第20話 その人生、私の私物です
第20話 その人生、私の私物です
結婚披露宴の朝、カトレアは日の出前に目を覚ました。隣ではクロードが毛布を腰へ巻きつけたまま眠り、枕元には昨夜まで読んでいた招待客名簿が開いている。彼の指には帳簿の頁をめくるための革製の指ぬきがはまったままで、眉間には仕事中と同じ皺が寄っていた。
カトレアは音を立てないように寝台を下り、窓の覆いを少し開けた。東の空にはまだ夜の黒が残り、その下に細い深紅の帯が現れている。やがて地平線の近くが金色へ変わると、冷えた窓硝子にも淡い光が差し込んだ。
「リリーは、本当にこの色を作ったのですね」
カトレアがつぶやくと、寝台から布の擦れる音がした。クロードが毛布を引きずったまま起き上がり、片方の目だけを開けている。
「もう着替えたのか」
「まだです。夜明けを見ていました」
「外は寒いぞ。風邪をひいたら、披露宴を寝室で行うことになる」
「招待客を全員、寝室へ入れるのですか」
「それは困る。私が君を見られなくなる」
「では、起きてください。今日は寝癖のまま参列できませんよ」
クロードは自分の髪を撫でたが、後頭部の一房だけが頑固に立っていた。カトレアが手櫛で直そうとしても戻らない。結局、侍従が湯で濡らした布を持ってくるまで、彼は寝台の端で大きな欠伸をしていた。
隣の支度部屋では、リリーが夜明け色のドレスを広げて待っていた。今日は工房の職人として、白いシャツに黒い仕事着を着ている。披露宴用の桃色のドレスは衣装箱へ入れてあったが、姉の支度が終わるまでは針と糸を手放さないと決めていた。
「昨夜も縫い直したの?」
カトレアは、机の上に残る黒い糸屑を見た。そばには冷えたミルクと、半分だけ食べた干し葡萄入りのパンが置かれている。リリーはパンを一口かじったまま寝てしまったらしく、頬に敷布の跡がついていた。
「胸元の金糸が一本浮いていたの。誰にも分からない程度だったけれど、私には分かったから」
「それなら、少し眠ればよかったのに」
「お姉様も銀行を作ったころ、毎晩帳簿を読んでいたでしょう。私だって、自分の仕事くらい最後まで見届けるわ」
「では、終わったら披露宴の料理をたくさん食べてください」
「もちろんよ。牛肉の葡萄酒煮込みは、工房のみんなにも評判なの。マルTownじゃなかった、マルタ工房長は、昨日から昼食を減らして待っているわ」
リリーはカトレアの寝間着を脱がせ、肌着の紐を確かめた。以前なら侍女へ命じていた仕事も、今は自分の手で行う。姉の腰へドレスを合わせるときも、どこか痛くないか、腕を上げにくくないか、一つずつ尋ねた。
裾には夜の黒が広がり、腰へ向かって深紅へ変わる。胸元から肩には金色の薄布が重ねられ、朝日のような金糸が細く伸びていた。鏡の前でカトレアが一周すると、襞の奥に隠れていた赤が現れ、部屋へ入る朝の光と混じり合った。
「きついところはない?」
「ありません。これなら料理も十分に食べられます」
「念のため、腰に指二本分の余裕を入れたわ。クロード殿下が、林檎の焼き菓子を三つは食べさせたいとおっしゃったから」
「私は一つで十分です」
「殿下に言って。工房へ三度も確認に来たのよ。『四つ食べても苦しくないか』って」
「四つに増えていますね」
リリーはドレスの最後の留め具を閉じた。髪には大きな宝石を使わず、金色の細い鎖と小粒の真珠だけを編み込んだ。フェリックスから返された青い首飾りは、ドレスに合わせて短く仕立て直し、胸元へつけた。
「お姉様、きれいよ」
「このドレスを作った人のおかげです」
「代金は、もう受け取りました。今日の褒め言葉は無料でいいわ」
「それでは、ありがたく頂戴します」
リリーは姉の肩へ落ちていた金糸を指で取った。カトレアはその手を取り、針傷の残る指先を両手で包んだ。リリーは照れたように顔を背けたが、手を引かなかった。
