第11話 結婚契約書は三百二十七項目
第11話 結婚契約書は三百二十七項目
クロードから差し出された純金の算盤は、夕日を受けて赤く輝いていた。玉の一つ一つに埋め込まれた極小のダイヤモンドが、カトレアの濡れた目元へ細かな光を返している。彼女は何度もまばたきをしたあと、黒ベルベットのドレスの袖口で涙を拭き、贈られたばかりの算盤を応接室の机へ静かに置いた。机には飲みかけの紅茶と、クロードが途中までかじった胡桃入りの焼き菓子が残っており、溶けた砂糖の甘い匂いが漂っていた。
「では、婚姻条件を確認いたしましょう」
跪いたまま返事を待っていたクロードは、差し出していた右手を宙に残した。窓辺に立つ執事も、祝いの葡萄酒を運んできた侍女も動きを止めている。カトレアは求婚を受けたつもりだったが、口に出して承諾していなかったことに気づき、机の端に積まれた書類を整えながら首を傾げた。
「どうかなさいましたか?」
「いや、君が泣いたから、抱きついてくれるものだと思っていた」
「その予定はございません。抱擁の回数については、まだ合意しておりませんので」
「私の求婚を受けてくれるのだろう?」
「その方向で検討いたします。ただし、契約内容を精査する前に署名することはできません」
クロードはしばらく口を開けていたが、やがて肩を揺らして笑い始めた。笑われたと思ったカトレアは背筋を固くし、膝の上で両手を握った。実家では、細かいことを言うたびに父から「融通の利かない女だ」と叱られ、母からは「そんなことでは妻になれない」とため息をつかれていた。
「申し訳ございません。求婚を受けた女性として、不適切な対応でした」
「謝る必要はない。私は今、人生で最も正しい女に求婚したことを喜んでいる」
「契約書を作成してもよろしいのですか?」
「もちろんだ。明日の朝までに作れるか?」
「すでに草案がございます」
カトレアが黒革の鞄から分厚い紙束を取り出すと、クロードの笑いが止まった。紙束には赤い紐がかけられ、表紙には『婚姻共同経営契約書・第一草案』と書かれている。クロードが求婚する前に作られたものだと分かり、今度は彼の耳がわずかに赤くなった。
「いつから用意していた?」
「あなたが純金の算盤を発注したと知った日からです。あれほど高価で実用性に乏しい品を用意する理由は、求婚以外に考えられませんでした」
「驚かせたつもりだったのだが」
「驚きました。算盤の玉へダイヤモンドを埋める発想までは予測できませんでした」
「そこだけか」
クロードが立ち上がると、長く床に膝をついていたせいで、漆黒の礼装用ズボンの膝に絨毯の毛がついていた。カトレアは無意識に手を伸ばし、その毛を二本つまんで取り除いた。指先が膝に触れた途端、二人とも動きを止めたが、侍女が葡萄酒の栓を抜く大きな音を立てたため、カトレアは慌てて手を引っ込めた。
翌朝、クロードが食堂へ入ると、長いテーブルの端にカトレアが座っていた。彼女は灰色の詰襟ドレスではなく、柔らかな深緑の朝用ドレスを着ていたが、白い襟元は一番上のボタンまで留めている。焼きたての丸パン、半熟卵、炙ったベーコン、茸のスープが並んでいるのに、彼女は食事へ手をつけず、分厚い契約書を両手で抱えていた。厨房からは焦げたバターの匂いが流れており、庭では剪定中の庭師が何度もくしゃみをしていた。
「おはようございます。完成いたしました」
「おはよう。昨夜は眠ったのか?」
「二時間ほど休みましたので、業務に支障はございません」
「まず、そこから話し合う必要がありそうだな」
クロードは彼女の向かいではなく、隣の椅子へ腰を下ろした。契約書は三百二十七項目あり、財産の帰属、事業利益の配分、使用人の雇用権、家事負担、病気になった場合の治療方針まで細かく定められている。さらに、寝室を別にしたい場合の手続きや、夫婦喧嘩が三日以上続いた場合の仲裁人まで指定されていた。
「第百八十二項。病気によって意思表示ができなくなった場合、治療に必要な支出は上限を設けない。これは賛成だ」
「ありがとうございます」
「第百九十四項。妻の衣服、宝飾品、化粧品、書籍、筆記具は、妻個人の財産とする。これも当然だ」
「家族であっても無断使用は認めません」
