第12話 姉のものが欲しかった理由
第12話 姉のものが欲しかった理由
エルスワイン伯爵家の衣装部屋には、蓋を開けた衣装箱が十二個並んでいた。窓から入る冷たい風が包装用の薄紙を鳴らし、長椅子の上には胸元を切られた白いドレス、葡萄酒の染みが残る金色の夜会服、リリーの体に合わせて腰を詰められた青い礼装が広げられている。カトレアは黒い長袖のドレスを着て、損傷した箇所を一つずつ台帳へ記録していた。
「白絹の礼装一着、購入価格は金貨百八十枚。胸元の切断と裾の変色により、修繕不能です」
「染みくらい、洗えば落ちるでしょう」
母は紫色の部屋着のまま長椅子へ座り、香油を染み込ませた布でこめかみを押さえていた。足元には冷めた香草茶と半分に割った砂糖菓子が置かれ、甘い匂いの中へ、古い衣装箱の黴臭さが混じっている。以前ならカトレアが新しい茶を用意したが、今日は誰も器へ手を伸ばさなかった。
「すでに三度洗浄されています。葡萄酒だけでなく、香水と果汁も染み込んでいるため、元には戻りません」
「家族のしたことを、どうしてそこまで細かく数えるの?」
「家族であっても、他人の品を壊せば賠償義務が生じます」
「リリーは妹なのよ」
「妹という身分に、他人の財産を自由に使える権利はありません」
カトレアが顔を上げると、母は砂糖菓子を口へ入れ、聞こえなかったふりをした。衣装部屋の隅では、シュタイン商会から来た査定人のマルタが、片方だけになった耳飾りを拡大鏡で調べている。葡萄色の作業服に革の前掛けを重ねたマルタは、欠けたルビーの台座を確認すると、低く唸った。
「これは金具からナイフで外されていますね。石だけ売ろうとしたのでしょう」
「人聞きの悪いことを言わないでちょうだい。使用人が触ったのかもしれないわ」
「使用人の責任だとおっしゃるなら、証拠をご提出ください」
クロードは窓際の机に腰を預け、焼き栗の殻を指先で割っていた。黒い上着の下には銀色の刺繍が入った深緑の胴衣を着ており、長い脚の横には契約書を収めた革鞄が置かれている。付き添うだけだと言っていたが、母が使用人へ責任を押しつけようとした瞬間、声から温度が消えた。
「証拠なんてありません。でも、リリーが盗むはずはないでしょう?」
「では、自然に台座から抜けたルビーが、自分で宝石商まで歩いていったのでしょうか」
「まあ、なんて失礼な方なの!」
「私もそう思います。穏やかな話し方を練習しているのですが、成果が出ません」
クロードが栗を口へ放り込むと、マルタは俯いて笑いを隠した。カトレアは笑わず、売却先と思われる宝石商の名前を台帳へ記した。数字は冷静に書けたが、父の書斎から金を盗んだと疑われ、泣いていたリリーの代わりに自分が謝った日のことを思い出し、羽ペンを持つ指へ余計な力が入った。
そのころ、リリーは二階の客室で、薄い豆のスープを匙でかき回していた。カトレア名義の衣装は返却させられ、自分名義のドレスだけが十四着残されている。しかし、今着ている灰色の毛織物の服は首回りがちくちくし、粗い靴下は片方だけ踵がずれていた。
「こんなもの、食べたくない」
机には固くなった黒パンと、朝から何度も温め直されたスープが置かれていた。以前なら焼き菓子を三種類並べ、気に入らなければ厨房へ作り直させたが、料理人たちは未払いの給金を受け取るまで最低限の仕事しかしないと宣言している。リリーが呼び鈴を鳴らしても誰も来ず、廊下では振り子時計だけが規則正しい音を立てていた。
寝台の下には、古い敷布で包んだ水色のワンピースが隠してあった。子供用の小さな服で、左右の袖の長さは違い、裾の縫い目も曲がっている。胸元には白い布で作った花が三つ並んでいたが、中央の花だけ斜めを向いていた。
