返事のない文
「これは、『あ』です」
小夜が紙の上を指した。
紗良は筆を置き、そこに書かれた文字を見つめる。
「これが?」
「はい」
「さっきの『あ』と、形が違うけど」
「どちらも『あ』でございます」
小夜は、別の紙を紗良の前へ並べた。
二つの文字は、紗良にはまったく違うものに見えた。
「同じ文字なのに、どうして形が違うの?」
「元となる文字が異なりますので」
「一つに統一しようと思わなかったのかな、この時代の人」
「この時代?」
小夜の眉が動く。
「あ……このお邸の人」
苦しい言い訳だった。
小夜は何か言いたそうな顔をしたが、追及はしなかった。
「では、こちらをお読みください」
新しい紙が差し出される。
紗良は目を細めた。
文字が、細い線になって紙の上を流れている。
どこまでが一文字で、どこからが次の文字なのかも分からない。
「これは……」
小夜が期待に満ちた目で見ている。
「『あ』?」
「違います」
「じゃあ、『の』」
「先ほどお教えいたしました」
「まだ二つしか習ってないんだから、二択でしょう」
「どちらでもございません」
「選択肢にない文字を出すのは反則じゃない?」
部屋の隅で、千代が笑いを堪えている。
昨日まで生徒だった人間が、今日はできない側にいる。
教える立場には慣れていた紗良だが、教えられる立場は思った以上に落ち着かなかった。
「紗良さまは、筆を持たれますとお美しいのですが」
小夜がため息をつく。
「持っている時だけ?」
「書かれた文字もお美しゅうございます」
「読めないけどね」
手本を見ながら写すことはできる。
線の太さも、筆の流れも追える。
だが、意味が頭に入ってこない。
形を美しく写せることと、言葉を理解することは別だった。
紗良は背筋を伸ばし、凝り始めた肩を回した。
「休憩しよう」
「まだ半刻もたっておりません」
「集中力が切れた時に続けても、覚えられないの」
「雅継さまより、朝夕お教えするようにと仰せつかっております」
「時間の長さまでは言ってなかったでしょう」
「一通り読めるようになるまで、とも承っております」
逃げ道を塞がれている。
紗良は雅継の顔を思い浮かべた。
月の下では親切だったのに、昼間の彼は容赦がない。
「雅継さまって、もしかして教育熱心なの?」
「姫さまがお小さい頃には、御自ら手習いをご覧になることもあったそうでございます」
「へえ……」
娘に文字を教える雅継。
想像しようとしたが、御簾の向こうから冷静に間違いを指摘する姿しか浮かばなかった。
「怖そう」
「大層厳しかったと伺っております」
「やっぱり」
その時、廊の向こうで何かが落ちる音がした。
続いて、女房の短い悲鳴。
小夜と千代が顔を見合わせる。
紗良はすぐに立ち上がった。
「紗良さま、静かにお立ちください」
「今は急いでいい時でしょう」
長い裾を持ち上げ、廊へ出る。
少し離れたところに、一人の女房が倒れていた。
そのそばに、白い紙が落ちている。
「萩!」
千代が駆け寄った。
萩と呼ばれた女房は、二十代半ばほどに見えた。
目を閉じ、浅い呼吸を繰り返している。
紗良は膝をつき、肩へ手をかけた。
「聞こえますか」
返事はない。
「萩、私の声が分かる?」
睫毛が僅かに動いた。
呼吸はある。
手首に触れると、脈は速いが、しっかり打っている。
額に熱はない。
唇の色は薄く、目の下には濃い影がある。
「どこか打ってない?」
倒れるところを見ていた女房が、首を振った。
「文を拾おうとなさって、急に……」
「少し場所を空けて。風を通して」
集まってきた女房たちが、ざわめきながら下がる。
その中から、年嵩の女房が紙を見て声を上げた。
「また、その文です」
「また?」
紗良が尋ねる。
年嵩の女房は答えず、袖で口元を覆った。
「あれは物の怪の文にございます」
周囲の女房たちが、一斉に紙から離れる。
紗良は白い紙を見た。
折り畳まれてはいるが、宛名も文字も見えない。
「何も書いてないけど」
「触れてはなりません」
年嵩の女房が鋭い声を出した。
「七日の間、毎朝、萩のもとへ届いているのです」
「誰が持ってくるの?」
「誰も見ておりません」
「では、同じ紙を萩が持っていた可能性は?」
「紗良さま」
小夜が静かに制する。
紗良は口を閉じた。
決めつけてはいけない。
物の怪だと決めつけることも。
萩が嘘をついていると決めつけることも。
まず、本人の話を聞くべきだ。
「萩を部屋へ運ぼう。横になれるところへ」
「物の怪に取り憑かれているやもしれませぬ」
年嵩の女房が言う。
「だからって、ここへ寝かせておけないでしょう」
「姫さまのおそばへ近づけるわけにはまいりません」
「姫さまの部屋へ連れていくとは言ってません。静かに休める場所へ移します」
紗良は周囲を見回した。
誰も萩に触れようとしない。
姫が倒れた夜と同じだった。
怖いのだ。
無理もない。
紗良だって、昨夜の女の姿を思い出せば逃げたくなる。
それでも、床に倒れている人を放ってはおけない。
「千代、足の方をお願い。小夜は頭を支えて」
二人は僅かにためらったあと、頷いた。
