第15話 聖女の無償奉仕
第15話 聖女の無償奉仕
聖マリアーヌ王国からの使者が商公国へ到着したのは、朝市に林檎と胡桃が並び始めたころだった。使者は白地に金糸で百合を刺繍した礼装を着ており、従者には王家の紋章が入った大箱を運ばせていた。中央庁舎の応接室へ通されると、椅子へ座る前に香水を振りかけたため、甘い百合の匂いが焼きたてのパンの香りを押し流した。
カトレアは使者の向かいに座り、朝食の途中だった黒パンを布へ包んだ。今日は薄茶色の仕事着に、フェリックスから返された青い首飾りを合わせている。売却するつもりだったが、クロードから一つくらい自分のために残せと言われ、初めて身につけたものだった。
「ご用件を伺います」
「カトレア・エルスワイン嬢。あなたに、聖マリアーヌ王国王家より名誉あるお知らせをお持ちしました」
使者が指を鳴らすと、従者が大箱の蓋を開けた。中には白絹のドレス、銀の冠、百合をかたどった杖が入っている。冠には小さな真珠がびっしりと縫いつけられ、杖には「献身こそ女性の誉れ」と古い王国文字で刻まれていた。
「王家はあなたを、当代の聖女として認定することにいたしました」
「私には治癒の力も、神託を受ける力もありません」
「そのような力は必要ありません。家族の借金を背負いながら領民を救い、商公国の発展にも尽くしておられる。あなたほど、女性の献身と忍耐を体現する方はいないでしょう」
「私は両親の借金を背負っていません。正規の手続きで財産を整理し、責任を負うべき人に負わせました」
使者の笑顔がわずかに固くなった。彼は咳払いをし、従者から別の書類を受け取った。香水の匂いに混じって、紙へ塗られた防虫香の苦い匂いが漂った。
「細かな事情はともかく、民衆はあなたを称賛しております。王家としましても、その功績をたたえたいのです。授与式には、こちらの白いドレスをお召しください」
「このドレスは、どなたが仕立てたのですか」
「王宮お抱えの仕立屋です。銀貨五百枚をかけた特別な品でございます」
「縫い子には、いくら支払われましたか」
「そのような細部まで、私は存じません」
カトレアは白い袖を持ち上げた。見事な百合の刺繍が施されていたが、裏側を見ると、縫い子の指から出たらしい小さな血の染みが残っている。使者は慌てて袖を取り返し、染みが見えないように畳んだ。
「それでは、称号を受ける条件をご説明いたします」
「やはり、条件があるのですね」
「条件などという堅苦しいものではありません。聖女としての、当然の奉仕でございます」
使者が差し出した要求書には、商公国でカトレアが管理する交易事業の利益、その三割を聖マリアーヌ王国へ毎年提供すると書かれていた。期限は定められておらず、使途を報告する義務も王家にはない。さらに、カトレアが将来結婚した場合も、夫の財産から同額を納めるよう求める一文まで加えられていた。
「これは寄付ではありません。終身の納付契約です」
「聖女の善意を契約という言葉で縛る必要はないでしょう。署名だけいただければ結構です」
「善意なら、断る自由があるはずです」
「祖国への恩をお忘れですか。あなたを育てたのは聖マリアーヌ王国です」
「私を育てたのは乳母と家庭教師と使用人です。お給料を払ったのは祖母の遺産でした」
使者は布で額を拭った。九月に入ったばかりだというのに、応接室の暖炉には見栄えのための火が入っている。クロードは先ほどから窓辺に立ち、火を消したそうな顔で会話を聞いていた。
「カトレア嬢、王家から称号を授けられるのですよ。未婚の女性がこれほどの名誉を受けることは、めったにありません」
「称号をいただく代わりに、私が働いて得た利益を差し出せと?」
「聖女とは、自分のために蓄える女性ではありません。人のために、喜んで差し出せる女性のことです」
「では、国王陛下がご自分の資産を差し出し、聖人になられてはいかがですか」
使者は口を開けたまま、言葉を失った。クロードが窓辺で吹き出し、すぐに咳でごまかした。カトレアは要求書を机へ置き、白いドレスの箱を使者の側へ押し返した。
「授与式には出席します。ただし、この衣装は着ません。要求書も持参いたします」
「白は、清らかな献身を表す聖女の色です。ほかの色は認められません」
「着る服は、自分で選びます」
使者が帰ったあと、クロードは暖炉の火を消し、窓を大きく開けた。冷たい風が入ると、百合の香水がようやく薄くなった。カトレアは布に包んでいた黒パンを取り出したが、すでに固くなっている。
「本当に授与式へ行くのか」
