月の下の道案内
「……生きてる」
目を開けた紗良は、まず自分の胸に手を当てた。
心臓は動いている。息もできる。手足もついている。
そして、見上げた先には白い天井ではなく、太い木の梁があった。
カーテンも、ナースコールも、点滴台もない。
代わりに、薄暗い部屋の向こうから、小夜が几帳の陰よりこちらを覗いている。
「紗良さま、お目覚めでございますか」
「おはようございます……」
言いながら、昨夜の出来事が一気に蘇った。
高熱を出した姫。
病か、物の怪かと清景と言い争ったこと。
闇の中から現れた、女の姿。
そして――。
『返して』
紗良は掛けられていた衣を鼻のあたりまで引き上げた。
夢だったことにしたい。
コロナで友人が来られなくなり、一人で京都へ行った。宇治川で転んで頭を打ち、今はどこかの病院で眠っている。
そう考えれば、すべて説明がつく。
「姫さまがお目覚めになられました」
小夜の言葉に、紗良は勢いよく身を起こした。
「熱は?」
「まだ少しおありですが、昨夜ほどではございません。朝には水も召されました」
「意識ははっきりしてる? 呼吸は苦しそうじゃない? 吐いてない?」
小夜が目をぱちぱちさせる。
「いしき……?」
「ああ、ごめん。ちゃんと受け答えできてる?」
「はい。千代の名もお呼びになりました」
「よかった……」
紗良は大きく息を吐いた。
姫を治した、などと思うつもりはなかった。
紗良にできたのは、熱に苦しむ身体を少し楽にし、水を飲ませ、状態を見守ることだけだ。あの異様な影を退けたのは清景で、熱を乗り越えたのは姫自身の力だ。
それでも、昨夜より状態がよいと聞けば、肩の力が抜けた。
「おそばへ参られますか」
「もちろん」
立ち上がろうとして、紗良は止まった。
昨夜まで着ていた服がない。
代わりに身体を包んでいるのは、何枚も重ねられた見慣れない衣だった。
袖が長い。裾も長い。どこまでが一枚目で、どこからが二枚目なのかも分からない。
「……これ、どうやって歩くの?」
小夜は不思議そうに首を傾げた。
「歩いていただければ」
「その歩き方が分からないの」
試しに一歩踏み出す。
自分の裾を踏んだ。
「あっ」
前へ倒れかけた紗良の腕を、小夜が慌ててつかむ。
「紗良さま!」
「危なっ……。これ、転倒リスク高すぎるでしょう」
「てんとうりすく?」
「こっちの話」
現代なら、転倒予防のために裾を短くしてください、と申し送りたいところだ。
しかし、この時代にそんな提案をすれば、まず自分の格好を改めろと言われるに違いない。
部屋の隅には、紗良のバッグが置かれていた。
駆け寄りたいところだったが、裾のせいで小刻みにしか進めない。
ようやくたどり着き、中を確かめる。
財布。化粧ポーチ。ハンカチ。小さなペットボトル。充電ケーブル。そして、スマートフォン。
電源を入れると画面が光った。
当然、圏外。
時刻も意味をなさない。
充電は、残り五十二パーセント。
「五十二……」
思わず声が漏れた。
この数字がゼロになれば、紗良と現代をつなぐものが一つ消える。
家族の写真も、友人とのやり取りも、仕事の記録も、この薄い板の中にあるのに。
「それは、いったい何なのでございますか」
いつの間にか背後に来ていた千代が、恐る恐る画面を覗き込んでいた。
「私の時代の……道具」
「光っております」
「うん」
「もしや、それも物の怪では」
「違います」
紗良は即答して、スマートフォンの電源を切った。
「これは絶対に違います。清景には見せないで。面倒なことになるから」
「すでに聞こえている」
低い声に、紗良の肩が跳ねた。
振り返ると、清景が几帳のそばに立っていた。
「勝手に入ってこないでよ!」
「声をかけた。そなたがその怪しげな板に夢中で、気づかなかっただけだ」
「板じゃなくてスマートフォン」
「すま……何だ」
「もういい。説明しても使えないから」
清景は紗良の手元をじっと見たが、それ以上は尋ねなかった。