大広間の扉が開くと、何百人もの招待客が一斉に振り返った。天井からは硝子の灯りが下がり、長い卓には白い布と季節の花が飾られている。厨房から運ばれてくる牛肉の葡萄酒煮込み、川魚の香草焼き、茸のパイの匂いが重なり、空腹の客たちは式の前から料理へ視線を送っていた。
クロードは階段の下でカトレアを待っていた。濃紺の礼服には金色の飾り釦が並び、肩には商公国の紋章を刺繍した帯をかけている。今日は侍従が着せたため釦の掛け違いはなかったが、右手と右足を同時に出して歩きそうなほど体を固くしていた。
「クロード、息をしていますか」
カトレアがそばへ行くと、彼はようやく大きく息を吐いた。
「していなかったかもしれない」
「顔が赤いですよ」
「君のドレスが、想像していたより似合うからだ」
「試着した姿を見たでしょう」
「あのときは、完成前だった」
「金糸が二本増えただけです」
「その二本が重要なのだろう」
クロードはカトレアの手を取った。引っ張って先導するのではなく、歩調を合わせて隣へ並ぶ。二人は同じ速さで大広間を進み、壇上の前で招待客を迎えた。
聖マリアーヌ王国からはエレノア王妃が出席していた。彼女は新しく仕立てた深い青のドレスと、町の靴職人に注文した茶色の革靴を身につけている。三連の真珠はドレス銀行に預けたままで、首元には自分の収益で買った小さな銀の飾りだけがあった。
「そのドレスは、夜明けの色なのですね」
王妃は黒から金へ移る裾を見つめた。
「はい。妹が初めて私のために仕立ててくれました」
「私も女学校の開校式に着る服を、リリーさんへお願いしました。予算内でお願いしますと申し上げたら、先に靴の高さを測られました」
「裾を踏まないために必要なのだそうです」
「王宮の仕立屋には、聞かれたことがありませんでした。私は自分の歩幅さえ、知らなかったのですね」
王妃はドレスの裾を少し持ち上げ、新しい靴を見せた。踵は低く、柔らかい革が足首を包んでいる。王宮の廊下を一日歩いても痛くならないよう作られていた。
続いてフェリックスが訪れた。黒い正装に銀色の飾り帯をつけ、贈り物として一冊の革張りの帳簿を持っている。表紙には、二人の名前が同じ大きさの文字で刻まれていた。
「結婚祝いに帳簿を持ってくる客は、私くらいだと思ったのだが」
フェリックスが言うと、クロードは帳簿を受け取りながら笑った。
「私たちには、銀の皿より役に立つ」
「中身は白紙だ。何を記すかは二人で決めてくれ」
「ありがとう、フェリックス」
カトレアは表紙の名前を指でなぞった。以前の贈り物とは違い、今度は誰にも奪われず、自分の手に渡った。フェリックスは彼女の青い首飾りに気づいたが、何も言わず、静かに頭を下げた。
式が始まると、司式者が二人を壇上へ招いた。祭壇の前には、古くから使われてきた婚姻誓約書が置かれている。夫は妻を守り、妻は夫に従い、家と財産の管理を夫へ委ねると記されたものだった。
司式者が誓約書を開こうとすると、クロードは別の書類を差し出した。
「本日は、こちらを読み上げていただきたい」
「殿下、これは婚姻誓約書ではありません。共同経営契約書と書かれておりますが」
「それが、私たちの婚姻誓約書だ」
司式者は困ったようにグラハム公爵を見た。公爵は六十五度に調整された茶を飲み、苦い顔をしながらも一度うなずいた。カトレアが仕事を辞めた場合の損失額を知って以来、彼は一族の慣習という言葉をむやみに使わなくなっていた。
司式者は新しい書類を開いた。
「第一条。クロードとカトレアは、婚姻前から所有する財産、仕事、権利および負債を、それぞれ個人のものとして保持する」
客席の一部がざわめいた。年配の貴族が隣の者と顔を見合わせたが、ドレス銀行へ財産を預けている女性たちは、身を乗り出して続きを聞いた。