「行きます。欠席すれば、謙虚な聖女が遠慮したことにされますから」
「白いドレスは着ないと言っていたな。何を着るつもりだ」
「赤です」
「それは楽しみだ」
「笑い事ではありません。王国では、赤いドレスを着た未婚女性は慎みがないと言われるのですよ」
「だから楽しみなのだ」
クロードは固くなった黒パンを半分に割った。片方をカトレアへ渡し、自分の分には蜂蜜を塗る。瓶の底に残った蜂蜜を匙ですくおうとして手をべたつかせ、眉をひそめた。
「授与式には、私も同行する。商公国の利益が要求されている以上、君一人の問題ではない」
「嫉妬ではなく、今回は国政上の理由なのですね」
「国政が九割だ」
「残りの一割は?」
「赤いドレスを最初に見たい」
授与式の日、聖マリアーヌ王国の大聖堂前には、多くの貴族と市民が集まっていた。鐘楼から正午の鐘が鳴り、露店では焼いた林檎と肉入りのパイが売られている。風に乗って香ばしい匂いが漂うたび、朝食を急いで済ませたカトレアの腹がわずかに動いた。
王家が用意した控室には、白いドレスと百合の冠がもう一度運び込まれていた。侍女たちは白い衣装を着せようと待ち構えていたが、扉から入ってきたカトレアを見て立ち尽くした。彼女は鮮烈な赤のドレスを身につけていた。胸元や袖に余計な飾りはなく、腰から裾へ流れる布だけが、歩くたびに大きく揺れた。
「カトレア様、そのお色では困ります」
年配の侍女が白い冠を持ったまま近づいてきた。
「赤は、自己主張の色でございます。聖女にはふさわしくありません」
「今日は自分の意思を伝えに来たので、ちょうどよい色です」
「せめて、こちらの白い肩掛けをお使いください」
「必要ありません。会場は暖かいですから」
クロードは濃紺の正装を着て、扉の横に立っていた。いつも無造作に流している髪も今日は整えているが、胸飾りが曲がっていた。カトレアが手を伸ばして直すと、彼は赤い布の袖を見つめた。
「よく似合っている」
「国政が九割ではなかったのですか」
「今は半分まで下がった」
「会場へ入る前に、もう少し戻してください」
大聖堂の広間には、未婚の令嬢とその家族が前列へ集められていた。娘たちは白や淡い桃色のドレスを着て、母親から背筋を伸ばすよう何度も注意されている。王国では、娘が成人しても結婚するまでは父親が財産を管理する慣習があり、母親や兄弟も家族のためという理由で、その金を使うことができた。
最近になって、その慣習をめぐる訴えが急増していた。亡き祖母から受け継いだ家を兄に売られた女性、刺繍で稼いだ金を父の賭博に使われた娘、持参金を弟の学費へ回されて婚約を断られた令嬢もいた。王家は法律を改める代わりに、カトレアを聖女として祭り上げ、進んで財産を差し出す女性こそ立派だと示そうとしていた。
「お母様、どうしてあの方は赤いドレスなの?」
前列の少女が尋ねた。
「見てはいけません。聖女の衣装は白と決まっています」
「でも、きれいです」
母親は娘の口を扇で隠した。ところが、その母親自身も扇の陰からカトレアの姿を見つめていた。
王太后が壇上へ上がると、楽団の演奏が止まった。彼女は純白の礼服を着て、首には大粒の金剛石を並べている。侍従が銀の盆に聖女の冠を載せ、カトレアを壇上へ招いた。
「カトレア・エルスワイン。あなたは家族へ尽くし、領民へ尽くし、異国の民へも富を分け与えました。その清らかな献身をたたえ、聖女の称号を授けます」
「王太后陛下、私は家族へ尽くしたのではありません。家族に奪われていたものを取り戻しました」
広間がざわめいた。王太后は笑顔を保ったまま、銀の冠へ手を伸ばした。
「謙遜もまた、女性の美徳です。これからは祖国へも、その恵みを分け与えてくれることでしょう」
「その件について、皆様にお見せしたいものがあります」
カトレアは赤いドレスの腰に下げていた革鞄から、王家の要求書を取り出した。侍従が止めようとしたが、クロードが壇上の階段前へ立った。商公国の護衛たちも扉の前に並び、誰も書類を奪えなくなった。
「こちらは、王家から私へ送られた要求書です。聖女の称号を受ける条件として、商公国で得た利益の三割を、期限なく聖マリアーヌ王国へ無償提供するよう求められました」
「そのような内部文書を公開することは許しません」
王太后の声から、先ほどまでの柔らかさが消えた。
「内部文書ではありません。私に届いた要求書です。守秘契約も結んでおりません」
「祖国へ恩返しをすることの、何がいけないのです。富を得た女性が、困っている人々へ差し出すのは当然でしょう」
