。けれども今日は、指先で触れられる証書があった。そこには称号ではなく、自分の名前が記されていた。
王妃は保管証書を国王の前へ滑らせ、背筋を伸ばした。
「その真珠、私の私物ですが?」
御前会議の席が静まり返った。暖炉で薪が崩れ、侍従の腹が小さく鳴った。誰も笑わなかったが、若い書記官は慌てて口元を隠した。
「王妃、お前は誰にそのような口を教わった」
「教わったのではありません。私は、自分の所有物について事実を申し上げただけです」
王妃は続いて財産目録を机へ置いた。総額を見た財務官は眼鏡を外し、布で拭いてからもう一度数字を確かめた。国王も目録を奪うように取り、頁をめくるたびに顔を赤くした。
「葡萄園も、織物工房も、銀山の採掘権も、私個人の財産です。今後、その収益は私名義の口座で管理します。国へ貸し付ける必要がある場合は、金額、利息、返済期限を記した契約書をご用意ください」
「夫婦の間で契約書を作れと言うのか!」
「国王陛下と国母としてではなく、財産を借りる者と貸す者として必要です」
「拒めばどうなる」
「狩猟祭を中止なさればよろしいかと存じます」
会議机の端で、軍務卿が吹き出した。国王に睨まれると咳払いをし、冷めた卵を皿の隅へ寄せた。ほかの重臣たちも視線を伏せたが、王妃へ反論する者はいなかった。
その日の午後、国王は狩猟祭の規模を十分の一へ縮小すると発表した。離宮の舞踏室に取りつける予定だった最後の鏡も取り消され、建設費の監査が始まった。王妃は織物工房の収益を使い、女学校設立の準備委員会を立ち上げた。
夕方、王妃の侍女が町の靴職人を王宮へ呼んだ。王妃は豪華な宝石つきの靴ではなく、泥道を歩いても滑らない茶色の革靴を注文した。職人が足の大きさを測っている間、王妃は朝の会議で残した白パンを薄く切らせ、蜂蜜を塗って食べた。
「陛下、王宮の菓子をお持ちしましょうか」
侍女が尋ねた。
「今日は、これで十分です。それより、あなたも座って一緒に食べなさい」
「王妃陛下と同じ卓につくわけにはまいりません」
「これは私のパンです。誰と分けるかは、私が決めます」
王妃は白パンをもう一枚取り、蜂蜜を塗って侍女の皿へ置いた。首元に真珠はなかったが、もう寒々しくは見えなかった。ドレス銀行の保管庫では、三連の真珠がエレノアの名を記した箱に収まり、本人の署名が届くまで、誰の手にも渡らず眠っていた。




