物の怪なんて、いるわけ……いました
「そなた――この世の者ではないな」
男の言葉に、私は固まった。
何を言っているの、この人。
いや。
当たっている。
正確には、この世ではなく、この時代の人間ではない。
でも、そんなことを言えるはずがない。
「……失礼ですね」
私はできるだけ平静を装った。
「ちゃんと生きていますけど」
男の眉がわずかに動く。
「そういう意味ではない」
「じゃあ、どういう意味ですか?」
「そなたから感じる気が、この世のものとは異なると言っている」
また気。
物の怪の次は気ですか。
「人を勝手に死者みたいに言わないでもらえます?」
周囲の女房たちが息を呑んだ。
小夜が後ろから私の袖を引っ張る。
「紗良様……!」
「何?」
「そのお方は……」
「よい」
男が小夜を制した。
そして、もう一度私を見る。
「名は」
「さっき言いました。水城紗良です」
「水城……」
男は聞き慣れない音を確かめるように繰り返した。
「私は賀茂清景だ」
「賀茂……清景さん」
また部屋の空気が凍った。
何?
さん付け、駄目なの?
「陰陽寮におります、清景様でございます」
小夜が小声で教えてくれた。
「陰陽寮……」
知っている。
平安時代について詳しくなくても、それくらいは聞いたことがある。
陰陽師。
占い。
天文。
暦。
そして――怪異。
私は清景を見た。
「陰陽師?」
「そのように呼ぶ者もいる」
「本物の?」
「偽物がいるのか」
「現代にはいっぱい……」
言いかけて口を閉じた。
危ない。
「げんだい?」
「何でもありません」
清景の目が細くなる。
絶対に怪しまれている。
というより、最初から怪しまれている。
「それより!」
私は横たわる姫へ向き直った。
「この人です」
「姫様だ」
「分かりました。姫様」
額に触れる。
やはり熱い。
呼吸も速い。
「昨夜から発熱。咳も少し。朝からほとんど食べられていないそうです」
「はつねつ?」
「あ……身体に熱があるという意味です」
清景は私ではなく、姫を見た。
その表情が変わった。
「いつからこのような状態に?」
「ですから昨夜から――」
「そなたには聞いていない」
「私が聞いたんです」
「……。」
「……。」
なんだ、この人。
感じ悪い。
向こうも同じことを思っている顔をしている。
清景は姫の枕元へ座った。
目を閉じる。
何かを探るように、ゆっくり息を吐く。
「何してるんですか?」
「黙っていろ」
「はいはい」
私はもう一度姫の手首へ触れた。
脈は速い。
皮膚も乾いている。
「水を飲ませたいんですけど」
「ならぬ」
清景が目を閉じたまま言った。
「また?」
「今は動かすな」
「水分を取らない方が危険です」
「すいぶん?」
「水です」
「ならぬ」
「どうして!」
清景が目を開いた。
「いるからだ」
「何が?」
男は姫の背後を見つめた。
「物の怪が」
「…………。」
またそれ。
「だから、熱があるんですって」
「分かっている」
「分かってないでしょう」
「そなたこそ分かっていない」
清景が静かに言った。
「この姫は病んでいる」
「だったら――」
「だが、それだけではない」
私は口を閉じた。
「どういう意味ですか?」
「病により弱ったところへ、入り込んだものがいる」
「入り込んだ?」
「物の怪だ」
思わずため息が出た。
「本気で言ってます?」
「本気とは何だ」
「本当に、そんなものがいると思ってるんですか?」
清景は答えなかった。
代わりに私をじっと見た。
「そなたには見えぬのだな」
「見えません」
「ならば幸いだ」
「……何ですか、それ」
「見えぬ方がよいものもある」
そう言って、清景は立ち上がった。
「今宵、祓う」
女房たちが一斉に頭を下げた。
「清景様、どうか姫様を……」
「できる限りのことはする」
私は呆然とその光景を見ていた。
何なの。
病気の人を目の前にして、お祓い?
