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京都で見つけた千年前の恋文――それを書いたのは、これから私が恋をする関白さまでした  作者: EMo


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昨日の道案内の人


翌朝、紗良は千代の手を借りながら、どうにか衣を身につけた。


正確には、ほとんど千代に着せてもらった。


「こちらのお色の方が、紗良さまにはお似合いでございます」


そう言って千代が選んだのは、淡い薄紅色の衣だった。


「目立たない色がいいんだけど」


「まあ。これでも、とても控えめでございますよ」


これで控えめなのか。


平安時代の色彩感覚は、病院の白衣とはずいぶん違う。


紗良は長い袖を持ち上げ、自分の身体を眺めた。


「これ、袖だけで人一人分の布を使ってない?」


「そのようなことはございません」


千代が笑う。


その隣で、小夜は紗良の髪を梳いていた。


「紗良さまの御髪は、ずいぶん短いのですね」


「これでも肩より長いんだけど」


「幼い姫君のようでございます」


「三十歳です」


「さんじゅう……」


小夜と千代の手が、同時に止まった。


「何?」


「いえ……」


二人は目を合わせ、気まずそうに視線を逸らした。


「何なの。その反応」


「紗良さまは、もっとお若いのかと」


「それなら普通に、そう言ってくれればいいでしょう」


褒められたのか、哀れまれたのか分からない。


この時代で三十歳の独身女性は、いったいどのように見られるのだろう。


あまり深く考えない方がよさそうだ。


身支度を終え、姫のもとへ向かう。


廊を歩く間も、紗良は何度か自分の裾を踏みかけた。そのたびに小夜が腕を支え、千代が後ろから裾を整える。


一人で歩くだけなのに、どうして三人がかりなのか。


「昨日の夜は、これでよく歩けたわね、私」


「昨日の夜?」


小夜が足を止めた。


しまった。


「紗良さま。もしや、お一人でお部屋を出られたのですか」


「ほんの少しだけ」


「清景さまから、出歩かぬようにと言われておりましたのに」


「水を探してたの。喉が渇いて」


「お呼びくだされば、すぐにお持ちいたしました」


「眠ってるのを起こすのは悪いでしょう」


紗良がそう言うと、小夜は困ったように眉を下げた。


「わたくしたちは、紗良さまのお世話をするよう申しつけられております。お起こしいただくことは、何も悪いことではございません」


「でも、眠い時は眠いじゃない」


「それは……」


小夜が言葉に詰まる。


この時代にも、眠いものは眠いはずだ。


身分や役目が違っても、人間の身体まで違うわけではない。


「今度から、昼のうちに水を置いておいてもらえる?」


「承知いたしました」


「それなら、夜は出歩かなくて済むから」


「昨夜は、どちらまで行かれたのですか」


「分からない。迷ってたから」


「どなたにもお会いになりませんでしたか」


紗良の脳裏に、月の下に立っていた男の姿が浮かんだ。


低く、落ち着いた声。


衣に焚きしめられた、深く静かな香り。


――いずれ知る。


名前を尋ねた紗良に、男はそう答えた。


「一人、会った」


「どのような方でございましたか」


「このお邸で働いてる人。たぶん」


小夜と千代が、また顔を見合わせる。


「お名前は?」


「教えてくれなかった。変な人だった」


その時、前方から複数の足音が聞こえてきた。


小夜の表情が一変する。


「紗良さま、こちらへ」


「え?」


「早く」


小夜に袖を引かれ、紗良は廊の端へ寄せられた。


周囲にいた女房たちも慌ただしく動き、次々に頭を垂れていく。


先ほどまで聞こえていた話し声が、嘘のように消えた。


衣の擦れる音さえ、息を潜めたように小さくなる。


何が起きたのか分からないまま、紗良も小夜を真似て膝をついた。


けれど、慣れない衣が脚に絡む。


「あ、ちょっと待って」


袖を踏み、前につんのめる。


どうにか両手をついた時には、誰かが紗良の前で足を止めていた。


ふわりと、香りが届く。


甘すぎず、深く、静かな香り。


紗良はゆっくり顔を上げた。


見覚えのある男が、こちらを見下ろしている。


「……あ」


昨夜、月の下にいた男だった。


今日も整った衣をまとってはいるが、周囲の者たちと大きく違うようには見えない。


ただ、彼の後ろには何人もの男たちが控え、さらにその後ろでは女房たちが一斉に頭を下げている。


紗良だけが、顔を上げていた。


「あの、昨日の……道案内の人」


誰かが息を呑んだ。


小夜が隣で固まっている。


千代に至っては、今にも倒れそうな顔をしていた。


男は紗良を見つめたまま、ほんのわずかに目を細めた。


昨夜と同じだった。


笑う直前にだけ見せるような、微かな変化。


「部屋へは戻れたようだな」


「おかげさまで。でも途中から、小夜が捜しに来てくれたので」


「そうか」


