第13話 伯爵家、競売にかけられる
第13話 伯爵家、競売にかけられる
競売の日、エルスワイン伯爵邸の正門前には、夜明け前から領民たちが集まっていた。空は薄い灰色に曇り、昨夜の雨を吸った土から湿った草の匂いが立ち上っている。農夫たちは泥のついた長靴を履き、商店の女主人たちは毛糸の肩掛けを羽織っていた。屋敷の使用人たちも、晴れの日にしか着ない黒い制服を身につけていたが、袖口は擦り切れ、磨いた靴にも隠しきれないひびが入っていた。
玄関広間では、伯爵夫人が朝食の銀皿を押しのけていた。皿には、半分に切られた白パンと冷えた目玉焼きが残っている。いつもなら蜂蜜をたっぷりかけた焼き菓子が並ぶ食卓だったが、料理人は材料を買う金さえ渡されていなかった。夫人は濃紫のドレスを着込み、首には大粒の真珠を三連も巻いていた。
「こんな食事を私に出すなんて、料理長は何を考えているの。卵の縁が固くなっているではありませんか」
「料理長は先月辞めました。半年分の給与を受け取れなかったためです」
カトレアが答えると、母は真珠の首飾りを押さえた。父であるエルスワイン伯爵は、窓辺で葉巻に火をつけようとしていた。しかし、指先が震えて火がつかない。三度目にようやく煙が上がると、甘く焦げた匂いが広間にこもった。
「使用人が金のことで主人に逆らうなど、聞いたこともない。住む場所と食事を与えてやったのだ。それで十分ではないか」
「食事代と住居費を差し引いても、雇用契約で定めた給与は支払わなければなりません」
「契約、契約とうるさい娘だ。家族の間にまで帳簿を持ち込むから、こんなことになるのだぞ」
父が吐き出した煙を避けるように、カトレアは一歩横へ動いた。彼女が着ているのは、飾りのない紺色のドレスだった。襟元には銀の留め具が一つあるだけで、髪も自分でまとめている。母はその質素な姿を見て鼻を鳴らした。
「その格好では伯爵令嬢ではなく、役所の女書記にしか見えないわ。せめて今日くらい、まともな宝石をつけなさい」
「私の宝石は、三年前にお母様が売りました」
「家のために使ったのです。娘の宝石は、いずれ家のものになるでしょう」
「では、その代金を家の収入として帳簿へ記載すべきでした。ですが、どこにもありません」
伯爵夫人は白パンを小さくちぎり、口に入れずに皿へ戻した。カトレアは革張りの帳簿を抱え直した。角は擦れて丸くなり、表紙には蝋燭の油染みが残っている。何晩も数字を確かめた帳簿は、母の真珠よりもずっしりと重かった。
正午になると、王都から派遣された執行官が正門前の壇上へ立った。屋敷の前庭には、競売に出される品が並べられていた。金縁の鏡、南国の鳥が描かれた壺、十二人掛けの食卓、伯爵が一度しか乗らなかった狩猟用馬車まである。馬車の座席からは、長く閉じ込められていた革と黴の匂いがした。
「エルスワイン伯爵家の債務整理を開始する。異議のある者は、今ここで申し立てられたい」
執行官の声が響くと、伯爵夫妻は人々の前へ進み出た。伯爵は金糸の刺繍が入った深緑の上着を着ていたが、腹のボタンが一つ外れている。夫人は裾が泥につくたび、後ろの侍女へ目をつり上げた。しかし、その侍女は三か月前から給与を受け取っていなかった。
「異議がある!」
伯爵は杖で石畳を叩いた。
「この屋敷も土地も、代々受け継いできたエルスワイン家の財産だ。それを実の娘が奪おうとしている。家族の財産を取り立てる娘など、人の心がない!」
集まった領民の間から、低いざわめきが起こった。伯爵夫人はそれを味方の声だと思ったらしく、濡れた目元へレースのハンカチを当てた。ハンカチからは薔薇の香油が強く匂った。
「カトレアは昔から冷たい子でした。妹たちが新しいドレスを欲しがっても、無駄遣いだと申すのです。親が困っているのに金を返せと言い、とうとう先祖の屋敷まで売ろうとしているのですよ」
「新しいドレスは、ひと夏に六着ずつ仕立てていました」
カトレアは壇上へ上がり、帳簿を置いた。風が吹き、挟んであった紙片が一枚飛びかける。そばにいた老執事が素早く押さえた。彼の白手袋は丁寧に繕われていたが、人差し指の縫い目がまた裂けかけていた。
「こちらが、過去七年間の領地会計です。まず、私の持参金として祖母から遺された金貨二千枚。そのうち千八百枚が、私の同意なく引き出されています」
「お前が嫁ぐまで預かっていただけだ!」
「残高は金貨二百枚です。預かったのなら、残りはどこにありますか」
伯爵は答えず、葉巻の箱を探すように上着のポケットへ手を入れた。領民たちの視線が集まり、その手は途中で止まった。カトレアは次の頁を開いた。
「次に、昨年集められた橋の修繕税です。金貨六百四十枚が徴収されました。しかし、橋へ使われたのは八十七枚だけです」
「大雨が降らなかったのだから、修繕は急がなくてもよかったのだ」
領民の一人が前へ出た。粉挽き小屋を営む男で、麻の上着には白い粉がこびりついている。
「去年、荷車ごと橋板を踏み抜きました。息子は足の骨を折り、今も長く歩けません」
「それは荷物を積みすぎたお前の責任だろう」
「橋の修繕を願い出たとき、伯爵様は王都で観劇中でした」