「待ってください」
清景が振り返る。
「何だ」
「それまで、この人はどうするんですか?」
「安静にさせておけ」
「それだけ?」
「何が言いたい」
「熱が高いんです。水分も取れてない。脱水になる」
「だっすい?」
「ああ、もう!」
医学用語が通じないって、こんなに大変なの?
私は姫のそばに置かれていた器を手に取った。
「水をください」
誰も動かない。
「お願い。少しずつでいいから」
年嵩の女房が清景を見る。
清景はしばらく私を見つめた後、小さく頷いた。
「この女の言う通りにせよ」
「え?」
今度は私が驚いた。
「いいんですか?」
「そなたは病について、我らより知っているらしい」
「まあ……多少は」
「ならば、そなたは身体を診ろ」
清景は姫を見る。
「私は、身体ではないものを診る」
その言葉に、私は少しだけ黙った。
変な人。
でも。
少なくとも、私の言うことを全部否定するわけではないらしい。
「分かりました」
私は頷いた。
「じゃあ、役割分担ということで」
「やくわり……?」
「そこは流してください」
◇
夜になった。
姫の熱はまだ高かった。
少量ずつ水分を取らせ、汗で湿った衣を替えてもらう。
できることは、それくらいしかない。
解熱剤もない。
点滴もない。
酸素もない。
採血もできない。
胸の音を聞く聴診器すらない。
自分が普段、どれだけ医療機器や薬に助けられて仕事をしていたのか、嫌というほど思い知らされる。
私は姫の呼吸を数えた。
少し速い。
でも昼間よりは落ち着いている。
「大丈夫ですよ」
意識があるのかどうか分からない姫に声をかける。
「ちゃんと、そばにいますから」
こういう時。
できることが何もなくても、患者さんのそばにいることはできる。
千年前でも、それだけは変わらないらしい。
「不思議なことをなさるのですね」
小夜が言った。
「何が?」
「姫様に、何度もお声をかけておられる」
「だって不安でしょう?」
「お眠りになっておられますのに?」
「聞こえているかもしれないから」
小夜は不思議そうに私を見た。
「紗良様のおられたところでは、皆、そのようになさるのですか?」
「みんなではないけど……」
答えかけて、言葉を止めた。
私のいたところ。
小夜は何気なく言っただけだ。
でも、その言葉が胸に刺さった。
私は、帰れるのだろうか。
スマートフォンはまだバッグの中にある。
充電は残り六十八パーセント。
なくなったら、もう充電できない。
あれが、私と現代をつないでいる唯一のものだった。
「……帰らなきゃ」
思わず呟いた。
「どちらへ?」
「ううん。何でもない」
その時。
部屋の灯りが揺れた。
「……風?」
違う。
戸は閉まっている。
もう一度、炎が揺れる。
すっと。
部屋の温度が下がった。
「寒……。」
鳥肌が立つ。
小夜の顔色が変わった。
「紗良様……」
「何?」
「お下がりください」
「どうして?」
答えはなかった。
代わりに。
姫が突然、息を吸い込んだ。
「姫様?」
身体が大きく反る。
「姫様!」
私はすぐにそばへ寄った。
「小夜、誰か呼んで!」
「はい!」
姫の手を握る。
冷たい。
さっきまで熱かったのに。
「何これ……。」
呼吸がおかしい。
「姫様、分かりますか?」
返事はない。
「姫様!」
その時。
耳元で、女の声がした。
――返して。
「え?」
振り返る。
誰もいない。
「小夜?」
小夜は部屋の入口にいる。
違う。
もっと近い。
すぐ耳元で聞こえた。
――返して。
「誰……?」
背中が冷たくなる。
姫の背後。
暗がりに。
何かがいた。
「……え?」
最初は影だと思った。
でも。
動いた。
長い黒髪。
女。
顔は見えない。
姫の枕元に、女が座っている。
「…………。」
息が止まった。
瞬きをする。
消えない。
もう一度瞬きをする。
いる。
「嘘……。」
女がゆっくり顔を上げた。
見ている。
私を。
「嘘でしょう……?」
後ずさる。
足が震える。
医学では説明できない。
幻覚?
私が?
