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京都で見つけた千年前の恋文――それを書いたのは、これから私が恋をする関白さまでした  作者: EMo


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姫さまの未来は、もう決められている


姫付きの女房となった翌朝、紗良は小夜と千代を前に、最初の確認をしていた。


「勤務時間は、何時から何時まで?」


「きんむじかん?」


小夜が首を傾げる。


予想どおりの反応だった。


「働く時間。朝から夜まで、ずっと姫さまのそばにいるわけじゃないでしょう?」


「姫さまがお目覚めになる前よりお支度を整え、夜、お休みになられたあとに下がります」


「つまり、朝から夜までずっとじゃない」


「途中でお食事もいたします」


「それは休憩」


紗良はさらに尋ねた。


「休日は?」


「きゅうじつ」


「一日、お仕事をしなくていい日」


小夜と千代が顔を見合わせる。


「姫さまがお休みの折には、わたくしたちも交代で休ませていただくことがございます」


「それは何日おき?」


「何日……」


「まさか、決まってないの?」


二人が申し訳なさそうに黙り込む。


紗良は天井を見上げた。


雇用契約書なし。


勤務表なし。


始業時刻と終業時刻も曖昧。


定休日も不明。


衣食住は支給されるが、給与体系も分からない。


「やっぱりブラックかもしれない……」


「黒ではなく、今日は薄紅の御衣でございます」


千代が紗良の袖を見ながら答えた。


「うん。もう色の話じゃないって説明するのも諦める」


その横で、小夜が一枚の紙を広げた。


「本日は、姫さまのお召し物を整えたあと、御文をお読みし、お返事をお書きいただきます」


「誰が?」


「姫さまが、でございます」


「私は何をするの?」


「おそばに控えていただきます」


「控えるって、具体的には?」


「静かに、おそばにいることでございます」


紗良は真剣に考えた。


それは仕事なのだろうか。


病棟では、静かに座っている時間などほとんどなかった。


ナースコールが鳴り、点滴が終わり、検査の時間が来て、誰かの血圧が下がる。患者から話しかけられれば、記録の途中でも足を止める。


何もせず、ただ誰かのそばにいる。


それが一番難しい仕事かもしれない。


「分かりました。今日は静かにしてます」


「本当でございますか」


小夜が疑わしそうに見る。


「その顔は失礼じゃない?」


「昨日、雅継さまから夜に出歩かぬよう命じられたばかりですので」


「それとこれとは別でしょう」


「清景さまのお言葉も、お聞きになりませんでした」


「聞いたうえで、自分で考えて行動したの」


「それを、聞かなかったと申すのではございませんか」


千代が俯き、肩を震わせている。


「千代、笑ってる?」


「いいえ」


「笑ってるでしょう」


昨日倒れかけた千代は、一晩眠り、朝には顔色を取り戻していた。


まだ無理をさせない方がよいと思うが、本人は休むよう言われる方が落ち着かないらしい。


紗良は時折その表情や動きを見ながら、姫のもとへ向かった。


部屋へ入ると、姫はすでに起きていた。


熱はほぼ下がっている。


顔色もよく、声にも力が戻ってきた。


それでも紗良は、いつものように額へ触れ、手首で脈を確かめた。


「もう大丈夫です」


姫が笑う。


「自分で大丈夫と言える人ほど、まだ大丈夫じゃないことがあるんです」


「では、どのように申せばよいのですか」


「今日は昨日より楽です、とか。どこがどう大丈夫なのかを教えてください」


姫は少し考えた。


「熱さは感じません。頭の重さもなくなりました。少し身体がだるいだけです」


「食欲は?」


「ございます」


「それなら、昨日よりずっとよくなっていますね」


紗良が微笑むと、姫も嬉しそうに頷いた。


その時、廊の向こうが急に騒がしくなった。


女房たちが、いくつもの箱や反物を運んでくる。


鮮やかな衣。


美しい紐で結ばれた文箱。


香を入れるためらしい小さな器。


細かな細工が施された調度品。


部屋の中が、たちまち色と香りで満たされていく。


「すごい……。快気祝い?」


紗良は箱の中を覗き込んだ。


「快気祝い、とは何でございますか」


千代が尋ねる。


「病気がよくなった人に、おめでとうって贈り物をすること」


「こちらは、そのような品ではございません」


