目が覚めたら、そこは平安時代でした
水の音がする。
遠くで誰かが話している。
身体が重い。
頭も痛い。
私はゆっくりと目を開けた。
「……ここ、どこ?」
最初に見えたのは、天井だった。
木の天井。
白い病室の天井ではない。
ホテルでもない。
当然、自分の部屋でもない。
「気がつかれました!」
突然、女の声が響いた。
「え?」
顔を横へ向ける。
若い女性が二人、こちらを覗き込んでいた。
二人とも、見たことのない服を着ている。
長い髪。
白い顔。
重ねられた着物。
私は瞬きをした。
もう一度見る。
やっぱり同じだった。
「……撮影?」
二人が顔を見合わせた。
「さつ……?」
「え?」
今度は私が聞き返す。
身体を起こそうとした瞬間、頭がくらりとした。
「いた……。」
「まだ起きてはなりませぬ!」
慌てて肩を支えられる。
「ちょっと待って。私……。」
記憶を辿る。
宇治。
歴史博物館。
古い文。
夕暮れの宇治川。
霧。
そして――
『紗良』
男の声。
「宇治川!」
思わず叫んだ。
「私、川に落ちた!?」
若い女性たちがまた顔を見合わせた。
「宇治川……?」
「ここは宇治ですか?」
「うじ……?」
何、この会話。
言葉は通じている。
でも、微妙に噛み合わない。
「私のスマホは?」
「すま……ほ?」
「携帯です。電話。」
「でん……わ?」
嫌な予感がした。
「バッグ!」
私は辺りを見回した。
「私のバッグ、ありませんでした?」
「ばっぐ……?」
だめだ。
全滅だ。
「鞄! 荷物!」
「ああ。」
ようやく通じたらしい。
一人が部屋の隅を指した。
そこに、私のバッグが置いてあった。
「あった!」
私は布団から這い出した。
「お待ちください!」
「大丈夫です。」
「なりませぬ!」
「本当に大丈夫だから。」
看護師という職業のせいなのか、具合が悪い時ほど「大丈夫」と言ってしまう。
患者さんには絶対言わないのに。
バッグを引き寄せ、中を探る。
財布。
化粧ポーチ。
ハンカチ。
そして。
「スマホ……!」
あった。
電源ボタンを押す。
画面がついた。
よかった。
時刻を見る。
午後六時十二分。
日付も変わっていない。
圏外。
「やっぱり……。」
でもGPSくらいは。
地図を開こうとする。
読み込まない。
「最悪。」
顔を上げると、二人の女性が恐ろしいものでも見るような顔で私のスマートフォンを見つめていた。
「……光っております。」
「はい。」
「それは……何でございますか?」
「スマートフォン。」
「すまあと……?」
「……。」
私はスマートフォンを見る。
二人を見る。
もう一度スマートフォンを見る。
「いやいやいや。」
まさか。
そんなわけない。
私は立ち上がった。
「どちらへ!」
「外。」
「なりませぬ!」
「確認するだけです。」
襖のようなものを開ける。
そして。
固まった。
「……嘘でしょう?」
目の前には、長い廊下が続いていた。
木造の建物。
柱。
簾。
その向こうには庭。
電灯がない。
窓ガラスもない。
遠くに見える建物にも、現代のものが何一つない。
さらに向こうを、一人の男性が歩いている。
烏帽子。
長い装束。
「…………。」
私は静かに戸を閉めた。
二人の女性を見る。
「一つ聞いていいですか?」
「はい。」
「今、西暦何年ですか?」
「せい……れき?」
ですよね。
「じゃあ……。」
どう聞けばいい?