「第二条。婚姻後に共同で行う事業については、出資、労働、利益および責任の割合を、その都度書面で定める。第三条。一方は、もう一方の許可なく、個人財産を売却、貸与、担保設定してはならない」
エレノア王妃が最初に拍手をした。彼女の隣には、ドレス銀行へ嫁入り道具を預けたアンナが座っている。姉の真珠を守ったエミリアも、宿屋の女中マーサも、仕事着のまま招かれていた。
「第四条。両者は、相手の職業、交友関係、休息および食事の選択を尊重する。ただし、健康を損なう働き方については、食事を届け、椅子へ座らせ、必要に応じて帳簿を取り上げることができる」
客席から笑いが起きた。クロードは真顔でカトレアを見た。
「これは重要な条項だ。君は昼食を忘れすぎる」
「あなたも焼き菓子を食べすぎます」
「私にも適用されるのか」
「共同契約ですから、当然です」
司式者は咳払いをし、次の条項を読んだ。
「第五条。病める時も、健やかなる時も、利益が出た時も、損失が出た時も、両者は事実を隠さず話し合う。どちらかが誤った判断をした場合には、愛情を理由に黙認せず、帳簿と証拠を持って止めることを誓う」
グラハム公爵が焼き菓子へ伸ばしかけた手を止めた。公爵夫人も扇の陰から夫を見ている。夫婦の間へ帳簿を持ち込むなど品位がないと考えていた親族たちも、商会の利益が増えた今では声を上げなかった。
「第六条。家族、一族、国家のいずれも、両者の合意なく、時間、労働、財産を無償で差し出すよう命じることはできない。援助は本人の自由な意思により、援助額と期間を定めて行う」
客席の後方で、リリーがマルタ工房長と並んで聞いていた。今日の桃色のドレスは自分の給金で生地を買い、仕事の合間に縫ったものである。裾には余り布で作った花が十二枚だけ飾られていた。
「最後に、第七条。両者は、相手を所有せず、相手にも所有されない。互いの人生を尊重し、望む限り、それを分かち合う」
司式者が読み終えると、大広間は静かになった。窓の外では、朝に降っていた雪がやみ、雲の切れ間から金色の光が差している。卓上の銀食器が輝き、焼きたてのパンから立つ湯気が光の中で揺れた。
クロードは祭壇に置かれた小さな箱を開けた。中には結婚指輪ではなく、掌に載るほどの純金の算盤が入っていた。カトレアが商公国で最初の利益を上げた日に、クロードが冗談で作らせたものだった。
「なぜ、ここに算盤があるのですか」
「君が誓いの品に、宝石はいらないと言ったからだ」
「純金の算盤のほうが高価でしょう」
「売れば事業資金になる。実用的だ」
「重くて計算には使えません」
「では、鳴らすために使おう」
クロードは算盤をカトレアへ渡し、両手で彼女の手を包んだ。純金の珠は朝の光を受け、指を動かすたびに澄んだ音を立てた。
「カトレア。君の人生を、私と共有してくれるか?」
カトレアはクロードの顔を見た。彼は笑っていたが、いつもの軽口を言うときより肩へ力が入っている。自分を妻として所有するためではなく、一緒に歩く許可を求めているのだと分かった。
カトレアは純金の算盤を傾けた。珠が一斉に動き、しゃらりと鳴った。
「共有はいたします。ただし、所有権は譲渡しません」
クロードは胸へ手を当て、大げさに安堵した。
「契約成立だ。危うく断られるところだった」
「契約書を七回も一緒に書き直したでしょう」
「最後の署名まで、契約は成立しないと君が教えたのだ」
カトレアは客席へ向き直った。夜明け色のドレスの裾が広がり、黒い襞の間から深紅が現れた。胸元の金糸は朝日を受け、リリーが最後まで気にしていた二本の糸まで明るく輝いた。
「このドレスは、妹が仕事として仕立て、私は正当な代金を支払いました。私の首飾りは、かつて贈られたものを、所有証書とともに取り戻した品です。商会の利益は、私が働いて得たものです」