それだけ言うと、男は再び歩き出そうとした。


紗良は慌てて呼び止める。


「待ってください」


周囲の空気が凍りついた。


小夜が紗良の袖を強く引く。


「紗良さま、お控えください」


「でも、まだ名前を聞いてない」


男の後ろに控えていた年配の男性が、信じられないものを見るように紗良を見た。


「そなた、この御方をどなたと心得る」


「だから、それを今から聞こうとしてるんです」


年配の男性の顔が引きつる。


男は片手をわずかに上げ、彼を黙らせた。


そして、紗良へ向き直る。


「藤原雅継」


紗良は、その名を頭の中で繰り返した。


藤原。


この邸も藤原家だと聞いている。


「このお邸の方ですよね?」


雅継は答えなかった。


代わりに、小夜が震える声で囁いた。


「この御方こそ、このお邸の主であらせられます」


「主?」


紗良は雅継を見る。


次に、床へ額がつきそうなほど頭を下げている女房たちを見る。


さらに、雅継の後ろに並ぶ男たちを見る。


全員が、彼のわずかな動きさえ見逃すまいとしているようだった。


「では……姫さまの」


「父君でございます」


千代が消え入りそうな声で答えた。


紗良は目を見開いた。


昨夜の会話が蘇る。


――姫さまのお父さまには、まだお会いしていません。


――父には会っておらぬのか。


――きっと、お忙しい方なんでしょうね。


――そうかもしれぬ。


知っていたのだ。


あの時、この人はすべて知ったうえで聞いていた。


「えっ、じゃあ、昨日の時点で言ってくれればよかったでしょう」


小夜が小さな悲鳴を上げた。


「紗良さま!」


雅継の背後にいる男たちの顔にも、驚きと怒りが浮かぶ。


しかし雅継本人だけは、変わらぬ顔で紗良を見ていた。


「そなたは、私が名乗れば同じように話したか」


「それは……」


紗良は周囲を見回した。


誰も顔を上げようとしない。


昨夜の男と、今ここに立っている男が、同じ人物とは思えなかった。


雅継は声を荒らげていない。


命令したわけでもない。


ただそこにいるだけで、誰もが緊張し、彼の顔色を窺っている。


この邸の主人というだけではない。


それ以上の何かがある。


「少しは、言葉を選んだと思います」


紗良が正直に答えると、雅継の目元が微かに緩んだ。


「ならば、名乗らずにいて正解だった」


「からかったんですか?」


「そなたが勝手に、私を邸で働く者と決めたのだ」


「『そのようなものだ』って言ったじゃないですか」


「この邸のために働いていることに、違いはない」


何だ、その屁理屈は。


権力者というより、言葉尻を取るのがうまい上司に見えてきた。


紗良が言い返そうとした時、雅継の視線が周囲へ向けられた。


それだけで、空気が再び張り詰める。


「姫のもとへ参る」


雅継が言った。


紗良たちは少し間を置き、その後ろに従った。


姫の部屋へ入ると、紗良は御簾の内側へ回った。


雅継はその外側に座る。


父と娘であっても、間には御簾がある。


昨夜、何の隔てもなく月の下で話していたことの方が、この時代では例外なのかもしれない。


「父上」


姫が身体を起こそうとする。


「起きなくていいです」


紗良は咄嗟に姫の肩を支えた。


御簾の向こうにいる雅継の気配が、わずかに動いた。


「まだ熱があります。話すなら短くしてください」


女房たちがまた息を呑む。


紗良は首を傾げた。


患者の休息を守るのは当然だ。


相手が姫の父親でも、邸の主人でも変わらない。


「紗良さま」


小夜が小声で注意する。


しかし雅継は怒らなかった。


「よい。姫の身体については、この者の言うことを聞こう」


「父上、この方を、わたくしのそばに置いてくださいませ」


姫が願い出た。


「どこから来た者かも分からぬ」


「ですが、わたくしを助けてくださいました」


「助けたのは陰陽師だけではないのか」


紗良は御簾越しに雅継を見た。


彼が本当に知りたいのは、紗良が何者なのかということだろう。


当然だ。


素性不明の女が突然現れ、娘の寝所へ入り込んだのだから、警戒しない方がおかしい。


「私は、姫さまの熱を診ていただけです」


紗良は自分から答えた。


「物の怪を祓ったのは清景です。私には、あんなものを祓う力はありません」


「では、そなたには何ができる」


御簾の向こうから、静かな声が届く。


その問いに、紗良は少し考えた。


薬もない。


検査もできない。


病名をつけたところで、治療法がなければ救えないこともある。


「身体の小さな変化を見ることです」


紗良は答えた。


「顔色、呼吸、脈、意識……言葉にできない苦しさも、できるだけ見落とさないようにする。治せるとは言えません。でも、苦しんでいる人を放っておかないことはできます」


室内が静かになった。


雅継はすぐには何も言わなかった。


やがて、低い声が御簾を越える。


「そなたのいた場所では、それが役目であったのか」


「はい」


「何という役目だ」


紗良は一瞬、迷った。


「看護師です」