小夜が声を潜める。


「では、何?」


問いかけた瞬間、姫の表情が僅かに曇った。


ほんの一瞬だった。


すぐに穏やかな微笑へ戻ったが、紗良は見逃さなかった。


先ほどまで膝の上に置かれていた姫の手が、衣の端を強く握っている。


「姫さま?」


「入内の折に、必要となる品々です」


答えたのは小夜だった。


「じゅだい……」


口に出したあと、紗良はその言葉の意味に気づいた。


「入内って、宮中へ行くこと?」


「はい」


「どうして姫さまが?」


小夜と千代が驚いたように紗良を見る。


「姫さまは、帝のもとへ入内なさる御方でございます」


紗良は姫を見た。


まだ十七、八歳ほどの少女。


熱を出して苦しみ、物の怪に憑かれ、それでも女房たちの身を案じる女性。


その姫が、帝のもとへ行く。


「それは……結婚するということ?」


「そなたの時代では、そのように申すのですか」


姫が静かに尋ねた。


「少し違うのかもしれないけど」


紗良は言葉を選んだ。


知識としては、何となく知っている。


平安時代の貴族にとって、娘の入内は家の力を左右する大きな意味を持っていた。


最高権力者である雅継の娘なら、なおさらだろう。


けれど、歴史の教科書に書かれた一行と、目の前にいる少女の人生は同じではない。


「姫さまは、それを望んでいるんですか」


空気が止まった。


小夜が息を呑む。


「紗良さま、そのようなことをお尋ねしては――」


「よいのです」


姫が小夜を制した。


そして、紗良へ向き直る。


「望むか、望まぬか」


姫はその言葉を確かめるように繰り返した。


「そのように尋ねられたことは、これまで一度もありませんでした」


「では、今初めて聞きます」


紗良は姫の前に座った。


「姫さまは、宮中へ行きたいんですか」


姫はすぐには答えなかった。


美しい衣や文箱に視線を向ける。


どれも姫のために用意されたものだ。


それなのに、それを見つめる目はどこか遠かった。


「幼い頃より、そのために育てられてまいりました」


「でも、行きたいかどうかは別でしょう」


「わたくしが入内すれば、父上のお力はさらに強くなりましょう。この家に仕える者たちも、今まで以上に安んじて暮らすことができます」


「姫さま一人の結婚に、そんなに大勢の人が関係するの?」


「わたくし一人のことではないのです」


姫の声は静かだった。


誰かに言わされているようには聞こえない。


自分の立場と、その先にあるものを理解したうえで話している。


「嫌なら、断ることは……」


そこまで言いかけて、紗良は口を閉じた。


現代の自分なら、嫌な結婚は断ればいいと言える。


仕事も辞められる。


住む場所も選べる。


少なくとも、制度の上では。


しかし、この時代の姫に、同じ言葉をそのまま渡してよいのだろうか。


断ったあとに何が起きるのか。


姫だけではなく、母や女房たち、藤原家に連なる人々へ、どのような影響が及ぶのか。


それを知らない紗良が、簡単に「逃げればいい」と言うことはできない。


「ごめんなさい」


紗良は言った。


「何も知らないのに、簡単に断ればいいと言おうとしました」


姫は僅かに目を見開いた。


「そなたは、わたくしを哀れだと思いますか」


紗良はすぐには答えなかった。


かわいそうだと思わなかったと言えば、嘘になる。


自分で人生を決められない少女。


そう見えた。


けれど、それだけではない。


姫は自分の役目を理解し、その重さから逃げずに向き合おうとしている。


「怖くないんですか」


紗良が尋ねると、姫の指先が僅かに動いた。


「怖くないと申せば、嘘になります」


初めて、姫の声が揺れた。


「宮中には、父上も知り合いも多くはおりません。今までとは異なる多くの方々の中で、わたくしが何を信じ、誰を頼ればよいのか……」


姫は衣を握ったまま、俯いた。


紗良はその手に触れた。


指先が冷たい。


脈も先ほどより速くなっている。


「さっきから、呼吸が浅くなってます」


「息が?」


「不安になると、身体も緊張するんです。少しゆっくり息を吐いてみましょう」


「吐くのですか」


「吸おうとしなくていいから、まず吐いて」


紗良は姫と一緒に、ゆっくり息を吐いた。


姫も真似をする。


もう一度。


細く、長く吐く。


何度か繰り返すうちに、衣を握っていた指から少しずつ力が抜けた。


「心が怖がっている時は、身体にも出るんです」


「病ではないのですか」


