救えないことを、私は知っている
「わたくしが宮中へ上がる時、そなたも共に参れ」
姫にそう言われてから、紗良の胸には小さな重みが残っていた。
必要とされたことは嬉しい。
見知らぬ時代へ突然放り出され、帰る場所も分からない自分に、ここにいてほしいと言ってくれた。
その言葉に救われたのも事実だった。
けれど、同時に怖くもあった。
誰かに必要とされると、応えなければならないと思ってしまう。
できるかどうかを考えるより先に、「やります」と言ってしまう。
看護師として働いていた頃から、ずっとそうだった。
人手が足りないと言われれば残った。
急な勤務変更を頼まれれば引き受けた。
患者が不安そうにしていれば、記録が遅れても話を聞いた。
それを後悔しているわけではない。
ただ、気づいた時には、自分が疲れていることさえ分からなくなっていた。
「三十歳にもなって、また同じことを繰り返すところだった」
夜、紗良は部屋の中で一人呟いた。
雅継の命令どおり、今夜は出歩いていない。
そばには水も用意されている。
どこかで雅継に見張られているわけではないのに、廊へ一歩出ただけで知られそうな気がした。
紗良はバッグからスマートフォンを取り出した。
電源を入れる。
充電は、五十パーセント。
画面に表示された日付は、京都へ来た日のまま止まっているように見えた。
写真を開く。
友人と撮った写真。
家族の写真。
勤務を終えた夜、駅前で何となく撮った街の灯り。
つい数日前まで、何でもなかった景色。
それが今は、手を伸ばしても決して届かない世界のように思える。
「帰れるのかな、私」
答える者はいない。
紗良は写真を閉じ、スマートフォンの電源を切った。
画面が暗くなる。
一つの世界が、手の中で消えたようだった。
翌朝、小夜が緊張した面持ちで紗良の部屋へやって来た。
「紗良さま。雅継さまがお呼びでございます」
「私を?」
「はい」
「何かしたっけ」
「何もなさっていないと、お思いなのですか」
「昨日は夜も出歩いてないし、姫さまにも無理をさせてない。清景とも言い争ってない」
小夜は少し考えた。
「確かに、昨日はおとなしくしておいででした」
「でしょう?」
「ただ、姫さまが雅継さまへ、紗良さまを宮中へ伴いたいとお話しになられました」
「もう言ったの?」
姫の行動は思っていた以上に早い。
「私、まだ行くとも言ってないんだけど」
「雅継さまの御前で、そのようにはっきりお申し上げにならないでくださいませ」
「では、何て言えばいいの?」
「身に余る光栄にございます、と」
「引き受けることになっちゃうでしょう」
「姫さまの御望みでございますから」
紗良は小夜を見た。
「小夜は、私が行っても大丈夫だと思う?」
問いかけると、小夜は困ったように目を伏せた。
「紗良さまならば、姫さまをお支えくださると存じます」
「それは、行ってほしいという意味?」
「わたくしには、決められません」
小夜の答えは、正直だった。
「そっか」
誰かに決めてもらいたいわけではない。
むしろ、自分で決めなければならない。
紗良は長い衣の裾を整え、雅継のもとへ向かった。
通された部屋には、御簾が下ろされていた。
雅継の姿は見えない。
向こう側に、人の気配だけがある。
月の下では何の隔てもなく話した相手なのに、昼間は御簾一枚が、二人の身分の差を目に見える形で示していた。
紗良は小夜に教えられたとおりに座り、頭を下げた。
「水城紗良、参りました」
少し間を置いて、低い声が返ってくる。
「昨日よりは、女房らしく見える」
「昨日は女房になったばかりでしたから」
小夜が背後で息を呑む気配がした。
失敗したらしい。
しかし、雅継は咎めなかった。
「姫より聞いた。入内の折、そなたを伴いたいそうだ」
「はい。私も昨日、初めて聞きました」
「そなたは、どうするつもりだ」
「まだ決めていません」
御簾の向こうが静かになる。
反抗したと思われただろうか。
だが、行くと決めていないのは本当だ。
「姫の望みであってもか」
「姫さまの望みだからこそ、簡単には決められません」
「なぜだ」
「宮中がどんなところかも、自分に何ができるのかも分からないからです。何も知らないまま『お任せください』とは言えません」
「姫を助けた時には、随分と迷いがなかったようだが」
「あの時は、目の前で苦しんでいる人がいたから」
「宮中でも、姫が苦しむことはあるだろう」
「だからといって、私がすべて助けられるとは限りません」
言葉にした瞬間、部屋の空気が僅かに変わった。
小夜が緊張している。
紗良は膝の上で、自分の手を見つめた。
何人もの身体に触れてきた手。
脈を取り、背中をさすり、冷たくなっていく指を握ったこともある。
