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第14話 フェリックスの最後の贈り物

第14話 フェリックスの最後の贈り物


エルスワイン伯爵邸の競売から十日後、フェリックスは商公国の東門へ到着した。朝から細かな雨が降っており、黒い旅行外套の肩には水滴がびっしりとついている。従者も連れず、自分で手綱を握ってきたらしく、革手袋には馬の汗と泥の匂いが染みついていた。門衛が身分証を確かめている間も、彼は膝の上に置いた細長い革鞄から手を離さなかった。


「フェリックス・ヴァルモント侯爵。訪問の目的をお答えください」


「カトレア・エルスワイン嬢への財産返還だ」


「返還ですか。借金の取り立てではなく?」


「反対だ。彼女から取り上げられた品を返しに来た」


門衛は首をかしげながら、帳面に訪問理由を書きつけた。雨で濡れた羽根ペンはインクを吸いにくく、文字の最後が太い染みになった。フェリックスはその様子を黙って待ち、通行許可証を受け取ると、礼を言って馬車を進めた。


商公国の中央庁舎では、カトレアが共同組合から届いた報告書を読んでいた。彼女が着ているのは、灰青色の仕事着だった。袖口には昨夜つけたインクの染みが残り、机の横には朝食代わりの林檎が一つ置かれている。手をつける暇がないまま昼を過ぎたため、切り口もない林檎から甘酸っぱい香りだけが漂っていた。


「今月の橋の修繕費は、予定より銀貨二十枚安く収まりそうです」


カトレアは向かいの机にいるクロードへ報告した。


「余った分は予備費に回すのか」


「半分は予備費、残りは冬を越すための薪代へ回します。共同組合では、橋の完成祝いに豚を一頭買いたいという意見も出ていますけれど」


「それも必要な出費だと思うぞ。人間は帳簿だけでは働けない」


クロードはそう言いながら、包み紙に残った焼き菓子を一つ取った。商公国の市場で売られている胡桃入りの菓子で、砂糖が多く、噛むたびに歯へ張りつく。彼は一口食べて顔をしかめた。


「甘すぎる。カトレア、残りを食べるか」


「いりません。昨日も同じことを言って、三つ食べていましたよね」


「捨てるのは菓子職人に悪いだろう」


「では、最後まで責任を持ってください」


クロードが四つ目へ手を伸ばしたところで、扉が二度叩かれた。入ってきた書記官は、雨に濡れた来訪者名簿を両手で持っている。紙から落ちた雫が床へ丸い染みを作った。


「カトレア様、ヴァルモント侯爵がお見えです」


カトレアの指が、報告書の端で止まった。フェリックスの名を聞くのは、婚約破棄の日以来だった。あの日、彼が冷たい声で告げた言葉も、大広間に並んでいた白百合の匂いも、今でもはっきり覚えている。


「用件は何だ」


クロードが菓子を皿へ戻した。


「カトレア様への財産返還と伺っております。木箱を積んだ荷馬車も一台、同行しております」


「財産返還?」


カトレアは立ち上がったが、椅子の脚が絨毯に引っかかった。クロードが手を伸ばして支える。彼の手は一瞬だけ彼女の肘に触れ、すぐに離れた。


「私も同席する」


「クロード、これは私とフェリックスの問題です」


「分かっている。だからこそ同席する」


「何が、だからこそなのですか」


「私にも分からん。だが、ここで一人にしたら、午後の仕事が手につかないことだけは確かだ」


応接室へ入ると、フェリックスは暖炉の前に立っていた。濡れた外套は入口の衣装掛けへ預け、濃紺の上着に着替えている。けれども、磨かれた長靴の縁には落としきれなかった泥がつき、髪も雨の湿気で少し乱れていた。卓上には湯気の立つ紅茶が置かれていたが、一口も飲んでいない。


「久しぶりだ、カトレア」


「お久しぶりです、フェリックス様」


「以前と同じ呼び方で構わない。もう婚約者ではないが、他人行儀にされると、用意してきた言葉を忘れそうだ」


「では、フェリックス。こちらは商公国のクロード殿下です」


「知っている」


フェリックスがクロードを見た。クロードも彼を見返し、二人の間に暖炉の薪が爆ぜる音だけが響いた。給仕の女性が紅茶へ足す温かい湯を運んできたが、部屋の空気を察すると、銀のポットを置いて足早に出ていった。


「殿下にも同席していただこう。そのほうが誤解はない」


フェリックスは革鞄を開け、厚い書類の束を取り出した。一枚目には、婚約が成立した日から婚約破棄までに彼が贈った品々が記されている。宝石、ドレス、書物、楽器、馬具、食器まで、日付と購入店と金額が細かく並んでいた。