十歳だったカトレアが、七歳のリリーのために初めて縫った服だった。古いカーテンの残り布を使い、夜中まで針を動かして作ってくれたものである。リリーは翌日、その服を着て庭を走り回り、転んで泥をつけたが、カトレアは叱らずに井戸端で洗ってくれた。
「これだけは渡さない」
リリーはワンピースを革鞄へ押し込み、灰色の外套を羽織った。鏡台には薔薇の香水の空き瓶と、昨夜食べた林檎の芯が残っている。彼女は香水瓶も持っていこうとして蓋を開けたが、一滴も出なかったため、苛立ったように鏡台へ戻した。
衣装部屋では、マルタが最後の目録を確認していた。カトレアは傷んだサファイアの首飾りを白い布で包み、番号をつけた箱へ収める。それはフェリックスから贈られ、卒業パーティーでリリーが身につけていた首飾りだった。
「これで目録の品はすべてです。ただし、古い水色の子供服が見当たりません」
「そんな古着まで取り上げるつもりなの?」
母の声が裏返った。カトレアは台帳の記録を確かめたが、そこには購入金額も所有者の名前も書かれていない。子供のころに作った服なので、資産目録へ記載した覚えがなかった。
「取り上げるとは言っていません。誰のものか確認するだけです」
「あれはリリーが大切にしているの。姉なら、それくらい残してあげなさい」
「お母様は、あの服をご存じなのですね」
母が口を閉じたとき、廊下から年老いた家令が駆け込んできた。リリーが鞄を持って勝手口から出ていったという。窓の外を見ると、灰色の外套を着た人影が、街へ続く門を抜けるところだった。
カトレアは台帳を閉じ、黒いドレスの裾を持ち上げた。クロードが馬車を出すよう命じたが、市場へ続く道は昼前になると荷車で混雑する。カトレアは止める声を聞かず、細い踵の靴のまま階段を駆け下りた。
「リリー、待ちなさい!」
市場には、赤い林檎、黄色い花、焼きたてのパンが隙間なく並んでいた。魚屋から流れる塩と川魚の匂いに、焼き栗屋の甘い煙が混じっている。リリーは買い物客の間を抜けようとして蕪の籠へぶつかり、白い蕪を石畳へ転がした。
「弁償していけ!」
「あとでお姉様が払うわ!」
「自分で払いなさい!」
追いついたカトレアは店主へ銀貨を渡し、さらに妹を追った。その後ろからクロードも走ってきたが、途中で焼き栗屋の老婆に腕をつかまれた。先ほどの栗代を払っていなかったらしく、彼は謝りながら銀貨を二枚渡している。
市場の先には、使われなくなった染色工房があった。リリーは裏手の路地へ逃げ込んだものの、高い煉瓦塀に行く手を塞がれた。カトレアが追いついたとき、妹は肩で息をしながら鞄を胸へ抱えていた。
「返さないわ!」
「まず、中身を見せなさい」
「見せたら取り上げるでしょう?」
「持ち主を確認してから判断します」
「嘘よ。お姉様は私から全部取り上げたじゃない!」
「私のものを返してもらっただけです。あなた自身の十四着は残してあります」
リリーは唇を噛み、鞄から水色のワンピースを取り出した。長く畳まれていた布には深い皺が刻まれ、白い花の一つは糸が切れかけている。カトレアが手を伸ばすと、リリーは服を胸へ押しつけた。
「これは私のよ。お姉様が私に作ってくれたのよ」
「覚えています。袖の長さを測り間違えました」
「裾だって曲がっているわ」
「夜中に縫ったので、眠かったのです」
「お父様は、雑巾のほうがましだって笑った。でも私は、次の日も着たのよ」
「庭で転んで、泥だらけにしましたね」
「お姉様が洗ってくれた」
リリーの指が、胸元の白い花を何度も撫でた。煉瓦塀の向こうから食堂の皿を洗う音が聞こえ、路地の隅では野良猫が魚の骨を舐めている。カトレアは息を整えながら、あの服を作った夜を思い出していた。
異母妹が屋敷へ来てから、母はカトレアへ「姉なのだから仲よくしなさい」と言い続けた。それでも、あのワンピースだけは命じられて作ったものではなかった。自分の後ろをついて歩く小さなリリーに、似合う服を着せたいと思って針を持ったのだ。