昨夜と変わらず無愛想な顔をしている。しかし、目の下にはわずかに疲れが見えた。
「姫さまの様子は?」
紗良が尋ねると、清景は短く答えた。
「落ち着いている」
「なら、あれは祓えたの?」
「少なくとも、今は姫から離れている」
「今は?」
その言葉が引っかかった。
清景はしばらく黙り、やがて紗良へ目を向けた。
「昨夜のものは、姫を恨んで現れたのではない」
「何かを探してるって言ってたよね」
「ああ」
「返して、って……何を?」
「分からぬ」
清景があっさり答える。
「陰陽師でも分からないことがあるんだ」
「分からぬものを、分かったふりで語る者よりはましだ」
「そこは意外と信用できるのね」
「褒めても何も出ぬぞ」
「褒めてないけど」
小夜と千代が、二人の顔を交互に見ている。
この時代では、陰陽師と素性不明の女がこんなふうに言い合うことは珍しいのだろう。
清景は小さく息を吐いた。
「しばらくは一人で出歩くな。あれが再び現れぬとも限らぬ」
「それは私が狙われてるってこと?」
「分からぬ」
「またそれ?」
「ゆえに、出歩くなと言っている」
「はいはい」
「返事が軽い」
「こっちは昨日、人生で初めて本物の物の怪を見たの。もう少し優しく説明してくれてもいいでしょう」
「そなたは、優しく言えば聞くのか」
紗良は少し考えた。
「……たぶん聞かない」
「ならば同じことだ」
清景はそれだけ言い残すと、さっさと出ていった。
「本当に感じ悪い」
その背中へ向けて呟く。
廊下の向こうから、「聞こえているぞ」と声が返ってきた。
姫は、まだ青白い顔をしていた。
それでも昨夜のような苦しげな呼吸はなく、紗良を見ると弱々しく微笑んだ。
「そなたが、わたくしを助けてくれたのですね」
「私は、できることをしただけです。まだ熱があるから、無理に起きないでください」
姫のそばに膝をつき、額に触れる。
昨夜よりは下がっている。
脈は少し速いが、触れ方もしっかりしていた。
「水は少しずつ飲めていますか」
「はい」
「気持ち悪くない? 頭は痛くないですか」
姫は質問に答えながら、珍しいものを見るように紗良を見つめていた。
「そなたの言葉は、不思議ですね」
「すみません。変ですよね」
「いいえ。誰も、そのようにわたくしへ尋ねたことがありません」
姫の目が、ほんの少し寂しそうに揺れた。
周囲には大勢の女房がいる。
身分も、美しい衣も、広い邸もある。
それでも、この少女が自分の身体の苦しさをそのまま口にできる相手は、案外少ないのかもしれない。
「つらい時は、つらいって言っていいんですよ」
紗良が言うと、女房たちの間に小さなどよめきが走った。
姫は目を丸くしたあと、ふっと笑った。
「やはり、そなたは不思議な方」
そして、少し息を整えてから続けた。
「ここに、おりなさい」
「え?」
「わたくしが元気になるまで、そばにいてほしいのです」
紗良は返事に詰まった。
ここにいる以外、行く場所などない。
現代へ帰る方法も分からない。
けれど、自分が平安時代らしき場所にいることを認めてしまえば、もう夢だとは言い張れなくなる。
「……分かりました」
紗良はゆっくり頷いた。
「ただし、ちゃんと休んでください。元気になるまでは、それが姫さまのお仕事です」
「仕事……」
姫はその言葉を小さく繰り返し、また笑った。
その日の大半を、紗良は平安時代に負け続けて過ごした。
衣に負けた。
座り方に負けた。
食事にも負けた。
器を持ち上げようとして千代に驚かれ、髪を一つに束ねようとして小夜に止められ、御簾を勢いよく上げようとして二人に同時に悲鳴を上げられた。
「紗良さま、なりませぬ!」
「外からお姿が見えてしまいます!」
「いや、見えたって別に――」
そこまで言って、紗良は口を閉じた。
別によくない時代なのだ。
姿を見せることにも、声を聞かせることにも、意味がある。
現代とは、何もかも距離が違う。
「メッセージ一つ送るのにも、苦労しそう……」
「めっせえじ、とは?」
「文のこと。たぶん」