「姉妹であっても?」
「姉妹であってもです」
カトレアの返事は迷いなく食堂へ響いた。しかし言い切った直後、彼女の指は契約書の角を何度もなぞった。リリーにドレスを渡さないと告げた夜、母から夕食を抜かれた記憶が残っているのだろう。クロードはその手へ触れたくなったが、抱擁の回数さえ未合意だと言われたことを思い出し、代わりに温かな丸パンを彼女の皿へ載せた。
「食べながら続けよう。パンまで冷たくなる」
「書類へパン屑が落ちます」
「食堂で契約書を広げたのは君だ」
「それは、朝食と契約確認を同時に行えば、時間を二十二分短縮できるからです」
「二十二分を節約するために、君は睡眠を六時間削ったのか?」
「計算上は不合理ですね」
「そう思うなら、卵も食べろ」
カトレアは半熟卵の殻を割ったが、力が強すぎて細かな殻が皿へ散った。クロードが匙で殻を取り除くと、彼女は申し訳なさそうに唇を引き結ぶ。実家では一番形のよい卵を父へ、次を母へ、その次をリリーへ渡していたため、温かい卵を自分で食べる習慣がなかった。
「クロード様、私は子供ではありません」
「知っている。子供には三百二十七項目もの契約書は作れない」
「では、自分でできます」
「私が君の世話をしたいんだ」
その言葉を聞いたカトレアの匙が止まった。世話をするという言葉は、彼女にとって、借りを作り、あとで服従を要求されることを意味していた。クロードは彼女の顔色が変わったことに気づき、急いで契約書の余白へ何かを書き込んだ。
「世話を受けた側に、返済義務は発生しない。これを追加しよう」
「対価を受け取らないのですか?」
「私がしたくてする。だから私が利益を得ている」
「どのような利益ですか?」
「君が温かい卵を食べるところを見られる」
カトレアは理解できないという顔をしながらも、黄身をひと匙すくった。塩を振った卵は温かく、舌の上で柔らかく崩れた。厨房から運ばれたばかりの茸のスープには胡椒が利いており、一口飲むと冷えていた腹の奥まで熱が届いた。
契約の確認は昼を過ぎても終わらなかった。途中で侍女が蜂蜜入りの紅茶を三度交換し、料理長が昼食用の鶏肉のパイを運んできた。クロードは第二百七十一項の「夫婦のどちらかが十日以上不在にする場合、一日一通の書面を送る」という部分を読み、手紙だけでなく土産も必要だと主張した。
「土産の価格に上限を設定しますか?」
「しない。私が君に何を贈るかは、私の自由だ」
「高額な贈答品は共同財産を圧迫します」
「自分の小遣いから買う」
「では、月額を決める必要があります」
「君は求婚の翌日に、夫の小遣いを決めるのか?」
「健全な家庭運営のためです」
「分かった。ただし、君の小遣いも同額だ」
カトレアはすぐに首を振った。自分には必要ないと言いかけたが、クロードが無言で見つめているため、その言葉を飲み込む。彼女は自分のために金を使うことを浪費と考えていたが、リリーが百二十四着ものドレスを持ち出したときには、一度も返還を求めなかった。
「私の小遣いは、あなたの半額で十分です」
「同額だ」
「四分の三では?」
「同額」
「交渉の余地がありません」
「これだけは譲らない。君はすぐに自分の取り分を削るからだ」
カトレアは不満そうに紅茶を飲み、唇についた蜂蜜を舌先で拭った。その小さな仕草を見たクロードは急に咳払いをし、窓の外へ顔を向けた。庭師が切り落とした枝を荷車へ積んでおり、一羽の雀が柔らかな土をつついている。
最後の項目まで確認したクロードは、机に置かれた羽ペンを取った。三百二十七項目の内容に大きな異議はなかったが、彼にはどうしても追加したい条件があった。新しい紙を一枚取り寄せ、力強い字で三百二十八項目目を書き始める。
「第三百二十八項。カトレアは一日一度、自分が欲しいものを口にすること」
「不要です」
「追加する」
「契約内容として曖昧すぎます。欲しいものの金額、数量、種類が規定されていません」
「何でもいい。食べ物でも、衣服でも、休暇でも、私に隣へ座れという命令でもいい」
「命令などできません」
「なら、頼めばいい」
「私には、特に欲しいものはありません」
