第16話 ドレス銀行、開業します
第16話 ドレス銀行、開業します
聖女の授与式から一か月後、商公国の仕立屋通りに、青い扉の建物が完成した。正面の看板には、金色の糸巻きと鍵の絵が描かれ、その下に「ドレス銀行」と大きく書かれている。通りを歩く人々は足を止め、銀行なのに金貨ではなくドレスを預かるのかと、朝から看板を見上げていた。
開業前日の夜、カトレアは一階の受付台で契約書を確認していた。着ているのは飾りのない濃緑のドレスで、寒さを防ぐために灰色の毛糸の肩掛けを羽織っている。床には開封した木箱と梱包用の藁が散らばり、天井近くまである棚からは、新しい木材と防虫用の香草の匂いが漂っていた。
「保管庫一号、鍵に異常なし。保管庫二号、湿度に異常なし。貸衣装室の鏡は……少し傾いていますね」
「鏡なら明日の朝、職人に直させる」
脚立の上にいたクロードが答えた。商公国の公子である彼は、今日は白いシャツの袖を肘までまくり、壁に番号札を取りつけている。腰には金槌と釘を入れた革袋を下げており、髪には木屑が一つついていた。
「クロード、少し右です」
「札か?」
「いいえ。あなたの頭についている木屑です」
「それを先に言ってくれ。さっきから頭を右へ傾けていた」
カトレアは脚立の下で笑い、卓上に置いてあった林檎を取った。夕食を抜かないよう料理人から持たされたものだが、仕事を続けるうちに皮へ皺が寄っている。小刀で半分に切ると、蜜の甘い匂いが広がった。
「半分いかがですか」
「もらおう。ただし、脚立の上まで投げるなよ」
「そのような行儀の悪いことはしません」
「昨日、書類の束を机越しに投げてよこしたではないか」
「あれは急いでいたからです。林檎と書類は違います」
「投げられた側には、あまり違いがない」
クロードは脚立から下り、林檎を受け取った。二人が受付台へ並んで腰かけると、建物の奥から金属を叩く音が聞こえた。職人たちが最後の保管箱を取りつけているのだ。
「本当に間に合うでしょうか」
「間に合わせる。すでに明日の予約は八十七件だ」
「昨日は五十二件だったはずです」
「聖マリアーヌ王国から、夜行馬車が三台出たらしい。全員、この銀行へ来る女性たちだ」
カトレアは食べかけの林檎を皿へ置いた。開業を知らせる広告には、本人名義で衣装や宝石を預けられること、家族であっても本人の署名なしには持ち出せないことを記した。保管だけでなく、貸し出し、修繕、売却、相続についても、預けた本人が決められる。
「保管料を払えない方も来るでしょうね」
「給金の少ない者には、小箱一つまで無料だ。料金は高価な宝石や、大量の衣装を預ける者から取ればいい」
「それでは、裕福な方から不公平だと苦情が出ませんか」
「大きな荷物には大きな保管庫が必要だ。当然の料金だ。それでも不満だと言うなら、自宅で見張り番を雇えばいい」
「あなたは時々、とても商公国の公子らしいことを言いますね」
「時々とは何だ」
翌朝、カトレアがドレス銀行へ到着すると、青い扉の前から通りの角まで女性たちの列が延びていた。商公国の婦人だけではない。聖マリアーヌ王国の紋章が入った馬車も並び、旅装の令嬢、買い物籠を持った女中、赤ん坊を抱いた妻まで順番を待っている。
通りのパン屋は客が増えると見込み、予定より早く店を開けていた。焼きたての丸パンと玉ねぎのスープを売り始めると、列に並ぶ女性たちは交代で朝食を買った。湯気に混じる胡椒の匂いで、ドレス銀行の前だけが祭りの日のようになった。
「八十七人どころではありませんね」
カトレアは紺色の外套を脱ぎながら言った。今日は青灰色のドレスを着て、腰に保管庫の鍵束を下げている。鍵が触れ合うたび、澄んだ金属音が鳴った。
「今朝数えたときは、百四十三人だった」
クロードは丸パンを二つ抱え、口に一つくわえていた。胸元の飾り釦を掛け違えているが、本人は気づいていない。カトレアは黙って釦を直した。
「また曲がっていました」
「朝食を食べながら着替えたからだ」
「今日だけは、もう少し公子らしくしてください」
「公子らしくしていたら、開店までに食べ終わらない」
鐘が九時を告げると、カトレアは青い扉を開いた。受付係と鑑定人と仕立職人が一列に並び、最初の客を迎える。扉の上につけられた小さな鐘が鳴ると、外で待っていた女性たちから拍手が起こった。
最初に入ってきたのは、三十代半ばの妻だった。くすんだ茶色のドレスに毛羽立った外套を着て、両手で古い木箱を抱えている。箱の角は何度もぶつけたらしく、金具が曲がっていた。
「お名前をお願いいたします」
「アンナ・ベルガーです。夫は靴職人をしています」
「今日は何をお預けになりますか」
「母が持たせてくれた嫁入り道具です。残っているものだけですが」
アンナが箱を開けると、刺繍入りの敷布と銀の匙が二本、珊瑚の耳飾りが入っていた。敷布には小さな葡萄が並んでおり、一房だけ糸の色が違う。アンナはそこを指でなぞった。