「文でしたら、紙と筆をお持ちいたします」
「筆?」
紗良の目が、わずかに輝いた。
「筆なら使える」
「お使いになれるのですか?」
「こう見えても書道五段。小学校一年生から中学卒業まで、九年間も習ってたの。行書で賞を取ったことだってあるんだから」
小夜と千代は、何のことか分からないまま、顔を見合わせた。
やがて千代が、紙と硯と筆を持ってきた。
紗良は筆を取り、墨を含ませる。
久しぶりだったが、持ち方は身体が覚えていた。
紙の上に、ゆっくりと自分の名を書く。
――水城紗良。
二人が、そろって息を呑んだ。
「まあ……」
「なんと美しい文字でしょう」
紗良は久しぶりに、少し得意な気分になった。
書道教室へ通い続けた一番の理由は、稽古のあとにもらえるお菓子だった。
小学校一年生から中学校を卒業するまでの九年間。
あの頃の自分に、いつか千年近く昔の世界で役に立つと教えても、絶対に信じないだろう。
「人生、何が役に立つか分からないものね」
ところが、小夜が別の文を広げた途端、その自信はあっけなく消えた。
流れるような文字が連なっている。
文字であることは分かる。
ところどころ、見覚えのある形もある。
だが、読めない。
「こちらも、お読みになりますか?」
「……ごめん。全然分からない」
「これほど美しくお書きになるのに?」
「書けるのと、読めるのは別問題なの」
紗良は紙を見つめて、深いため息をついた。
筆は使える。
字も書ける。
しかし、この時代の文字と文の作法は、一から覚えなければならないらしい。
物の怪より先に、古文の授業が待っていた。
夜になっても、なかなか眠れなかった。
部屋は静かだった。
静かすぎた。
空調の音も、車の音も、遠くを走る電車の音もない。
聞こえるのは、虫の声と、風が木々を揺らす音。時折、どこかで衣の擦れる気配がする。
昨日までは美しいと思えたかもしれない。
けれど、本物の物の怪を見たあとの暗闇は、風情より先に恐怖が勝つ。
『返して』
耳の奥で、あの声が蘇る。
紗良は目を閉じた。
眠れない。
喉も渇いた。
そばに水らしきものは見当たらず、小夜と千代を起こすのも申し訳ない。
少し迷った末、紗良はそっと起き上がった。
清景の「一人で出歩くな」という言葉が頭をよぎる。
「水を探すだけだから」
誰にともなく言い訳をした。
「出歩くうちに入らないでしょう」
入るかもしれない。
だが、認めなければいい。
小さな灯りを手に、紗良は廊下へ出た。
数歩も進まないうちに、自分がどちらから来たのか分からなくなった。
似たような柱。
似たような簀子。
薄い几帳。
暗がりの向こうに続く渡殿。
案内表示はもちろんない。
「院内マップを設置してほしい……」
呟いても、答える者はいなかった。
戻ろうと振り返り、紗良は遠くに人影を見つけた。
月明かりの下に、一人の男が立っている。
物の怪。
その言葉が真っ先に浮かび、紗良は息を止めた。
逃げようとして、また裾を踏む。
「あっ」
灯りが大きく揺れた。
男がこちらを振り返る。
「誰だ」
低く、落ち着いた声だった。
少なくとも、昨夜の女の声ではない。
紗良は灯りを持ち上げ、目を凝らした。
男は四十歳ほどだろうか。
月光の下では衣の色まではよく分からない。ただ、立ち姿に妙な静けさがあった。
何もしていないのに、その場の空気が男を中心に整っているように見える。
「すみません。怪しい者ではありません」
言ってから、紗良は自分で首を傾げた。
この時代では、自分以上に怪しい者はいない。
男の目が、わずかに細くなる。
笑ったのかどうかは分からなかった。
「その姿で夜の邸を歩いておれば、十分に怪しい」
「やっぱりそうですよね」
紗良は素直に認めた。
「水を探していたら、迷いました」
「水?」
「喉が渇いて。でも、どこへ行けばいいのか分からなくて」
男はしばらく紗良を見つめていた。
誰かを呼ぶ様子も、咎める様子もない。
近づくと、衣に焚きしめられた香が、夜気に紛れて微かに届いた。
