こまどり
染井署の刑事が帰ったあと、宇佐美はベランダに立った。
マンションの裏手には、洒落た家が並んでいる。
——このあたりで、揉み合う声がしたのか。
この部屋を決めたのは、母だった。
駅から近い。
けれど、静か。
周囲には品のいい住宅が並び、一階にはコンビニも入っている。
治安も悪くなさそうだ。
無精な息子の一人暮らしには、うってつけだと考えたのかもしれない。
宇佐美は着替えて、つっかけを履いた。
雨は止んでいた。
行き先は決まっている。
六年前から通っている定食屋、「こまどり」だった。
地元の人間が多く通う店だ。
あそこへ行けば、誰かが何かを知っている。
◇
宇佐美が住んでいるのは、巣鴨の古いマンションだった。
都営三田線の巣鴨駅から、歩いて十分と少し。
学生のころに借りた部屋を、面倒だからという理由だけで、社会人になってからも出ずにいる。
母は、東京での一人暮らしに最後まで渋った。
県内の大学にしてくれと、願書を出す直前まで言い続けた人だった。
「俊介に一人暮らしは無理」
二人の姉たちにも言われた。
「電車に酔う」
「大学の近くに住んだら、悪い連中のたまり場になる」
さんざん脅された。
巣鴨に決まったのは、祖母の意見だった。
「あそこは、いいところよ。お寺があって、春には桜もきれいだったわ」
それを聞いて、母も少し黙った。
そのあと、ネットでさんざん調べたらしい。
寺がある。
商店街がある。
年寄りが多い。
母の中では、それだけで新宿や池袋よりはましだったようだ。
卒業前で何かと忙しかった宇佐美に代わり、部屋を決めたのは、東京見物を兼ねて上京した母と姉たちだった。
父は、
「俊介に決めさせろ」
と言ったが、誰も聞かなかった。
宇佐美にも、強い意見があるわけではなかった。
宇佐美家は、女の力が強い。
かくして宇佐美は、今の部屋に六年住んでいる。
駅を出て、商店街を歩き、路地を曲がる。
一階にコンビニが入った五階建てのマンション。その三階。
巣鴨駅からも、大塚駅からも、歩いて十分ほどの場所だった。
「こまどり」を知ったのは、上京して間もないころだ。
遅くまで本を読み、明け方に眠る。
その日起きたのは、十一時だった。
早いなあ——。
もう一眠りしようかと思ったが、めずらしく腹が空いていた。
昨日の昼に学食で食べて以来、何も口にしていないことに気づく。
寝癖頭に、つっかけ。
宇佐美はそのまま、一階のコンビニへ下りた。
混んでいた。
だが東京のいいところは、四、五分歩けば別のコンビニがあるところだ。
それ以外のいいところは、まだ見つからない。
宇佐美は別のコンビニへ向かって歩いた。
「ランチ、やってますよ」
声を掛けられた。
足は止まったが、それが自分に向けられた声だとは、しばらく気づかなかった。
丸顔の中年女性が、店先を掃きながら宇佐美を見ていた。
「……どうも」
店の引き戸は開いていた。
中から、味噌汁と焼き魚の匂いがした。
宇佐美は少し迷ってから、「お食事処 こまどり」と書かれた暖簾をくぐった。
以来、この定食屋に通っている。
六年になる。




