看護師、姫付きの女房になる
「紗良さまには、本日より姫さま付きの女房としてお仕えいただきます」
朝一番、小夜から告げられた言葉に、紗良はしばらく瞬きをした。
「にょうぼう……」
「はい」
女房。
言葉は知っている。
平安時代を舞台にした物語にも、歴史の授業にも出てきた。
しかし、自分がなるものだと思ったことは一度もない。
「それって、何をする仕事なの?」
小夜と千代が顔を見合わせる。
「姫さまのおそばに控え、お身の回りのことをいたします」
「身の回りって、具体的には?」
「お召し物を整えたり、御文をお預かりしたり、お客人のお取り次ぎをしたり……」
「ほかには?」
「姫さまのお話し相手を務め、折々には歌をお詠みいただくこともございます」
紗良は黙った。
着替えは、今朝も自分一人ではできなかった。
この時代の文は、ほとんど読めない。
客人の身分も分からなければ、取り次ぎ方も知らない。
和歌に至っては、中学や高校の授業で習った記憶しかない。
「私、女房に向いてないと思う」
「そのようなことはございません」
小夜が力強く否定する。
「姫さまが、紗良さまをお望みになられたのです」
「でも、できる仕事が一つもないんだけど」
「これから覚えていただければよろしいのです」
「ずいぶん思い切った中途採用ね……」
「ちゅうとさいよう?」
「今まで別の仕事をしていた人を、途中から雇うこと」
説明しながら、紗良は重大な問題に気づいた。
「そういえば、お給料は?」
「おきゅうりょう」
「働いた代わりにもらうもの。お金とか」
千代が不思議そうに首を傾げる。
「紗良さまに必要なものは、こちらでご用意いたします」
衣食住は支給。
住み込み。
勤務時間は、おそらく決まっていない。
休みも不明。
「これは就職というより、完全に囲われた感じね」
しかも雇用主は、当代最高権力者の藤原雅継。
採用面接も、契約書もない。
退職方法は、さらに分からない。
「ブラックじゃないことを祈ろう……」
「ぶらっくでございますか?」
千代が紗良の衣を心配そうに見る。
「そう、ブラックって黒いことをいうのよ。っていうか、色の話じゃないの」
その日の午前、紗良は女房として最低限必要な作法を教わることになった。
最初は、座り方。
「背筋を伸ばし、もう少し静かにお座りくださいませ」
「静かに座るって、どういう意味?」
「紗良さまは、動きが大きいのでございます」
小夜に指摘され、紗良は自分の動作を振り返った。
物を取る。
振り返る。
立ち上がる。
歩く。
現代では普通の動きでも、長い衣をまとった女房たちの中では、いちいち勢いがありすぎるらしい。
「では、立ってみてくださいませ」
紗良は両手をつき、一気に立ち上がった。
小夜と千代が同時に首を振る。
「早すぎます」
「立つのにも適切な速度があるの?」
「ございます」
「急変が起きても?」
二人が黙った。
「誰かが倒れたら、ゆっくりなんて立っていられないでしょう」
「その時は……お急ぎください」
「使い分けるのね」
次は、御簾の扱い。
勝手に上げない。
外側に男性がいる時には、特に慎む。
文を受け取る時も、できる限り姿を見せず、御簾や几帳を隔てて応対する。
「顔も見せずに、どうやって相手のことを知るの?」
「お声や御文、お召し物に焚きしめられた香などでございます」
「顔より難易度が高くない?」
「直接お顔を拝する方が、よほど難しいことにございます」
紗良は昨夜を思い出した。
月の下で、雅継とは何の隔てもなく話していた。
互いの顔を見て、隣で同じ月を眺め、後ろを歩いた。
あれは、この時代では紗良が思っていた以上に珍しいことだったのかもしれない。
「だから、昨日みんなあんなに驚いてたのね」
「紗良さまが雅継さまのお顔を見たうえ、御名までお尋ねになったからでございます」
「知らない人に名前を聞くのは普通でしょう」
「普通ではございません」
小夜はきっぱりと言った。
「では、雅継さまの方から名乗るべきだったと思う」
「そのようなことをおっしゃるのは、紗良さまだけでございます」
「そうかな」
「そうでございます」
次は、言葉遣いだった。
これは早々に諦められた。