「姫は、そなたがいれば心強いと申している」
雅継の声が届く。
「そのお気持ちは嬉しいです」
「ならば、なぜためらう」
「私を、何でも助けられる人だと思ってほしくないからです」
紗良はゆっくり顔を上げた。
御簾の向こうにいる雅継の表情は見えない。
それでも、今は目を逸らしたくなかった。
「私は看護師です。でも、看護師だからといって、すべての人を救えるわけではありません」
「以前にも、そのようなことがあったのか」
雅継の問いに、紗良は答えられなかった。
忘れたことなどない。
夜勤の明け方、急に呼吸が悪くなった人。
家族が到着するまで、何とか持ちこたえてほしいと願った。
何度も名前を呼んだ。
手を握った。
できることは、すべてしたつもりだった。
それでも、その人の命は戻らなかった。
ほかにもいる。
もっと早く変化に気づけたのではないか。
あの時、別の声をかけていればよかったのではないか。
仕事が終わったあとも、何度も考えた。
「ありました」
紗良は答えた。
「私の目の前で亡くなった人がいます」
小夜が息を止める。
「助けられなかった人も、一人ではありません。治療をしても、薬を使っても、手を尽くしても、亡くなる人はいます」
この時代の人に、病院の治療をどう説明すればよいのか分からない。
それでも、死を止められなかったことだけは、時代が違っても伝わるはずだ。
「そのたびに思いました。もっと早く気づけたんじゃないか。もっと何かできたんじゃないかって」
「それは、そなたの責めなのか」
「分かりません」
紗良は正直に答えた。
「私のせいではなかったのかもしれない。でも、そう言い切ってしまうのも怖いんです。自分にできたことがなかったか、考えるのをやめたくないから」
「考え続ければ、苦しくなるだけではないのか」
「そうかもしれません」
「ならば、なぜその役目を続けた」
紗良は、自分の手を見た。
何度も辞めたいと思った。
忙しさに疲れ、人の命を預かる重さから逃げたくなった。
感謝されるより、叱られた日の方が長く心に残った。
それでも、看護師であることを完全に嫌いにはなれなかった。
「救えなくても、そばにいることはできたからです」
紗良は言った。
「治せない時にも、苦しくないように身体を整えたり、話を聞いたり、手を握ったりすることはできました。亡くなることを止められなくても、一人にしないことはできる」
御簾の向こうから返事はない。
紗良は続けた。
「救うことと、支えることは、たぶん同じじゃないんです」
口にしながら、自分自身にも言い聞かせていた。
看護師として働いてきた十年近くの間、何度も迷った。
命を救えなければ、自分のしたことには意味がなかったのか。
元気にして帰せなければ、何もできなかったのか。
けれど、そうではないと思いたかった。
救えない時にも、できることはある。
治らない身体にも、守れる尊厳がある。
「姫さまを何があっても救います、とは言えません。でも、苦しんでいるのに気づかないふりはしません。怖い時に、一人にはしません」
長い沈黙が落ちた。
外から鳥の声が聞こえる。
御簾の向こうで、衣の擦れる音がした。
「顔を上げよ」
雅継が言った。
「上げています」
紗良が答えると、背後の小夜が小さく咳き込んだ。
「そうであったな」
雅継の声に、ごく僅かな笑いが混じった気がした。
「そなたのいた場所では、皆がそのように死者を看取るのか」
「皆ではありません。看護師でも、考え方はそれぞれです」
「そなたは、そうしてきたということか」
「できる限りは」
「できなかった時もあるのだろう」
胸の奥が痛んだ。
「……はい」
「それを隠さぬのだな」
「隠して、できる人だと思われる方が怖いです」
雅継は、また黙った。
最高権力者である彼なら、ほとんどの望みを叶えられるのかもしれない。
人を動かし、物を集め、帝のそばへ娘を入れることさえできる。
それでも、物の怪に取り憑かれ、高熱に苦しむ娘を、自分の力だけでは救えなかった。
「私には、多くの者が頭を下げる」
やがて、雅継が静かに言った。
「望むものの多くは手に入る。人を遠ざけることも、呼び寄せることもできる」
紗良は黙って聞いていた。
「だが、病に待てと命じることはできぬ。死に、退けと命じることもできぬ」
その声は、月の下で聞いた時と同じだった。
周囲の誰もが恐れる男ではなく、一人の父親の声だった。
「姫が倒れた夜、私は何もできなかった」
「何もできなかったわけではないでしょう」
「なぜ、そなたに分かる」
「姫さまは、お父さまが来てくれたことを喜んでいました」
実際に姫がそう言ったわけではない。