「ずいぶんな量ですね」


カトレアは頁をめくった。


「私は、こんなに受け取っていません」


「贈った。少なくとも、君の名でエルスワイン家へ届けた」


フェリックスは最初の項目を指さした。婚約成立を祝って贈られた、青い石の首飾りだった。カトレアは一度だけ母の首元にあったものを思い出した。


「これは、お母様が王妃主催の茶会で身につけていました。家に伝わる宝石だと聞いていました」


「私が君の瞳の色に合わせて選んだものだ」


「では、こちらの銀糸を織り込んだ冬用の外套は?」


「君が雪の日にも薄い外套を着ていたから注文した。だが、次に会ったときも、君は同じ古い外套を着ていた」


「リリーが着ていました。姉には色が地味すぎるから、自分がもらったと言っていました」


頁をめくるたび、記憶の中に別の持ち主が現れた。真珠の髪飾りは母が使い、栗毛の牝馬は父が狩猟仲間へ売っていた。刺繍入りの室内履きはリリーの部屋にあり、外国の植物図鑑は父の書斎で、酒瓶を置く台の代わりになっていた。


「この菓子の詰め合わせまで目録にあるのですか」


「君が木苺を好むと聞いて送った。四年前の春だ」


「木苺の焼き菓子なら覚えています。箱だけ私の部屋に届きました」


「箱だけ?」


「リリーが先に食べてしまい、包装のリボンも欲しいと言ったので渡しました。底に残っていた胡桃の菓子を一つだけ食べました」


「君は胡桃が苦手だったはずだ」


「ええ。ですから、食べたあとに喉が痒くなりました」


フェリックスは紅茶のカップへ手を伸ばしたが、持ち上げずに取っ手を握った。白い磁器が小さく鳴った。クロードは卓上にあった胡桃入りの焼き菓子の皿を自分の側へ引き寄せた。


「フェリックス、なぜ今になって、この目録を?」


カトレアが尋ねると、フェリックスは書類の束から数通の証書を取り出した。王国の公証人と商業組合の印章が押され、贈答品の所有者がカトレアであることを証明している。さらに、すでに売却された品については、相当額をフェリックスが買い戻したことも記されていた。


「伯爵家の競売が始まると聞き、品々が君へ渡っていなかった証拠を集めた。今まで取り戻せなかったものも、競売なら正規の手続きで買える」


「荷馬車に積まれているのは、その品々ですか」


「青い首飾り、真珠の髪飾り、植物図鑑、銀食器、それから栗毛の牝馬を売った代金だ。外套はリリーが持ち去ったまま所在が分からないので、同じ仕立屋に新しいものを頼んだ」


フェリックスは小さく息を吐き、濡れた革手袋を机の端へ置いた。


「君に贈ったものを、ようやく君へ返しに来た」


カトレアは証書を持ったまま、しばらく動けなかった。暖炉から流れてくる木の匂いに、雨に濡れたフェリックスの外套の匂いが混じっている。彼が贈ってくれた品を欲しいと思ったことはなかった。しかし、自分へ向けられていたはずの心まで家族に取り上げられていたのだと知ると、胸元の釦が急にきつくなった。


「あなたは、知っていたのですか。私が家で、こういう扱いを受けていたことを」


「全部ではない。君が何を贈っても礼状一枚で済ませ、一度も身につけないことを、最初は私への拒絶だと思った。だが、伯爵夫人が君の首飾りを使い、リリーが君の外套を着ているのを見て、おかしいと気づいた」


「ならば、なぜ教えてくださらなかったのです」


「教えたら、君はどうした?」


「両親に確かめたと思います」


「そして、両親に言いくるめられただろう。家族が必要としているなら構わないと笑い、私に謝ったはずだ」


カトレアには言い返せなかった。事実、当時の自分ならそうしただろう。母が泣けば自分の誤解だったと考え、父が家のためだと言えば、持参金まで差し出していた。


「それで、婚約を破棄したのですか」


「あの家と縁を切らなければ、君は一生、自分を差し出し続けると思った。私が君を妻に迎えても、伯爵夫妻とリリーは君を通して侯爵家へ寄りかかる。私が援助を断れば、君が自分の衣服や食事を削って渡すだろう」


「だから、私まで切り捨てたのですか」


「違う、と言いたい。だが、結果として私は君を切り捨てた」


フェリックスは視線をそらさなかった。


「君を目覚めさせるためだと、自分に言い聞かせていた。だが、本当は怖かったのだ。君の家族と戦いながら、君がいつか私を恨むことが。私は君を守る方法を探すより、先に逃げた」


カトレアは膝の上で証書の角をそろえた。婚約破棄の日、彼女は一言も理由を尋ねなかった。見捨てられたのだと思い、背筋を伸ばして承諾した。自分には愛される価値がなかったのではなく、愛されても受け取れない場所に立っていたのだと、今になって分かった。


「私も、あなたを見ようとしませんでした。贈り物が届かなくても、尋ねればよかった。お茶に誘われてもリリーの買い物を優先し、手紙をいただいても父の書類を代筆してから返事を書いていました」