「雅継さまに『言ってくれればよかったでしょう』などと申してはなりません」
「じゃあ、何て言えばいいの?」
「『あらかじめお教えいただけましたなら、相応のご挨拶を申し上げましたものを』などと」
「長い」
「長くはございません」
「その間に話が終わるでしょう」
千代が堪えきれずに笑い、小夜に睨まれた。
「千代まで笑ってはいけません」
「申し訳ございません」
口では謝りながら、千代の肩はまだ揺れている。
紗良もつられて笑った。
昨日まで、千代はもっと緊張していた。
姫の高熱と物の怪の騒ぎがあり、ほとんど眠っていなかったはずだ。
そう思いながら千代を見る。
笑っているのに、顔色が悪い。
唇の色も薄い。
今朝から何度か、立ち上がる時にふらついていた。
「千代」
「はい」
「朝、何か食べた?」
千代の笑顔が止まった。
「後ほど、いただきます」
「昨日の夜は?」
「昨夜は姫さまのことがございましたので……」
「一昨日は?」
「いただきました」
一昨日まで遡らなければならない時点で、答えは出ている。
「ちょっと手を見せて」
紗良は千代の手を取った。
冷たい。
脈に触れると、やや速い。
「紗良さま?」
「気持ち悪くない? 目の前が暗くなったり、ふわっとしたりしない?」
千代は驚いたように紗良を見た。
「先ほど、少しだけ……」
「少し休もう。横になって」
「なりません。わたくしは今、紗良さまに作法を――」
「作法より、倒れない方が大事」
「ですが」
「立って」
千代は戸惑いながら腰を上げた。
次の瞬間、その身体が傾いた。
「千代!」
紗良は咄嗟に腕を伸ばした。
どうにか身体を支えたが、長い袖と裾が絡み、二人そろって床へ座り込む。
「危なかった……。ほら、やっぱり」
「申し訳ございません」
「謝ることじゃないでしょう」
小夜が青ざめた顔で駆け寄る。
「すぐに僧をお呼びいたします。それとも清景さまを――」
「待って。ただの疲れや空腹かもしれない。まず横になって、何か飲んで、食べられそうなら少し食べてもらおう」
紗良は千代の顔を覗き込んだ。
「胸が痛いとか、息が苦しいとかは?」
「ございません」
「頭は?」
「少し重く感じます」
「熱はなさそうね」
額へ触れたが、発熱は感じない。
もちろん、検査ができるわけではない。
正確な原因は分からない。
貧血かもしれないし、寝不足や脱水、空腹の影響かもしれない。何か別の病気が隠れている可能性もある。
だからこそ、決めつけてはいけない。
「とにかく、今は休んで」
「わたくしなどが、昼間から横になるわけにはまいりません」
千代が身体を起こそうとする。
「『わたくしなど』って何?」
思わず、紗良の声が強くなった。
「千代が倒れたら、小夜の仕事も増えるでしょう。姫さまだって心配する。無理をして倒れることは、誰のためにもならないの」
「ですが、わたくしは女房にございます」
「女房だって人間でしょう」
千代が目を見開く。
当たり前のことを言ったつもりだった。
しかし、小夜も驚いたように紗良を見ている。
「どんな役目があっても、身体がなくなったら続けられないの。休むのも仕事のうち」
昨日、姫にも似たようなことを言った。
身分の高い姫と、その身の回りを世話する女房。
立場は違っても、身体のつくりは同じだ。
眠らなければ疲れる。
食べなければ力が出ない。
つらい時に無理をすれば、いつか倒れる。
紗良は小夜に頼み、飲み物と、少しでも口にできそうなものを用意してもらった。
千代を横にしていると、背後から声がした。
「今度は何の騒ぎだ」
振り返ると、清景が立っていた。
「毎回、登場の仕方が感じ悪いのよ」
「そなたが行く先々で騒ぎを起こしているだけだ」
清景は横になっている千代を見る。
「物の怪か」
「今のところ、その様子はない。昨夜からほとんど眠らず、食べてもいなかったみたい」
「ならば食べて眠ればよい」
「簡単に言うけど、それができない空気があるの」
「空気?」
「自分の役目を優先して、休んではいけないと思わせる空気」
清景は意味が分からないという顔をした。
「倒れて役目を果たせぬ方が、よほど迷惑ではないか」
「あなた、意外と話が分かるじゃない」
「意外は余計だ」
千代は渡された飲み物を少しずつ口にした。