けれど、昨日、御簾越しに雅継の声を聞いた時、姫の表情が僅かに和らいだことを紗良は見ていた。
「そばに来ることも、できることの一つです」
「それだけでよいのか」
「それだけしかできない時もあります」
紗良は微笑んだ。
「最高権力者でも、同じなんですね」
背後で、小夜が息を呑んだ。
また言ってはいけないことを言ったらしい。
しかし、雅継は怒らなかった。
「誰から聞いた」
「小夜と千代から。この国で一番力を持っている人だって」
「それを知った今も、そなたは変わらぬな」
「急に変われと言われても難しいです」
「皆は容易に変わる」
雅継の声に、冷たいものが混じった。
地位を知った瞬間、態度を変える人々を、彼は見続けてきたのだろう。
紗良も何も知らなければ、雅継の前で深く頭を下げ、言葉を選び、本音を隠したかもしれない。
最初に月の下で出会ったことは、二人にとって幸運だったのかもしれない。
あの時の紗良にとって、雅継はただ道を教えてくれた人だった。
「最初に正体を隠したのは、雅継さまでしょう」
「隠してはいない。名乗らなかっただけだ」
「同じです」
「違う」
「屁理屈」
小夜が、とうとう紗良の袖を引いた。
「紗良さま」
「はい。黙ります」
御簾の向こうから、微かな吐息が聞こえた。
笑ったのかもしれない。
「姫と共に宮中へ上がる件は、今すぐには許さぬ」
雅継が言った。
紗良の背筋が伸びる。
「やっぱり、私が怪しいからですか」
「それもある」
「否定しないんですね」
「そなたは、どこから来たかも明らかにしておらぬ。この時代という言葉の意味も、まだ聞いていない」
月の下で口を滑らせたことを、覚えていた。
「今は、まだ話せません」
「なぜだ」
「私自身にも、何が起きたのか分からないからです」
雅継へ真実を話す時は来る。
けれど、今ではない。
未来から来たと言って、信じてもらえるとも思えなかった。
「分からぬことを、分かったようには語らぬか」
「清景にも同じようなことを言われました」
「ならば、あの陰陽師も時には正しいことを申すらしい」
清景が聞けば怒りそうだ。
「入内までは、まだ時がある」
雅継は続けた。
「その間に、この邸の作法と文字を学べ」
「文字も?」
「宮中では、文を読めぬ女房など役に立たぬ」
正論だった。
紗良は何も言い返せない。
「筆だけは使えるんですけど」
「知っている」
雅継が答える。
自分の名前を書いた紙を、彼は覚えているらしい。
「姫も、そなたを伴いたいと望むならば、甘やかしてばかりはいられぬ」
「私、甘やかされていました?」
「小夜」
雅継が呼ぶ。
「はい」
「今日より、この者に文字と作法を教えよ。宮中へ上がっても、姫に恥をかかせぬ程度には」
「承知いたしました」
小夜が深く頭を下げる。
紗良は思わず振り返った。
小夜の顔に、女房としての使命感が満ちている。
嫌な予感がした。
「どのくらい勉強するの?」
「朝夕、それぞれにお時間を設けましょう」
「一日に二回?」
「入内までに間に合わせなければなりません」
さっそく勤務時間外の研修が追加された。
やはり、この職場はブラックかもしれない。
「お話は以上にございますか」
小夜が尋ねる。
「もう一つ」
雅継が答えた。
「紗良」
初めて、御簾越しに名を呼ばれた。
紗良の胸が小さく鳴る。
「はい」
「救えぬことを知る者の方が、救えると信じる者よりも、任せられることがある」
紗良は御簾を見つめた。
その向こうにいる雅継の顔は見えない。
見えないからこそ、声だけが胸の奥へ届いた。
褒められたのではない。
何でもできると認められたわけでもない。
できないことを知っている自分を、そのまま受け止められた。
それが、なぜか嬉しかった。
「ありがとうございます」
今度は言葉を足さず、静かに頭を下げた。
部屋を出ると、小夜はすぐに分厚い紙の束を紗良へ渡した。
「では、こちらから始めましょう」
「今から?」
「善は急げと申します」
「それ、平安時代にもある言葉なの?」
「紗良さま」
小夜の笑顔が怖い。
紙には、流れるような文字がびっしりと並んでいる。
一つも読めない。
「ちなみに、今日のお勉強は何時まで?」
「この文をすべてお読みになれるまでです」
「終わらないじゃない」
「終わるまでいたします」
前言撤回。
雅継の邸は、間違いなくブラックだった。
紗良は紙の束を抱え、深いため息をついた。
それでも、先ほど聞いた雅継の声が、耳の奥に残っている。
――救えぬことを知る者の方が、任せられることがある。
救えなかった記憶は、消えない。
消してはいけないとも思う。
けれど、それだけで自分を責め続けなくてもよいのかもしれない。
遠い時代へ来て初めて、そんなふうに言われた気がした。