違う。
小夜も同じ方向を見て震えている。
「紗良様……見えるのですか?」
「……見たくない」
声が震えた。
「全然、見たくない!」
女の影が立ち上がった。
こちらへ来る。
「ちょっと待って……。」
一歩下がる。
向こうが一歩近づく。
「私、こういうの専門外だから!」
もう一歩。
「清景さん!」
思わず叫んだ。
「いるんでしょう!?」
返事はない。
「陰陽師!」
影が迫る。
「こういう時こそ仕事してよ!」
「騒がしい女だ」
背後から声がした。
「遅い!」
振り返る。
清景が立っていた。
手には細長い紙のようなものを持っている。
「見えるようになったか」
「なりましたよ! 嬉しくないけど!」
清景は私の横を通り過ぎる。
「姫から離れろ」
「でも!」
「そなたの仕事は何だ」
言われて、私は姫を見る。
呼吸。
脈。
意識。
そうだ。
「……身体」
「そうだ」
清景は影を見る。
「そちらは私がやる」
私は姫のそばへ戻った。
怖い。
逃げたい。
ものすごく逃げたい。
でも。
目の前に具合の悪い人がいる。
なら。
やることは一つだ。
「姫様」
私は冷たくなった手を握った。
「大丈夫」
自分にも言い聞かせるように言った。
「私がここにいます」
背後で、風が巻き起こった。
灯りが激しく揺れる。
女の声。
清景の低い声。
聞いたことのない言葉。
怖くて振り返れない。
それでも私は、姫の手を離さなかった。
◇
どれくらい経ったのだろう。
突然。
部屋が静かになった。
恐る恐る振り返る。
女はいなかった。
清景だけが立っている。
「……終わった?」
「ああ」
「本当に?」
「ああ」
「もう出ない?」
「それは分からぬ」
「そこは『もう大丈夫だ』って言うところでしょう!」
「嘘を申してどうする」
「この人、本当に……。」
腹が立つ。
でも。
その瞬間、姫が小さく咳をした。
「姫様?」
額に触れる。
まだ熱はある。
でも。
「さっきより……。」
呼吸が落ち着いている。
私はほっと息を吐いた。
「よかった……。」
「病は残っている」
清景が言った。
「分かってます」
「ならば治せ」
「簡単に言わないでください。薬も何もないんだから」
「薬師を呼ぶ」
「それは助かります」
私は姫の手を布団の中へ戻した。
そして、ふと思う。
清景を見る。
「……本当にいたんですね」
「何が」
「物の怪」
「だから言った」
「もっと驚きません?」
「なぜ私が驚く」
「そうじゃなくて、私が」
「十分騒いでいた」
「初めて見たんだから仕方ないでしょう!」
清景はほんの少しだけ口元を緩めた。
「何ですか」
「いや」
「笑いました?」
「笑っていない」
「絶対笑った」
清景は答えず、部屋を出ようとした。
「待って」
足を止める。
「何だ」
「さっきの女……誰なんですか?」
清景の表情から笑みが消えた。
「分からぬ」
「分からない?」
「あれは、ただ姫に取り憑いただけの物の怪ではない」
胸がざわついた。
「どういう意味?」
清景は姫を見た。
「何かを探している」
「何を?」
「それが分かれば苦労はせぬ」
そして。
清景の視線が私へ移った。
「だが――」
「何?」
「あれは最後に、姫ではなくそなたを見ていた」
「…………。」
嫌な予感しかしない。
「どうして私を?」
「知らぬ」
「陰陽師でしょう?」
「陰陽師なら何でも知っていると思うな」
「使えない……。」
「何か申したか」
「何も」
清景はため息をついた。
そして、私の横を通り過ぎる時。
小さな声で言った。
「やはり、そなたが現れたことと無関係ではなさそうだな」
私は振り返った。
「どういう意味?」
清景は答えなかった。
廊下の闇へ消えていく。
私は一人、その背中を見送った。
平安時代に来て一日目。
帰る方法は分からない。
スマートフォンは圏外。
そして。
物の怪には、なぜか目をつけられたらしい。
「……嘘でしょう?」
どうやら私の京都一人旅は、とんでもない方向へ進み始めていた。