カトレアは青い首飾りへ触れた。伯爵家にいたころは、娘のものは家族のものだと言われた。婚約者から届く贈り物も、祖母の遺産も、働いて作った利益も、誰かが必要とすれば譲るのが当然だと思っていた。
「私は家族へ尽くすために生まれた道具ではありません。夫の後ろに立つための飾りでもありません。国が困ったとき、無償で差し出される聖女でもありません」
客席では、マーサが新しく買った青い仕事着のポケットを押さえていた。そこには、自分の給金で初めて買った財布が入っている。アンナは取り戻した嫁入り道具の敷布を肩掛けへ仕立て直し、エミリアは病床の姉から預かった祝福の手紙を持っていた。
「このドレスも、財産も、仕事も、私のものです。そして何より――その人生、私の私物です」
最初に拍手をしたのは、リリーだった。針傷の残る両手を何度も打ち合わせ、工房の仲間たちと一緒に立ち上がる。エレノア王妃、ドレス銀行の客たち、商会の職員たちも続き、やがて大広間全体が拍手で満たされた。
クロードはカトレアの前へ一歩進んだ。
「契約書に、口づけの許可について書き忘れた」
「その都度、本人へ確認してください」
「今、許可を求めても?」
「はい」
クロードはすぐには触れず、カトレアの返事を聞いてから、その腰へ腕を回した。カトレアも彼の肩へ手を置く。二人が口づけると、リリーが誰よりも大きな声で歓声を上げ、グラハム公爵は驚いて茶をこぼした。
「熱い! これは本当に六十五度か!」
「お祝いの最中に、茶の温度を測らないでください」
クロードが口づけを終えて言うと、会場に笑いが広がった。給仕係は公爵の濡れた卓布を替え、料理人たちは冷めないうちに料理を運び始めた。
披露宴の食事では、カトレアは牛肉の葡萄酒煮込みを残さず食べた。胴回りに余裕を持たせたリリーの仕立てのおかげで、茸のパイも林檎の焼き菓子も味わうことができた。クロードは彼女の皿へ四つ目の焼き菓子を置こうとしたが、三つ目で断られ、自分で食べていた。
「だから、腰に指二本分の余裕を作らせたのに」
クロードは焼き菓子を頬張りながら言った。
「食べる量まで共同経営者に決められたくありません」
「妻としての助言だ」
「それなら聞くだけ聞いておきます」
「聞くだけなのか」
「意思は尊重します。ただし、従うとは契約していません」
カトレアが笑うと、クロードは反論を諦め、焼き菓子を半分に割った。片方をリリーの皿へ置くと、彼女は工房長に見つからないよう急いで口へ入れた。
夜になり、最後の客を見送ると、大広間には使い終えた皿と、少し萎れた花が残った。床にはパン屑と金色の紙吹雪が散り、給仕係たちが箒で集めている。香水、葡萄酒、焼き菓子、消えかけた蝋燭の匂いが混ざり、華やかな一日が終わったあとの生活の匂いになっていた。
カトレアとクロードは、窓辺の小さな机へ並んで座った。二人の前には、フェリックスから贈られた白紙の帳簿がある。表紙には二人の名前が同じ大きさで並び、どちらが先とも、どちらが上とも決められていなかった。
「最初に何を書く」
クロードが羽根ペンを取った。
「今日の披露宴費用です。予定より葡萄酒が二樽多く出ています」
「結婚最初の日に、支出から書くのか」
「帳簿は事実を記すものです」
「もう少し、夢のある項目から始めよう」
クロードは紙の上へ一行目を書いた。カトレアが横からのぞき込み、少し右へ寄りすぎていた文字を指で示す。クロードは素直に書き直し、その下をカトレアへ譲った。
二人は一行ずつ、同じ帳簿へ文字を加えた。どちらかが書き、どちらかが黙って従うのではない。言葉を相談し、数字を確かめ、間違えれば消して書き直した。
最初の頁には、こう記された。
『共同事業名――幸福』
『予定期間――終身』
『愛情収益――本日も黒字』