男が言うと、後ろから別の声が上がった。伯爵家の洗濯婦をしていた女性だった。赤く荒れた手を前掛けで拭きながら、彼女は壇上を見上げた。
「私たちの積立金も、お返しいただけるのですか。娘が冬に肺を悪くしたとき、薬代に使おうとしたら、金庫が空だと言われました」
「はい。使用人積立金は、総額で金貨三百十二枚が流用されていました」
カトレアが答えると、女性は口元を押さえた。隣にいた元料理人が、その背を大きな手で支えた。彼の前掛けには昨日煮込んだ玉ねぎの匂いが残っていた。
「積立金まで持ち出したと申すのか」
執行官が伯爵へ尋ねた。
「一時的に借りただけだ。社交には金がかかる。領地の名誉を守るために、王都で相応の暮らしをする必要があったのだ」
「その金で、南方産の葡萄酒を百二十本購入しています」
カトレアは納品書を掲げた。
「お父様は、領民の橋より葡萄酒を選びました。お母様は使用人の積立金で、真珠の首飾りを買いました。家名を守るためではありません。お二人の暮らしを変えないためです」
伯爵夫人は反射的に首元を隠した。集まった人々はもう騒がなかった。雨樋から落ちる雫と、遠くで鶏が鳴く声だけが聞こえる。執行官は証書を確認し、競売の開始を告げた。
屋敷と調度品には次々と値がついた。伯爵夫人が愛用していた金縁の鏡は王都の宿屋に、狩猟用馬車は隣領の馬具商に買われた。母は鏡が運び出されるたびに「あれは祖母の形見です」と訴えたが、昨年、自分で注文した品だと納品書に残っていた。父は葡萄酒の木箱だけでも残せと頼んだが、酒商人は一本ずつ中身を確かめて馬車へ積み込んだ。
夕方になり、執行官が土地と農場の扱いを読み上げた。領民たちは帽子を胸に抱き、息を詰めて聞いている。土地まで商人に買われれば、小作料が上がり、住み慣れた村を離れなければならない者も出るからだった。
「農地、牧草地、共同林および製粉所については、分割競売を行わない。領民が出資して設立したエルスワイン共同組合へ、一括して移管する」
「土地が、私たちのものになるのですか」
粉挽き小屋の男が尋ねた。
「正確には、組合員全員で管理します。収益から橋や水路を直し、種籾を買い、翌年へ備えるのです」
カトレアが答えると、後ろにいた農婦が籠から焼き栗を取り出した。冷えきった栗だったが、隣の子どもへ一つ渡し、自分も殻を割った。ぱきりという小さな音のあとで、誰かが手を叩いた。その拍手は一つ、二つと増え、やがて前庭全体へ広がった。
「使用人への未払い給与と積立金の返還は、競売代金から最優先で行う」
執行官が続けると、老執事は破れかけた手袋を外した。長く屋敷を支えてきた手は節くれ立ち、インクと靴墨で爪の間が黒くなっていた。
「お嬢様、私は給与をいただいたら、新しい手袋を一組買います」
「二組にしてください。一組では、洗った日に困るでしょう」
「それでは贅沢になってしまいますな」
「七年間働いた人が、替えの手袋を持つことは贅沢ではありません」
老執事は目尻を指で拭い、深く頭を下げた。
日が暮れる前に、伯爵夫妻の荷物は小さな荷馬車へ積み替えられた。持ち出しを許されたのは、衣服を入れた木箱二つと、日用品、寝具だけだった。伯爵夫人は絹のドレスを何枚も詰めようとしたが、借家の衣装棚には入らないと聞き、古い下着を道端へ投げ捨てた。それを見た洗濯婦が無言で拾い、まだ使えるものと雑巾にするものへ分けた。
「私たちを、あんな家へ住まわせるつもりなの?」
母は門の外に用意された馬車を指さした。移転先は町外れにある二間の借家で、煉瓦の煙突と小さな台所がついている。雨漏りはせず、井戸も近いが、もちろん侍女を置く部屋はなかった。
「家賃は月に銀貨十二枚です。お父様の年金からお支払いください」
「家賃を払えですって? 自分の家に住むのに、なぜ金を払わなければならないの」
「その家は借家だからです」
「朝の湯は誰が用意するのだ。暖炉の灰は誰が片づける。食事はどうするつもりだ」
「お湯は台所で沸かせます。灰は火を使った人が片づけてください。食事は、近くの市場で材料を買えます」
カトレアは、二人分の鍋と木皿、匙、それに一週間分のパンと豆を荷物へ加えた。母は豆の袋を見て顔をしかめ、父は「肉はないのか」と尋ねた。カトレアは財布から銀貨を出しかけたが、指を止め、そのまま留め金を閉じた。
「肉が欲しければ、残ったお金でお買いください。ただし、月末の家賃は先に取り分けることをお勧めします」
馬車へ乗せられる直前、伯爵は振り返った。屋敷の窓にはもう灯りがなく、競売済みの札が扉や壁へ貼られている。父の口元には葉巻がなかったため、苛立つたびに噛む癖だけが残っていた。
「親を見捨てるのか。お前を育ててやった恩を忘れたのか!」
カトレアは胸に抱えていた帳簿を開いた。最初の頁には、幼いころの彼女がこぼしたミルクの染みが残っていた。父から計算を教わった思い出も、母が初めて選んでくれた青いリボンも、消えたわけではない。それでも、その思い出を理由に、領民や使用人の暮らしまで差し出すことはできなかった。
カトレアは最後の返済額を確認し、帳簿を静かに閉じた。
「いいえ。これまで立て替えていた人生を、お返しするだけです」