答えた途端、カトレアの耳に母の声が蘇った。リリーが欲しがっているのだから譲りなさい、姉なのだから我慢しなさい、家族を困らせるような要求をしてはいけない。彼女は自分の好物も、好きな色も、眠いときに休む方法も、少しずつ帳簿の外へ追い出してきた。
「これは命令ですか?」
「契約条件だ。嫌なら修正案を出してくれ」
「欲しいものが思いつかなかった場合は?」
「一緒に探す」
「見つからなければ?」
「見つかるまで私が隣にいる」
カトレアは返事をせず、契約書の文字を見つめた。窓から傾いた光が差し込み、深緑のドレスの袖を金色に染めている。クロードは急かさず、冷めた鶏肉のパイを一口食べたが、固くなった皮が大きな音を立てて割れ、二人の間に細かな屑が散った。
その夜、カトレアは自室の寝台に腰かけていた。入浴後の黒髪はまだ少し湿っており、薄い生成り色の寝間着から石鹸と薔薇の香油の匂いがした。侍女が置いていった温かなミルクには膜が張り、窓の外では雨粒が庇を規則正しく叩いている。
机の上には、署名を終えた契約書が置かれていた。第三百二十八項の前だけ空白が残り、カトレアの確認印を待っている。彼女は欲しいものを書き出そうとしたが、紙には何も記せなかった。
ドレスは十分にある。宝石も、部屋も、仕事も与えられている。これ以上を求めれば、欲深い女になるような気がした。
扉が三度、控えめに叩かれた。
「私だ。入ってもいいか?」
「どうぞ」
クロードは黒い上着を脱ぎ、白いシャツの袖を肘までまくっていた。片手には未処理の書類、もう片方には湯気の立つ珈琲を持っている。彼はカトレアの返事を催促せず、向かいの椅子へ座ると、商会から届いた報告書を読み始めた。
「ここで仕事をなさるのですか?」
「君が欲しいものを思いつくまで、隣にいると約束した」
「今夜中とは決められていません」
「私が今夜、ここにいたいんだ」
しばらく紙をめくる音と雨音だけが続いた。カトレアは冷めかけたミルクを飲み、唇についた白い膜を指で拭った。昼食で出された果物の皿に、赤い苺が三つ載っていたことを思い出す。リリーが苺を好んだため、実家ではいつも妹の皿へ移していたが、本当はカトレアも、甘酸っぱい香りと表面の小さな粒が好きだった。
「あの……クロード様」
「何だ?」
「明日の朝食に、苺を三ついただきたいです」
声は雨音に消えそうなほど小さかった。カトレアは断られる理由などないと分かっていても、膝の上で寝間着の布を強く握っていた。クロードは笑わず、からかいもせず、持っていた報告書を裏返した。
「産地の希望は?」
「そこまでは考えておりませんでした」
「大きさは?」
「普通で結構です」
「甘いものと酸味のあるものなら?」
「少し酸味のあるものが好きです」
自分の好みを口にした瞬間、カトレアは目を見開いた。クロードはその答えを一字ずつ書き留め、正式な発注書へ仕上げていく。品名は苺、数量は三個、品質は完熟、希望条件は適度な酸味、納品場所はカトレアの朝食用の皿だった。
「発注者の署名を」
「本当に書類を作るのですか?」
「君が初めて自分のために出した注文だ。口約束で済ませるわけにはいかない」
カトレアは羽ペンを取り、発注者の欄へ名前を書いた。その下へ、第三百二十八項を承認する印も押す。赤い蝋に刻まれた自分の紋章を見ていると、胸の奥に固く詰まっていた何かが、温かなミルクへ溶ける蜂蜜のように少しずつ形を失った。
翌朝、白い皿の中央には三粒の苺が並んでいた。大きさも形も少しずつ違い、洗いたての表面には透明な水滴が光っている。カトレアは薄桃色の朝用ドレスを着て席につき、甘酸っぱい香りを確かめてから、一粒目を口へ運んだ。
「いかがですか?」
「契約条件を満たしています。適度な酸味があり、鮮度も良好です」
「それだけか?」
カトレアは二粒目を半分に切り、向かいに座るクロードの皿へ載せた。これは財産の放棄ではない。自分が食べたい分を残したうえで、好きな人と分けるための選択だった。
「おいしいです。明日も、三つ欲しいです」
クロードは発注書を取り出そうとしたが、カトレアは笑いながらその手を止めた。皿には最後の一粒が残り、朝日に照らされて赤く輝いている。彼女は誰にも譲らず、その苺を自分の口へ入れた。