「病気の時にも苦しくなるけど、不安や緊張でも息は浅くなります。だから、何でも物の怪のせいにしちゃいけないし、何でも身体の病気だけだと決めてもいけない」


姫は静かに頷いた。


「わたくしは、弱いのでしょうか」


「どうして?」


「入内を前にして、怖いと思っているからです」


「怖いことと、弱いことは別です」


紗良は姫の手を包んだ。


「怖くても行こうとしているなら、十分強いと思います。でも、怖いと言えないまま一人で抱える必要はありません」


姫は長い間、紗良を見つめていた。


やがて、少しだけ笑う。


「紗良は、自分の生きる道を、すべて自分で選んできたのですか」


今度は、紗良が答えに詰まった。


看護師になったのは、自分で選んだ。


そう思っている。


人を助ける仕事がしたかった。


資格があれば、どこでも働けるとも考えた。


けれど、どの病院で働くか。


忙しい時に休まず残るか。


頼まれた仕事を断るか。


周囲が結婚していく中で、自分がどう生きるのか。


本当に、全部を自分で選んできたのだろうか。


誰かをがっかりさせたくなくて選んだこともある。


期待に応えようとして引き受けたこともある。


選んだというより、気づけばその場所に立っていたことも多かった。


「……全部ではないです」


紗良は正直に答えた。


「自分で選んだと思っていたけど、周りに押されて決めたこともあります。断れなくて引き受けたこともあるし、何となく流されてきたことも」


「では、わたくしと同じですね」


姫が言った。


その言葉に、紗良は驚いた。


時代も身分も、生き方も違う。


それでも、自分の人生をすべて自分だけで選べる人など、現代にもそれほど多くないのかもしれない。


自由に見えても、期待や責任、人とのつながりに押されることはある。


姫が特別に弱いわけでも、平安時代の女性が何も考えずに従っているわけでもない。


与えられた場所の中で迷い、考え、その人なりの選択をしている。


「わたくしは、逃げたくはありません」


姫は美しい衣を見つめながら言った。


「わたくしにしか果たせぬ役目であるなら、宮中へ参ります。ただ……」


「ただ?」


「時折、怖くなるのです」


「それでいいんじゃないですか」


紗良は微笑んだ。


「行くか、行かないかを私が決めることはできません。入内をやめさせてあげるなんて、無責任なことも言えません」


姫は黙って聞いている。


「でも、怖い時に怖いと言える相手にはなれます。宮中へ行きたくないと思った日には、そう言ってください。弱音でも愚痴でも、私は聞きます」


「愚痴とは、何ですか」


「言ってもすぐには解決しないけど、外へ出すと少しだけ楽になる言葉です」


姫が小さく笑った。


「では、父上への愚痴も聞いてくれますか」


小夜と千代の顔が一斉に青ざめる。


「もちろん」


紗良が答えると、小夜が慌てて周囲を見回した。


「お声が大きゅうございます」


「聞かれたらまずいの?」


「まずうございます」


姫は声を立てずに笑った。


先ほどまで張り詰めていた空気が、少しだけ緩んでいく。


やがて姫は、紗良の手を握り返した。


「ならば、紗良」


「はい」


「わたくしが宮中へ上がる時、そなたも共に参れ」


紗良は瞬きをした。


「……私も?」


「そなたがそばにいるならば、わたくしは怖いと言えるのでしょう」


「ちょっと待ってください」


藤原邸の作法さえ、まだ何一つ覚えていない。


この時代の文も読めない。


雅継には言いたいことをそのまま言い、夜の邸で道に迷い、女房になった初日から休日を要求した。


そんな自分が宮中へ行く。


考えただけで、問題しか起きない。


「私、宮中で働けるような人間じゃないと思います」


「わたくし付きの女房です。わたくしが望めば、共に参ることができます」


姫の瞳には、先ほどまでとは違う強い光があった。


自分の人生を何一つ選べない少女ではない。


限られた選択肢の中でも、姫は自分に必要な人を選ぼうとしている。


「父上には、わたくしから申し上げます」


姫はそう言って、穏やかに微笑んだ。


紗良は声を失った。


平安時代へ来て、まだ数日。


最高権力者の邸で姫付きの女房になったばかりだというのに、今度は宮中である。


「話の展開、早すぎない……?」


紗良の呟きに、小夜と千代が不思議そうな顔をする。


姫だけが、楽しそうに笑っていた。


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