「今の帝は?」
二人の表情が変わった。
「そのようなことを軽々しく口になさってはなりませぬ。」
「あ、すみません。」
反射的に謝った。
でも。
帝。
本当にいるんだ。
いや、今だって天皇陛下はいらっしゃる。
そういう問題じゃない。
「ここ……京都ですよね?」
また二人が顔を見合わせる。
「京でございます。」
背中がぞくりとした。
京都ではない。
京。
頭の中で、あり得ない答えが形になっていく。
「……平安時代?」
「へいあん……?」
女性が首を傾げる。
当然だ。
今を生きている人が、自分の時代を後世の時代区分で呼ぶはずがない。
私はその場に座り込んだ。
「嘘でしょう……。」
今日、何回目だろう。
◇
どうやら私は、川の近くで倒れていたらしい。
この屋敷の牛車が通りかかり、連れて来られたという。
なぜ見ず知らずの私を助けてくれたのかは分からない。
ただ、少なくとも誘拐ではなさそうだ。
たぶん。
「落ち着こう。」
私は自分に言い聞かせた。
こういう時こそ情報収集。
急変対応と同じだ。
まず状況を把握する。
……急変対応とタイムスリップが同じかどうかは知らないけれど。
「あなたのお名前は?」
最初から私のそばにいた若い女性に尋ねた。
「小夜と申します。」
「小夜さん。」
「さん?」
「……小夜。」
呼び捨てに抵抗がある。
「私は水城紗良です。」
「みずき……さら。」
「はい。」
「不思議なお名でございますね。」
「そうかな……。」
たぶん、この時代ではそうなのだろう。
もう一人は千代というらしい。
二人とも、この屋敷に仕える女房だという。
「それで……。」
私は少し迷ってから聞いた。
「ここは、どなたのお屋敷なんですか?」
小夜が答えようとした、その時。
廊下の向こうが騒がしくなった。
「どうしたの?」
千代が立ち上がる。
女の悲鳴が聞こえた。
「姫様!」
二人が同時に部屋を飛び出した。
私は一瞬迷った。
関係ない。
ここが本当に平安時代なら、余計なことをしない方がいい。
そう思った。
でも。
「……姫様?」
嫌な予感がする。
結局、私は二人の後を追った。
◇
奥の部屋には、数人の女性が集まっていた。
その中心に、若い女性が横たわっている。
「姫様!」
「どなたか陰陽師様を!」
「物の怪でございます!」
「また物の怪が……!」
待って。
私は人の間から女性を見る。
顔が赤い。
呼吸が速い。
汗をかいている。
「ちょっと、どいてください。」
「え?」
「どいて。」
私は女性のそばへ膝をついた。
額に触れる。
「熱い……。」
かなりの熱がある。
手首に指を当てる。
脈も速い。
「いつから?」
「何がでございます?」
「熱です。」
「ねつ……。」
「身体が熱くなったのはいつから?」
周囲が困惑している。
「昨夜より、お加減が優れず……。」
「咳は?」
「少し。」
「食事は?」
「朝より、ほとんど何も。」
「水分は?」
「みず……?」
嫌な予感。
「水、飲ませてます?」
「姫様に、そのようなものを?」
「そのようなものって……。」
私は思わず額を押さえた。
文化が違う。
常識が違う。
でも、身体は同じだ。
「物の怪じゃないかもしれません。」
部屋が静まり返った。
「……何を。」
年嵩の女房が私を睨んだ。
「姫様は、物の怪に取り憑かれておられるのです。」
「でも、発熱してます。」
「もののけが熱を起こしているのでございます!」
「だから、まず身体の状態を……。」
「無礼な!」
ですよね。
分かってる。
分かってるけど。
目の前に具合の悪い人がいると、放っておけない。
「とにかく、水を。」
「なりませぬ!」
「なんで!」
思わず声が大きくなる。
その時。
「――何を騒いでいる。」
低い男の声がした。
部屋の空気が一変した。
女房たちが一斉に頭を下げる。
私は振り返った。
一人の男が立っていた。
年は、私と同じくらいだろうか。
黒い装束。
長い髪を後ろで束ねている。
華やかな公達とは、明らかに雰囲気が違う。
鋭い目。
その視線が、真っ直ぐ私に向けられた。
「……誰だ。」
「水城紗良です。」
反射的に答える。
男の眉がわずかに動いた。
そして。
私を頭の先から足元まで、じっと見る。
「何ですか?」
気分が悪い。
「人をそんなにじろじろ見るの、失礼じゃないですか?」
周囲から息を呑む音がした。
男は怒るでもなく、私を見つめ続けた。
やがて、静かに口を開く。
「そなた。」
「はい?」
「どこから来た。」
心臓が跳ねた。
「……どういう意味ですか?」
男の目が細くなる。
「誤魔化すな。」
一歩、近づいてくる。
「そなたからは、この世の気がしない。」
「…………。」
背筋が冷たくなった。
男は私の目を真っ直ぐ見た。
「そなた――」
静かな声が落ちる。
「この世の者ではないな。」
私は言葉を失った。
平安時代へ来て、まだ半日も経っていない。
なのに。
どうやら私は早くも、とんでもなく面倒な人に見つかってしまったらしい。