「十二歳のとき、母に教わって刺しました。最初の一房を間違えて、青い葡萄にしてしまったんです」
「きれいな刺繍ですね」
「同じ布が六枚ありました。銀の燭台も、母の指輪もありました。でも、義母が夫に相談せず売ってしまいました。家族になったのだから、嫁入り道具は家のものだと言われて」
「売却代金は、何に使われたのですか」
「義弟の結婚式です。花嫁には、新しいドレスが三着も用意されました」
アンナの指は、珊瑚の耳飾りを何度も箱の隅へ寄せていた。カトレアは契約書を取り、彼女にも文字が見える向きへ置いた。
「こちらの敷布、匙、耳飾りを、アンナ・ベルガー様の所有物としてお預かりします。貸し出し、売却、修繕には、ご本人の署名が必要です。夫、義父母、実家の家族であっても、署名なしには持ち出せません」
「夫が取りに来ても、渡さないのですか」
「渡しません」
「義母が、これはベルガー家のものだと言っても?」
「その主張を証明する書類がなければ、渡しません。預入証に書かれた所有者は、アンナ様です」
「私の名前で、預けられるのですね」
「はい。あなたのものは、あなたのものです」
アンナは受け取った預入証を、外套の内側へしまった。胸元の釦を二つも留め直し、紙が落ちないことを確かめる。外へ出るころには、木箱を抱えていたときより背筋が伸びていた。
二人目は、聖マリアーヌ王国から来た令嬢だった。名をエミリアといい、淡い黄色の旅行着の裾には馬車の泥がついている。付き添いの侍女が大きな革鞄を持っていたが、本人は小さな宝石箱を胸へ抱えていた。
「この首飾りを預けたいのです」
箱の中には、緑色の石を連ねた首飾りがあった。留め金の近くに、百合の紋章が刻まれている。
「姉のものです。姉は病気で、自分では来られません」
「では、お姉様の署名入り委任状はございますか」
「持ってきました。医師と公証人の署名もあります」
エミリアは三通の書類を取り出した。カトレアが確認すると、姉の名はアデーレと記されていた。宝石は祖母から姉へ相続されたものであり、エミリアは預け入れだけを任されている。
「弟が、この首飾りを売ろうとしているのです」
エミリアは声を落とした。
「賭け事で借金を作り、父に泣きつきました。父は、姉が寝ている間に持ち出せばよいと言いました。嫁ぐ予定もない娘が、宝石を持っていても仕方がないと」
「お姉様は、売却を望んでいますか」
「いいえ。これは亡くなった祖母が、姉の十八歳の誕生日に贈ったものです。姉は病床でも、毎月一度は箱を開けて磨いています」
「では、売却不可として登録します。修繕と貸し出しも、アデーレ様の直筆署名がある場合に限ります」
「弟が姉の署名を真似たら、どうなりますか」
「署名だけでは判断しません。登録時に選んだ合言葉と印章、それに筆跡を照合します。不審な点が一つでもあれば、取引を止めます」
エミリアは肩から息を吐き、侍女と顔を見合わせた。姉妹で決めてきた合言葉は、子どものころ飼っていた山羊の名前だった。カトレアが記録しようとすると、エミリアは急に口元を押さえて笑った。
「『大将軍クッキー』です」
「ずいぶん強そうな山羊ですね」
「姉の焼き菓子を籠ごと食べたので、こう呼ばれるようになりました」
「合言葉としては、とても安全です」
カトレアが預入証を渡すと、エミリアは両手で受け取った。姉の名前が所有者欄に記されていることを何度も確かめ、革鞄の一番奥へしまった。
三人目は、商公国の宿屋で働く若い女中だった。灰色の仕事着に白い前掛けをつけたままで、袖からは石鹸と魚を焼いた煙の匂いがした。布包みを開くと、銅貨と銀貨が数枚ずつ現れた。
「ドレスも宝石もありません。それでも、預けられますか」
「もちろんです。お名前は?」
「マーサです。姓はありません」
「では、マーサ様のお名前で口座を作ります」
「様なんて、つけなくていいです。私は皿洗いと客室掃除しかしていません」
「ここでは、預ける金額や身分で呼び方を変えません」
マーサは白い前掛けの端を握り、何度も折り畳んだ。給金日になると父親が宿屋の裏口で待ち、酒代だからと金を持っていくのだという。断れば店へ怒鳴り込み、主人に迷惑をかけるため、これまでは渡すしかなかった。
「父に酒を飲ませないと暴れるんです。私が払わなければ、近所の人に借りると思います」
「それは、お父様が考えることです」
「でも、家族なのに見捨てたと言われます」
「マーサ様は、これまで十分に支えました。これから給金のうち、いくらをご自分のために残したいですか」
「全部と言ったら、欲張りでしょうか」
「あなたが働いて得た給金です。全部預けても、欲張りではありません」