しばらく横になっているうちに、頬にもわずかに色が戻ってきた。
紗良は脈にもう一度触れる。
先ほどよりは落ち着いている。
「すぐに動かないでね。起きる時も、ゆっくり」
「はい……」
千代は申し訳なさそうにしながらも、今度は逆らわなかった。
清景が、紗良の手元を見ている。
「何?」
「そなたは、脈を取る時に目を閉じるのだな」
「指先に集中してるの」
「それで何が分かる」
「速さや強さ、規則正しく打っているか。全部が分かるわけじゃないけど、身体の状態を考える手がかりにはなる」
清景は自分の手首へ指を当ててみた。
「そこじゃない。もう少し親指側」
紗良が位置を示すと、清景は黙って指をずらす。
「どう?」
「動いている」
「そりゃ生きてるからね」
小夜が俯き、笑いを堪えた。
「紗良」
姫の声がした。
いつの間にか目を覚ましていたらしい。
「千代は大丈夫なのですか」
「今は少し休ませています。食べて眠って、それでも具合が悪いようなら、ほかの原因も考えないといけません」
「千代」
姫が呼ぶ。
千代は横になったまま、どうにか頭を下げようとした。
「そのままでよい」
姫は静かに言った。
「今日は休みなさい」
「姫さま……」
「紗良の申すとおりです。そなたが倒れれば、わたくしも悲しい」
千代の目に、薄く涙が浮かんだ。
紗良は姫を見た。
この時代の女性が、ただ決められたことに従って生きているわけではない。
姫は姫なりに、周囲を見ている。
人を思い、自分の言葉で守ろうとしている。
現代の自分が何もかも教えるのではない。
きっと自分も、この人たちから多くのことを教わるのだろう。
午後になると、千代の顔色はさらに戻った。
発熱や呼吸の異常もなく、少量ながら食事も取れた。
紗良がようやく安心した頃、年配の女房が部屋へ入ってきた。
手には、折り畳まれた紙を持っている。
「雅継さまより、仰せにございます」
その一言で、小夜と千代が姿勢を正した。
紗良も慌てて座り直す。
年配の女房は、紙を広げて読み上げた。
「水城紗良を、姫付きの女房として、この邸に置く。姫の身体に関することについては、その言葉を聞くように」
紗良は驚いた。
正式に、ここで働くことが決まったらしい。
「続きがございます」
年配の女房が言う。
「ただし、礼儀作法については、小夜および千代の言葉を聞くこと」
小夜が深く頭を下げた。
千代も横になったまま、嬉しそうに微笑む。
「わざわざ、そこまで書いたの?」
紗良が呟くと、年配の女房が咳払いをした。
「さらに、もう一つ」
まだあるのか。
「夜間、一人で邸内を歩くことを禁ずる」
紗良は思わず天井を見上げた。
昨日、たった一度迷っただけなのに、正式な命令にまでなってしまった。
「これ、全員に読み上げる必要あった?」
「雅継さまの仰せにございますので」
周囲から、小さな笑い声が聞こえる。
姫まで楽しそうに笑っていた。
「笑い事じゃないんですけど」
年配の女房が、紗良の前へ紙を置く。
そこには、力強く流れるような文字が並んでいた。
やはり、ほとんど読めない。
ただ、一番下に記された名だけは、小夜に教えられて分かった。
藤原雅継。
これが、あの男の文字。
迷いがない。
昨日、雅継が自分の筆跡を評した言葉を思い出す。
――筆は、その者を映す。
紗良は、紙の上を走る線を目で追った。
静かで、隙がなく、決して乱れない。
けれど最後の一画だけが、何かを振り切るように、長く伸びていた。
「どうかなさいましたか」
小夜に尋ねられ、紗良は紙から顔を上げた。
「ううん。何でもない」
再び文字を見る。
顔を合わせれば、誰もが恐れて頭を下げる男。
昨夜は月の下で一人、何を考えていたのだろう。
「とりあえず……」
紗良は小さく息を吐いた。
「転職先は、平安時代の最高権力者のお邸に決まったみたいね」
看護師、水城紗良、三十歳。
職種は本日より、姫付きの女房。
仕事内容は、話し相手、身の回りの世話、体調管理。
そして、平安時代の礼儀作法を一から覚えること。
なお、夜勤はないらしい。
ただし、物の怪は時間外でも現れる。
「せめて、休日だけは確認しておけばよかった……」
紗良の呟きに答えるように、どこか遠くで風が鳴った。