萩を近くの部屋へ運び、衣を緩める。
少量の水で唇を湿らせると、萩の瞼がゆっくり開いた。
「ここは……」
「藤原さまのお邸。分かりますか」
萩が頷く。
「名前は?」
「萩にございます」
「今日は何をしていましたか」
「姫さまへお届けする衣を、整えておりました」
受け答えはできている。
紗良は安堵しながらも、その顔を観察した。
ひどく疲れている。
「最後に眠ったのは、いつ?」
萩の目が揺れた。
「昨夜も、眠っておりませぬ」
「その前は?」
答えない。
「もしかして、七日間ずっと?」
萩は目を伏せた。
「少しは眠りました。でも、目を閉じると……あの方が」
部屋の中が静まる。
「あの方とは、誰?」
萩の唇が僅かに震えた。
「申し上げられません」
「眠ると、その人の夢を見るの?」
萩は小さく頷いた。
「何と言われるの?」
「返事をせよ、と」
紗良は廊に落ちていた紙を思い出した。
「白い文に?」
「初めは、白い紙でした」
「初めは?」
萩の呼吸が速くなる。
「日がたつごとに、文字が増えてゆくのです」
「どんな文字?」
萩は答えようとした。
しかし、その前に部屋の外から低い声が届いた。
「離れろ」
清景だった。
紗良は振り返る。
「どうしてここに?」
「邸の中が騒がしい。何も聞こえぬ方がおかしい」
清景は紗良たちの間を通り、萩のそばへ膝をついた。
目を閉じ、指先を萩の額近くへかざす。
しばらくして、眉を寄せた。
「今のところ、この女に物の怪は憑いておらぬ」
年嵩の女房が、目に見えて息をついた。
「ならば、病なのですね」
「そうとも言っておらぬ」
清景は廊に置かれた紙へ視線を向けた。
「異様なのは、あちらだ」
「ただの白い紙に見えるけど」
「そなたには、そう見えるのか」
清景が立ち上がり、紙の前へ移動する。
紗良も隣から覗き込んだ。
やはり何も書かれていない。
紙には微かな香が残っていた。
雅継の衣から感じたものとは違う。
もっと甘く、濡れた花のような香り。
「触るなよ」
清景が言う。
「分かってる」
「そなたの『分かっている』ほど、信用ならぬものはない」
清景は懐から小さな札を取り出し、紙の上へ置いた。
何も起こらない。
「ほら。何もないでしょう」
「静かにしていろ」
「はいはい」
清景が紗良を睨む。
その間も、萩は紙から目を離せずにいた。
怯えているというより、何かを待っている目だった。
「この文は、誰から届いたものなの?」
紗良が尋ねる。
萩の顔から血の気が引いた。
「申し上げられません」
「でも、その人に返事をしていないから、文が届き続けてるのよね」
「おやめください」
「萩」
「おやめください!」
萩が突然、両手で耳を塞いだ。
「返事はできませぬ。もう、できないのです」
声が裏返る。
紗良はそれ以上尋ねるのをやめた。
身体を診ることと、心へ勝手に踏み込むことは違う。
話せない理由があるなら、今は待つしかない。
「ごめんなさい」
紗良は萩のそばへ戻った。
「今は聞かない。少し休んで」
「眠れば、また来ます」
「私がそばにいるから」
「紗良さまには、分かりませぬ」
萩は紗良の手を振り払った。
思っていたより強い力だった。
「異なる場所から来られ、何の過去もない紗良さまには」
胸の奥を突かれた。
何の過去もないわけではない。
ただ、この世界に紗良の過去を知る者がいないだけだ。
家族も、友人も、患者も。
紗良が何を選び、何を失い、何を後悔してきたかを知る人は、ここには一人もいない。
言い返そうとして、やめた。
今、傷ついているのは萩だ。
自分の寂しさをぶつける場面ではない。
「そうね。私は萩の過去を知らない」
紗良は静かに言った。
「だから、話せる時が来るまで待ちます」
萩は目を逸らした。
受け入れてくれたわけではない。
それでよい。
すべての人が、紗良の言葉ですぐに心を開くはずなどない。
清景が白い紙を睨んでいる。
「紗良。灯りを近づけろ」
「触るなって言ったでしょう」
「紙ではない。灯りだ」
紗良は油の入った灯りを持ち、清景のそばへ置いた。
炎が揺れる。
白い紙が、薄橙色に照らされた。
「何か見える?」
「黙っていろ」
清景が札の上へ指を置く。
風はない。
それなのに炎が細く伸びた。
甘い香りが、急に濃くなる。
紗良の首筋を、冷たいものが撫でた。
紙の中央に、黒い染みが浮かんだ。
「清景」
「見えている」
染みは、ゆっくりと形を変えていく。
誰かが見えない筆を動かしているように、細い線が紙の上を這った。
一文字。
また一文字。
紗良には読めない。
「何て書いてあるの?」
小夜も千代も、答えなかった。
二人とも青ざめている。
清景が低い声で読んだ。
「なぜ、返さぬ」
萩が悲鳴を上げた。
同時に、灯りが消えた。
部屋が闇に沈む。
御簾の向こうで、衣の擦れる音がした。
誰かがいる。
紗良は萩を庇うように身を寄せた。
清景が札を構える。
暗闇の中から、男とも女ともつかない声が聞こえた。
「――待っているのに」
その瞬間、白いはずの紙から、濡れた花の香りが溢れ出した。