「君はいつも、家族の用事があると言っていたな」


「家族を優先すれば、よい娘になれると思っていました。あなたなら待ってくれると、勝手に甘えていたのです。申し訳ありませんでした」


カトレアが頭を下げると、フェリックスも立ち上がった。彼は深く腰を折り、かつての婚約者へ同じだけ頭を下げた。


「私も、君を一人で荒野へ押し出した。申し訳なかった」


二人が顔を上げると、卓上の紅茶から湯気は消えていた。カトレアは銀のポットから湯を足そうとしたが、すでにぬるくなっている。クロードが呼び鈴を鳴らし、新しい紅茶を頼んだ。


「話は済んだのか」


「ええ」


「本当に済んだのだな」


「殿下、先ほどから同じことを二度お尋ねです」


「大事なことだから確認している」


給仕が新しい紅茶と、薄切りの胡瓜を挟んだパンを運んできた。昼食を食べていないカトレアの腹が、小さく鳴った。フェリックスは聞こえなかったふりをし、クロードはすぐに皿を彼女の前へ押した。


「先に食べろ。話の続きはそれからだ」


「クロード、来客の前です」


「来客も朝から何も食べていない顔をしている。二人とも食べろ」


フェリックスは目を丸くしたあと、声を立てて笑った。婚約時代にもほとんど見せなかった、肩の力が抜けた笑い方だった。カトレアも胡瓜のパンを一つ取り、しゃきりとした歯触りを確かめながら、久しぶりに彼と同じ食卓を囲んだ。


食事が終わるころには、窓を叩いていた雨が弱くなっていた。フェリックスは目録の最後の頁を開き、すべての品を確認したという署名を求めた。カトレアは一つずつ内容を読み、羽根ペンを取った。


「この植物図鑑は受け取ります。共同組合の農園で使えますから。銀食器と宝石は売却し、使用人の退職金へ加えてもよろしいですか」


「もう君のものだ。君が決めればいい」


「では、外套は使わせていただきます。商公国の冬は風が強いそうですから」


「今度こそ、君が着てくれるのだな」


「ええ。届いたら、必ずあなたへ礼状を書きます」


カトレアが署名すると、長く続いていた婚約の最後の手続きが終わった。フェリックスは証書を確かめ、革鞄へ収めた。そこにはもう、カトレアへ渡すべき書類は残っていなかった。


玄関前で、フェリックスは再び黒い旅行外套を着た。雨上がりの石畳には雲の切れ間から日が差し、水溜まりが白く光っている。荷馬車に積まれた木箱は、商公国の倉庫へ運ばれることになった。


「カトレア、どうか元気で」


「あなたも。今まで、ありがとうございました」


「私は感謝されるようなことをしていない」


「それを決めるのは、贈り物を受け取った私です」


フェリックスは何か答えようとしてやめ、静かに頭を下げた。馬車へ向かう彼を見送りながら、クロードは腕を組んでいた。その眉間には、応接室にいたときから消えない皺が残っている。


「クロード、怒っているのですか」


「怒ってはいない」


「では、なぜ怖い顔をしているのです」


「嫉妬している。私は侯爵ほど物分かりのよい男ではないから、隠すつもりもない」


フェリックスは馬車の扉へ手をかけたところで足を止め、クロードを振り返った。二人の視線がもう一度ぶつかった。今度はクロードが先に一歩進み、背筋を伸ばした。


「フェリックス侯爵」


「何でしょう、殿下」


「彼女を手放したことには感謝しない。だが、彼女を目覚めさせたことには礼を言う」


クロードは侯爵に対して、ゆっくりと頭を下げた。フェリックスは驚いたように瞬きをしたあと、同じように礼を返した。


「今度は、一人で目覚めさせたままにしないでください」


「言われるまでもない」


馬車が走り出し、濡れた車輪が石畳を鳴らした。カトレアはそれが角を曲がって見えなくなるまで立っていたが、追いかけようとは思わなかった。過去へ戻るための贈り物ではなく、これから自分の足で進むためのものを、ようやく受け取れたからだった。


「部屋へ戻るぞ。林檎が昼から机に置きっぱなしだ」


クロードが言った。


「見ていたのですか」


「傷む前に食べろ。君は財産管理には厳しいくせに、自分の食事には無頓着すぎる」


「では、半分差し上げます」


「私は四つも菓子を食べた」


「人間は帳簿だけでは働けないのでしょう?」


カトレアが先ほどの言葉を返すと、クロードは返事に詰まった。二人は雨上がりの空気を吸い込み、並んで庁舎へ戻った。背後では、木箱を運ぶ職員たちが植物図鑑の重さに文句を言い合い、その声に混じって、馬小屋から空腹を訴える馬のいななきが聞こえていた。


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