「かんごし」


雅継が、聞き慣れない言葉を繰り返す。


「病人のそばで、その人の身体と心を看る仕事です」


「心も看るのか」


「看たいと思っていました。いつもできていたかは、分かりませんけど」


自分で口にすると、胸の奥が少し痛んだ。


忙しい勤務の中で、もっと話を聞けたのではないかと思う患者は、何人もいる。


助けられなかった人もいる。


間に合わなかったこともある。


看護師だからといって、誰でも救えるわけではない。


雅継は、それ以上尋ねなかった。


「姫が望む間、この邸にいることを許す」


「本当ですか?」


「ただし、勝手に邸を出ることは許さぬ。素性が明らかになるまでは、小夜と千代を必ず伴え」


「分かりました」


「夜もだ」


紗良は言葉に詰まった。


昨夜のことを、しっかり念押しされている。


「……気をつけます」


「気をつける、ではない。出歩くな」


清景と同じことを言われた。


この時代へ来てから、命令してくる男ばかりだ。


「水は、あらかじめ用意させる」


雅継が言う。


紗良は御簾の向こうを見つめた。


昨夜の会話を覚えていたらしい。


「ありがとうございます」


素直に礼を言うと、雅継は何も答えなかった。


ただ、衣がわずかに擦れる音がした。


話は終わったのだろう。


雅継が立ち上がる。


その時、姫のそばに置かれていた一枚の紙が、風に揺れた。


昨日、紗良が自分の名を書いた紙だった。


御簾の隙間から、雅継の視線がそこへ落ちる。


「これは、そなたが書いたのか」


「はい」


「水城紗良」


雅継が、初めて紗良の名を呼んだ。


低い声が、その四文字をゆっくりとなぞる。


紗良の胸が、不意に大きく鳴った。


宇治川の霧の中で聞いた声。


――紗良。


似ている。


やはり、似ていた。


「珍しい字を書く」


「読めるんですか?」


「名であろう」


「そうですけど、この時代の文は全然読めなくて。書けるのに読めないなんて、変ですよね」


雅継は紙をしばらく見つめていた。


「筆は、その者を映すという」


「字を見れば性格が分かる、ということですか?」


「少なくとも、隠しきれぬものはある」


「私の字には、何が出ています?」


紗良が尋ねると、雅継はわずかに間を置いた。


「迷いがない」


「そう見えるだけです」


「では、そう見せることに長けているのだろう」


紗良は返す言葉を失った。


たった数文字で、見抜かれたような気がした。


雅継は紙から目を離し、部屋を出ていく。


女房たちが再び深く頭を下げる。


紗良も慌てて真似をしたが、また袖を踏みそうになった。


雅継が去ったあと、部屋の空気が一気に緩んだ。


小夜が胸を押さえ、千代はその場へ座り込む。


「寿命が縮まりました……」


「そんなに怖い人なの?」


紗良が尋ねると、小夜は周囲を気にしながら声を潜めた。


「雅継さまは、今の世で最もお力を持つ御方でございます」


「このお邸の中で、じゃなくて?」


「この国で、でございます」


紗良は固まった。


昨夜、月の下で何を話したか思い返す。


このお邸で働いている方ですか。


親切な方でよかった。


月はお好きですか。


そして、名前も知らないまま道案内をさせた。


「先に言ってよ……」


「申し訳ございません。まさか、昨夜お会いになった御方が雅継さまとは思わず」


千代が青ざめた顔で答える。


「私、何かまずいこと言ってた?」


小夜と千代が黙る。


その沈黙が、何よりも雄弁だった。


「言ってたのね」


背後で、小さな笑い声がした。


振り返ると、姫が横になったまま笑っている。


「父上に、あのように話す方を初めて見ました」


「笑い事じゃないですよ。私、この先もここにいて大丈夫なんでしょうか」


「父上がお許しになったのです。誰もそなたを追い出せません」


姫の言葉で、紗良は改めて雅継の力を知った。


彼が許せば、素性不明の自分でもこの邸にいられる。


逆に、彼が許さなければ、誰も紗良を守れない。


昨夜の静かな男と、今の世で最も力を持つ男。


二つの姿が、まだ紗良の中で一つにならなかった。


「紗良さま」


千代が何かを抱えて戻ってきた。


小さな器と、水を入れた容器だった。


「雅継さまより、紗良さまのお部屋へ置くようにとの仰せでございます」


「もう?」


「夜ごと邸をさまよわれては困る、と」


紗良は水の入った容器を見つめた。


叱られている。


たぶん、これは命令だ。


それなのに、昨夜のことを覚えていてくれたのだと思うと、胸の奥に小さな温かさが残った。


「やっぱり、親切な人じゃない」


紗良が呟くと、小夜と千代はそろって目を見開いた。


姫だけが、楽しそうに目を細めている。


その頃の紗良は、まだ知らなかった。


一国の誰もが恐れる男を、ただの「親切な道案内の人」として見たことが、雅継の心にどれほど深く残ったのかを。


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