「使途を報告する義務が、王家にないのはなぜですか。困っている人々へ使うとは、この書類のどこにも書かれていません」
カトレアは要求書の写しを侍従たちへ渡した。さらに用意していた写しを、会場の女性たちにも配らせる。紙を開く音が広がり、あちこちから息をのむ声が聞こえた。
「結婚後は夫の財産からも納めるですって?」
「利益の三割を毎年? これでは税より多いではありませんか」
「聖女の称号は、一代限りと書いてあるわ。お金だけは死ぬまで取るのね」
王太后は杖で床を叩いた。金剛石の首飾りが胸元で揺れ、壇上に置かれた百合の香炉から濃い煙が立ち上った。
「静まりなさい。女性が自分の財産に執着するなど、見苦しいことです。家族や国へ尽くしてこそ、女性は尊敬されるのですよ」
カトレアは銀の冠を見た。真珠の一粒一粒は美しかったが、その下には無償で働く女性をおとなしくさせるための言葉が隠れている。彼女は冠を持ち上げず、銀の盆を王太后の前へ戻した。
「無償で差し出す女性を聖女と呼ぶのなら、私は一生、悪女で結構です」
広間の後方で、誰かが拍手をした。最初に手を叩いたのは、刺繍工房を営む未婚の女性だった。彼女の指には針仕事でできた硬い傷がいくつもあり、今日は自分で縫った深緑のドレスを着ていた。
「私も、聖女にはなりません」
女性は立ち上がり、父親が止めるより先に声を張った。
「父が私の工房の売上を管理しています。先月、弟の馬車を買うために使われました。これからは、働いた分を私名義の口座へ入れてください」
「家族の金を分けるつもりか!」
「私が稼いだお金です。家族へ貸すなら、返済日を書いた契約書を作ってください」
続いて、白いドレスの若い令嬢が立った。彼女は緊張すると爪を噛む癖があるらしく、右手を何度も口元へ運んでいた。それでも母親の扇を押しのけ、壇上を見た。
「私の持参金は、兄の事業へ使われています。兄は成功したら返すと言いました。いつ、いくら返すのか、書面にしてください」
「兄妹の間で契約書など必要ないでしょう」
母親が小声で叱った。
「必要です。家族だから返さなくてよいのなら、最初から贈り物だと言うべきです。貸したことにして、私だけ待たせるのはおかしいです」
今度は、夫を亡くした伯爵夫人が立ち上がった。彼女は亡夫の死後、成人した息子に全財産を管理され、服を一着買うにも許可を求めていた。黒い喪服の袖を整えながら、震える声で告げた。
「私も、夫から相続した屋敷の権利書を返してもらいます。息子に管理を頼みましたが、所有権まで渡した覚えはありません」
声は次々と上がった。称号はいらない、契約書が欲しい。感謝状はいらない、給与明細を出してほしい。家族へ渡した金の使い道を知りたい。自分の財産を、自分の名前で管理したい。女性たちの言葉は天井へ反響し、王太后が杖を叩く音さえ聞こえなくなった。
「皆様、落ち着いてください。これは聖女の授与式です!」
「いいえ」
カトレアは要求書を掲げた。
「今日は、私たちが何を無償で差し出してきたのか、確かめる日です」
クロードが壇上へ上がり、商公国で使われている財産契約書の見本を机へ並べた。婚姻前の財産、共同で築いた財産、家族間の貸付、相続した土地を、それぞれ誰が所有し、誰が管理するのか明記できる書式だった。
「希望する者には、この書式を無償で配布する。商公国の公証人も三日間、この王都へ滞在させる」
「外国が我が国の家族へ口を出すおつもりですか」
王太后が問いただした。
「口は出さない。本人が求めた契約を確認するだけだ。もちろん、拒む自由もある」
クロードは王家の要求書へ目を落とした。
「善意には、断る自由があるそうだからな」
授与式は、聖女の冠をかぶる者がいないまま終わった。大聖堂の外へ出ると、露店の焼き林檎はほとんど売り切れていた。最後に残った二つをクロードが買い、紙へ包まれた熱い林檎を一つ、カトレアへ渡した。
「白いドレスを着なくて正解だったな。林檎の蜜をこぼしても、赤なら目立たない」
「そこですか?」
カトレアが笑った直後、焼き林檎から蜜が落ちた。慌てて紙で受け止めたが、赤い袖口に小さな染みがつく。クロードは得意そうに眉を上げた。
「私の判断は正しかった」
「赤を選んだのは私です」
大聖堂の中では、まだ女性たちが契約書を受け取るために列を作っていた。白い聖女の冠は銀の盆へ置かれたまま、百合の煙に包まれている。カトレアは熱い林檎を少しずつ食べながら、その列を見守った。誰も冠を欲しがらず、自分の名前を書くための羽根ペンを求めていた。