「どうして、高価なドレスではなく、その服を持って逃げたのですか?」
「お姉様が作ってくれたからよ」
「それだけですか?」
「昔のお姉様は、私を見てくれたもの。髪を結って、食べこぼしを拭いて、眠れない夜には同じ寝台で寝てくれた。でも、私が大きくなってからは、帳簿ばかり見ていた」
「あなたが私のものを奪うようになったからです」
「お姉様と同じドレスを着たら、また見てくれると思ったのよ。怒ってもいいから、私を見てほしかった。でも、お姉様は何も言わなかった。何を持っていっても、好きにしなさいって言ったじゃない!」
リリーの声が狭い路地へ響いた。水色の服へ落ちた雫が、色の濃い染みを作っていく。カトレアは妹の顔を見ながら、何を奪われても笑って譲ることが愛情だと思い込んでいた自分に気づいた。
「寂しかったことは理解します。盗んだことは請求します」
「事情を話したのに?」
「事情を知ることと、責任をなくすことは別です」
「やっぱり、お姉様は冷たいわ!」
「この水色のワンピースは、あなたのものです。私があなたのために作り、あなたへ贈りました」
リリーは泣き声を止め、腕の中の服を見た。カトレアは所有権を証明するため、持っていた帳面の余白へ品名と贈与年月を書き込んだ。それから羽ペンを取り出そうとしたが、走ってきたためインク瓶を持っていなかった。
「クロード様、インクをお持ちですか?」
「求婚者を呼びつけて、最初に尋ねることがそれか」
ようやく追いついたクロードは肩で息をし、上着の内側から小さな携帯用インク壺を取り出した。途中で買ったらしい焼き栗の紙袋も抱えており、湯気と甘い匂いが漂っている。彼はリリーへ栗を一つ差し出したが、彼女が首を振ったため、自分で殻を割って食べた。
カトレアは水色のワンピースをリリーへ贈与したことを記録し、自分の署名を書いた。リリーにも署名を求めると、妹は服を片腕で抱き、震える指で名前を記した。紙の端には、雨で滲んだ小さな染みが残った。
「これで、この服は正式にあなたのものです。ただし、ほかのドレスと宝石は違います」
「私には払えないわ」
「払えないから、許されると思いますか?」
「お父様とお母様が払うわ」
「伯爵家には、その余裕がありません」
リリーが助けを求めるように屋敷の方向を見たとき、馬車が路地の入口へ止まった。中から降りてきた母は、薄紫色の部屋着の上へ外套を羽織っただけで、髪にも櫛を通していなかった。リリーへ駆け寄るかと思われたが、母は真っ先にカトレアの腕をつかんだ。
「こんなところで騒ぎを起こして、家名に傷をつけるつもり? リリーのしたことは、姉のあなたが許せば済むでしょう」
「済みません。損害額は金貨千八百七十六枚です」
「家族からお金を取るなんて、人の心がないわ」
「では、お母様が代わりに支払いますか?」
母はカトレアの腕を離した。市場から流れてきた焼き魚の煙が路地へ入り、紫色の外套へ匂いが染みつく。母は鼻を押さえながら、リリーを見ようともせず馬車へ戻った。
「私は関係ありません。リリーも十七歳なのだから、自分でしたことは自分で何とかしなさい」
馬車の扉が閉まり、車輪が水溜まりを跳ね上げた。泥水がリリーの灰色の靴へかかったが、彼女は文句を言わなかった。水色のワンピースを抱いたまま、母を乗せた馬車が見えなくなるまで立っていた。
「お母様は、私を守ってくれると思っていた」
「これまでは、私に責任を押しつければ済みましたから」
「お姉様も、私を見捨てるの?」
「いいえ。責任を取る方法を一緒に考えます」
クロードは革鞄から二枚の書類を取り出した。一枚は損害賠償の請求書で、もう一枚はシュタイン商公国にある服飾工房の見習い募集要項だった。住み込みで食事がつき、給金の一部を返済へ回せば、長い年月はかかっても自分の力で完済できる条件になっている。