甘すぎず、深く、静かな香りだった。
どこか懐かしい。
けれど、記憶のどこを探しても、知っているはずがない。
「そなたが、姫のそばにいた女か」
「知ってるんですか?」
「この邸で、知らぬ者の方が少なかろう」
「そうなんだ……」
物の怪と一緒に突然現れ、陰陽師と言い争い、姫の額を冷やせと騒いだ女。
確かに噂になるには十分だった。
「姫さまのお父さまには、まだお会いしていません。勝手にここにいていいのかも分からなくて」
男は一瞬、黙った。
「父には会っておらぬのか」
「はい。きっと、お忙しい方なんでしょうね」
「……そうかもしれぬ」
「このお邸で働いている方ですか?」
今度こそ、男は確かに目を細めた。
「そのようなものだ」
「じゃあ、私の部屋までの道、分かります?」
「そなたの部屋がどこか、私は知らぬ」
「ですよね」
紗良は肩を落とした。
自分の部屋の場所すら説明できないのだから、どうしようもない。
男は月を見上げた。
つられるように、紗良も空を見る。
大きな月が、雲の切れ間に浮かんでいた。
千年前も、月は同じだったのだろうか。
いや、ここが本当に千年前なら、現代で見ていた月と、今見上げている月は同じものだ。
「月は、お好きですか」
紗良が尋ねると、男はすぐには答えなかった。
「月は、人が好むか否かにかかわらず、そこにある」
「ずいぶん現実的ですね」
「おかしなことを言う女だな。月に現実も何もあるまい」
「もっとこう、趣のある答えが返ってくるのかと思ったんです。この時代の人だから」
「この時代?」
しまった。
紗良は慌てて笑った。
「いえ、この……お邸の人だから」
男は追及しなかった。
ただ、紗良の言葉を量るように見つめている。
その視線は鋭いのに、不思議と怖くはなかった。
「そなたは、どこから来た」
「遠いところです」
「どれほど遠い」
紗良は月を見たまま答えた。
「たぶん、想像できないくらい」
男もまた、月へ視線を戻した。
「ならば、帰りたいか」
胸の奥を、不意に突かれた。
帰りたい。
家族に会いたい。
仕事のことも気になる。
友人は、自分が京都で行方不明になったと知ったら、どれほど自分を責めるだろう。
けれど、帰る方法は分からない。
「帰れるなら」
紗良は小さく答えた。
「帰りたいです」
男は何も言わなかった。
慰めるでもなく、理由を尋ねるでもなく、ただ隣で同じ月を見ていた。
その沈黙が、紗良にはありがたかった。
やがて、男が歩き出す。
「来い」
「え?」
「そのままでは、朝までここをさまようことになる」
「あ、道案内してくれるんですね」
紗良は長い裾を持ち上げ、慌ててあとを追った。
「親切な方でよかった」
男が足を止め、振り返る。
「私をそのように言う者は、珍しい」
「そうなんですか?」
「ああ」
再び歩き出した男の背中を、紗良は見つめた。
知らない人。
今日、初めて会った人。
そのはずなのに。
月明かりの中を進む背中を見ていると、胸の奥がひどく騒いだ。
まるで、ずっと昔にもこうして、この人の後ろを歩いたことがあるような。
そんなはずはない、と紗良は自分に言い聞かせる。
それでも、男の低い声と、衣に残る静かな香りが、忘れていた何かに触れているような気がした。
「そういえば、お名前は?」
紗良が尋ねると、男は振り返らないまま答えた。
「いずれ知る」
「何ですか、それ」
「そなたは、知らぬ方がよい顔をしている」
意味の分からないことを言って、男はわずかに笑った。
その声を聞いた瞬間、紗良の足が止まった。
宇治川の霧の中で、自分を呼んだ声。
――紗良。
あの声に、少し似ていた。
「どうした」
男が振り返る。
月の光が、その目元を淡く照らした。
紗良はしばらく彼を見つめ、それから首を振った。
「……いいえ。何でもありません」
男はそれ以上尋ねなかった。
二人の間を、夜風が通り過ぎていく。
月は何も語らず、ただ千年の時を越えて、同じ光を二人の上に落としていた。