カトレアは少額口座の契約書をゆっくりと読み上げた。給金は宿屋から直接振り込めること。本人が決めた金額だけを引き出せること。父親が来ても、居場所や残高を教えないこと。将来、本人が亡くなった場合は、指定した相手へ残高を渡せることも説明した。
「相続する人も、自分で決められるのですか」
「はい。今すぐ決めなくても構いません。何度でも変更できます」
「では、今は空欄にします。いつか、自分の家族ができたら書きます」
「分かりました。あなたのものは、あなたのものです」
マーサは銅貨一枚だけを手元へ残し、残りを預けた。その一枚で帰りに温かい豆のスープを買うのだという。今までは給金日に何も食べず、父親へ渡したあとで宿屋の残り物をもらっていた。
昼になっても、列は短くならなかった。受付係たちは交代で玉ねぎのスープを飲み、固いパンを浸して食べた。カトレアの分は机の端で冷め、表面に薄い膜が張っていた。
「少し休め」
クロードが帳簿を閉じた。
「まだ五十人以上待っています」
「だからこそだ。君が倒れたら、五十人全員が明日まで待つことになる」
「スープを飲みながら契約を読みます」
「書類へこぼすから駄目だ」
「私は子どもではありません」
「昨日、林檎の汁を二枚の書類へこぼした」
「あれは林檎のほうに問題がありました」
「果物へ責任を押しつけるな」
クロードは冷めたスープを台所へ持っていき、温め直して戻ってきた。カトレアが匙を取るまで、契約書の束を自分の腕の下へ隠している。待っている女性たちもその様子を見て笑い、誰かが「銀行の頭取にも食事を管理する人が必要ね」と言った。
午後、入口で男の怒鳴り声がした。受付へ駆けつけると、マーサの父親が門衛に取り押さえられていた。酒の匂いを漂わせ、泥のついた上着のまま青い扉を蹴っている。
「娘の給金を返せ! 家族の金を勝手に隠すな!」
「口座の所有者はマーサ様です。あなたには残高もお教えできません」
カトレアが答えると、男は顔を赤くして腕を振り回した。
「あいつは俺が食わせて育てたんだぞ。娘が稼いだ金は父親のものだ!」
「マーサ様が幼いころの養育費と、現在の給金は別のものです」
「父親を飢え死にさせる気か!」
「働けない事情があるなら、救済窓口をご案内します。働けるのであれば、職業紹介所をご案内します。どちらになさいますか」
「俺は金を返せと言っているんだ!」
「返しません。最初から、あなたのお金ではありません」
男がなおも暴れると、門衛は通りの警備所へ連れていった。青い扉には靴跡が残ったが、鍵も蝶番も壊れなかった。クロードがしゃがみ込み、濡らした布で泥を拭いた。
「初日から扉を蹴られる銀行というのも、珍しいな」
「頑丈な扉にしておいて正解でした」
「私が三重の金具をつけろと言ったのだ」
「公子らしい判断でした」
「今度は時々をつけなかったな」
閉店の鐘が鳴ったのは、日が沈んでからだった。最後の客は、亡き母の形見だという古い木綿のドレスを預けた。金銭的な価値はほとんどなかったが、銀行はほかの品と同じように番号をつけ、防虫布で包んで保管庫へ収めた。
一日の預け入れは、宝石が百二十一点、衣装が二百八十六着、現金口座が六十四件にのぼった。売却や修繕の相談も多く、仕立職人たちは明日の仕事を確認しながら、残っていた丸パンを分けている。パンは朝より固くなっていたが、暖炉で少し炙ると、小麦の香りが戻った。
カトレアは受付台に残り、最後の契約書へ確認印を押した。蝋が冷えて固まるまで待ち、今日作られた口座の所有者名を一人ずつ確かめる。妻でも、娘でも、姉でも、女中でもなく、すべて本人の名前が記されていた。
「明日も、同じくらい来るだろう」
クロードが温かい茶を差し出した。
「受付を増やさなければなりませんね。文字を読めない方のために、契約内容を読み上げる担当も必要です」
「王都にも支店を出してほしいという手紙が来ている」
「まだ開業初日ですよ」
「必要なものが、今までなかったということだ」
カトレアは青い扉の向こうを見た。通りは静かになり、パン屋も店じまいを始めている。けれども、扉の外には明日の順番を取るために置かれた籠が、すでに三つ並んでいた。
翌朝、ドレス銀行の前には再び長い列ができた。先頭の女性は、嫁入り前に自分で仕立てた赤いドレスを抱えている。その後ろでは、魚売りの娘が銅貨を入れた袋を握り、年配の未亡人が屋敷の権利書を胸へ抱いていた。
カトレアは青い扉を開け、一人目の女性を受付へ案内した。契約書を相手にも見えるように置き、急がず、最初の一行から読み上げる。
「預ける品の所有者は、ここにお名前を書いたご本人です。家族であっても、ご本人の許可なく貸し出し、売却、譲渡することはできません」
女性は赤いドレスを抱えたまま、何度もうなずいた。カトレアは羽根ペンを渡し、昨日から何度も口にした言葉を、もう一度はっきりと告げた。
「あなたのものは、あなたのものです」