「選ぶのは君だ。伯爵家に残って正式な請求を受けるか、工房で働きながら返すか。ただし、カトレアに泣きついて帳消しにするという選択肢はない」
「針仕事なんてできないわ」
「姉君のドレスを自分の体へ合わせるため、何着も切って縫い直したそうだな」
「あれは職人に頼んだのよ」
「費用を惜しんで、自分で直した服も七着あります」
カトレアが台帳を開くと、リリーは気まずそうに目をそらした。胸元へ真珠を縫いつけたり、古いドレスのレースを別の服へ移したりする作業は嫌いではなかった。水色のワンピースの取れかけた花も、細い糸で丁寧に補修されている。
「今すぐ決めなくてよい。一晩考えなさい」
「工房へ行ったら、お姉様のいる国で暮らせるの?」
「同じ国ですが、私の屋敷からは馬車で一時間です」
「一緒には住めないの?」
「まずは、自分の部屋と自分の給金を持ってください。私たちが姉妹として話すのは、それからです」
リリーは水色のワンピースへ頬を寄せた。古い布からは、長く入れてあった防虫草と、幼いころに使っていた石鹸の匂いがかすかに残っている。しばらく黙ったあと、彼女はクロードから見習い募集の書類を受け取った。
翌朝、屋敷の食堂には温め直した豆のスープと、少し焦げた丸パンが並んでいた。リリーは灰色の服を着て席につき、水色のワンピースを丁寧に畳んで鞄へ入れた。昨夜はほとんど眠れなかったらしく、薔薇色の髪は何度結び直しても左右の高さが揃わなかった。
「工房へ行くわ」
カトレアは向かいの席で、半熟卵の殻を剥いていた。以前ならリリーが欲しがる前に自分の皿ごと差し出したが、今日は黄身へ塩を振り、自分で一口食べた。そのあと、返済契約書と雇用契約書を妹の前へ置いた。
「内容をすべて読んでから署名してください」
「細かい字ばかりね」
「分からないところは説明します」
「給金の半分も返済に取られるの?」
「食費と住居費は工房が負担します。残りの半分は、あなたが自由に使えるお金です」
「本当に私が使っていいの?」
「あなたが働いて得る、あなたのお金です」
リリーは一項ずつ声に出して読み、分からない言葉があるたびに質問した。途中でスープが冷め、表面に薄い膜が張ったが、今度は皿を押し返さなかった。契約書の最後まで読み終えると、リリーはパンをスープへ浸して食べ、インク壺の蓋を開けた。
「最初の給金で、黄色い布を買うわ」
「黄色が好きなのですか?」
「卵の黄身みたいな濃い黄色。お母様は似合わないと言ったけれど」
「そうですか。私は知りませんでした」
「お姉様は、何色が好きなの?」
カトレアはすぐに答えられなかった。窓から朝日が差し込み、黒い袖の上へ金色の光が落ちている。彼女は昨日の夜、自分のために選んだドレスを思い出し、ゆっくり口を開いた。
「ボルドーです。熟した葡萄のような、深い赤が好きです」
「今度は盗らないわ。私の給金で布を買って、自分で作る」
「領収書は保管しておきなさい」
「最後まで帳簿の話なのね」
リリーは口を尖らせたが、契約書へ自分の名前を書いた。カトレアも保証人ではなく、債権者として署名した。姉が妹の責任を肩代わりしないことが、二人にとって初めて結んだ対等な約束だった。
工房へ向かう馬車が玄関前へ到着すると、リリーは自分で鞄を持って乗り込んだ。朝食の包みには固焼きパン、塩漬け肉、林檎が一つ入っている。リリーは林檎を袖で磨いて半分に割り、片方をカトレアへ差し出した。
「これは私の林檎よ。でも、半分ならあげる」
カトレアは受け取り、酸味の強い実を一口かじった。自分のものをすべて差し出すのではなく、自分の分を残して相手と分ける味がした。馬車の窓から手を振るリリーの膝には、不格好な水色のワンピースが大切に置かれていた。




