千年前の恋文
千年の時を経て、宇治の歴史博物館には一通の文が残されていた。
色褪せた紙に、途切れかけた墨で記された、たった一行。
――来世にて、今一度、そなたを見つけよう。
作者不詳。
宛名も失われ、誰が誰を思って書いたものかは分かっていない。
けれど、その文を書いた男の名は、雅継。
平安の都で、誰もが頭を垂れた最高権力者だった。
そして、彼がもう一度見つけると誓った女の名は、紗良。
この時の彼女は、まだ知らない。
翌日、自分が千年前の都へ迷い込み、この文を書いた男と出会うことを。
いつか彼を愛し、愛したからこそ、その手を離す日が来ることを。
◇
「……嘘でしょう?」
スマートフォンの画面を見つめたまま、水城紗良は動けなくなった。
ベッドの上には、翌日からの京都旅行に備えた着替えや化粧品が並んでいる。その中央で、学生時代からの友人から届いたメッセージが光っていた。
『ごめん。コロナ陽性だった。本当にごめんね』
よりによって、出発の前日に。
紗良は三十歳。都内の病院に勤める看護師で、独身。
夜勤続きの勤務表を乗り越え、ようやく取れた三連休だった。新幹線もホテルも予約してある。
何より、紅葉の京都を楽しみにしていた。
『キャンセル料もかかるでしょう? 紗良、一人で行ってきて』
「簡単に言うな……」
スマートフォンを握ったまま、紗良はベッドへ倒れ込んだ。
三十歳、独身女の京都一人旅。
傷心旅行なら、まだ物語になる。
残念ながら、傷つくような恋愛すら最近していない。
最後に誰かを本気で好きになったのは、いつだっただろう。
思い出そうとして、やめた。
今さら考えたところで、新幹線とホテルのキャンセル料が安くなるわけではない。
「……行くか」
口に出すと、少しだけ気が楽になった。
誰かに合わせなくていい。一人なら、好きな場所に好きなだけいられる。疲れたらホテルへ戻ればいい。
「むしろ、楽かもしれない」
そうして翌朝、紗良は一人で京都行きの新幹線に乗った。
◇
一人旅は、思っていたより快適だった。
お土産を選ぶのに時間をかけてもいい。昼食を遅らせても、急に予定を変えても、誰にも気を遣わなくて済む。
日頃、一日中誰かに呼ばれている紗良には、誰とも話さずに歩く時間が心地よかった。
京都に着いた翌日、紗良は電車で宇治へ向かった。
今回の旅行で、最も楽しみにしていた場所だった。
昔から平安時代が好きだった。
御簾、香、十二単、月夜に届けられる恋文。
今なら数秒で送れる言葉を、紙と香と歌に託し、返事が届くまで何日も待つ。
その不便さが、紗良にはかえって美しく思えた。
もっとも、自分が同じ暮らしをしたいとは思わない。
「既読がつかないだけで気になる私には、絶対に無理」
電車の窓に映った自分へ言って、紗良は笑った。
その時は、本気でそう思っていた。
◇
秋の宇治川は、思っていたより広かった。
冷たい風が水面を渡り、紅葉した木々を揺らしている。観光客の姿は多いのに、川の流れる音は不思議とはっきり聞こえた。
橋の上からしばらく川を眺めたあと、紗良は平安時代の歴史や暮らしを紹介する博物館へ入った。
復元された十二単。
貴族の邸宅。
女房たちが使った調度品。
展示を一つずつ見て回り、最後の部屋へ入った時には、閉館時刻が近づいていた。
展示室の奥に、古びた一通の文があった。
華やかなものではない。
紙は色褪せ、墨もところどころ消えている。隣には簡素な説明が添えられていた。
『平安中期 作者不詳』
『宇治川周辺に伝来した文書の一部。詳細は不明』
「作者不詳……」
何が気になったのか、自分でも分からなかった。
隣の展示へ移ろうとしたのに、足が動かない。
紗良はもう一度、ガラスケースの中を見た。
崩し字など読めるはずがない。
それなのに、一か所だけ、薄い墨の線が文字になって目へ飛び込んできた。
――来世にて。
「……え?」
思わず顔を近づける。
その先にも、消えかけた文字が続いていた。
――今一度。
読めたのは、そこまでだった。
「来世にて、今一度……?」
誰が、誰に書いたのだろう。
恋文なのか。
それとも、もう会えない相手へ残した別れの文なのか。
急に息が詰まった。
頬を伝ったものに気づき、紗良は慌てて指で拭った。
「何で……」
知らない人が、千年ほど前に書いた文だ。
全文すら読めない。
泣く理由など、どこにもない。
「夜勤のしすぎかな」
小さく笑ってみたが、胸を締めつける痛みは消えなかった。
悲しいというより、懐かしかった。
ずっと待っていた言葉を、ようやく見つけたような。
「そんなわけ、ないでしょう」
紗良は自分へ言い聞かせ、文の前を離れた。
それでも展示室を出る直前、もう一度だけ振り返った。
ガラスの向こうに残された一通の文が、誰かを待ち続けているように見えた。
◇
博物館を出ると、すでに日は傾いていた。
昼間は観光客で賑わっていた川沿いも、人影が少なくなっている。
「見すぎた……」
ホテルへ戻ろうとスマートフォンの地図を開く。
ところが、しばらく歩いてから、駅とは反対方向へ進んでいることに気づいた。
「こっちじゃない」
足を止めた時、川の向こうから冷たい風が吹いた。
その風に、甘い香りが混じっている。
香水ではない。
木や花を焚きしめたような、深く落ち着いた香りだった。
博物館で再現されていた薫物に似ている。
けれど紗良は、その香りをもっと近くで知っている気がした。
「どこで……?」
宇治川の上に、白い霧が立ち始めていた。
先ほどまで見えていた対岸が、みるみるうちに霞んでいく。
スマートフォンを見る。
圏外になっていた。
「京都の宇治で?」
画面を見ているうちに、周囲の音まで消えていることに気づいた。
車の音。
人の話し声。
遠くを走る電車の音。
何も聞こえない。
残っているのは、川の流れる音だけだった。
紗良はスマートフォンを握りしめた。
ここから離れた方がいい。
そう思って振り返った時。
「――紗良」
霧の向こうから、男の声がした。
低く、落ち着いた声だった。
聞いたことなどない。
それなのに、その声に名を呼ばれたことがある。
紗良は、そう思った。
「誰……?」
白い霧の中に、人影が立っていた。
背の高い男だった。
顔は見えない。
ただ、こちらへ片手を伸ばしている。
「私を知っているんですか?」
返事はなかった。
人影が、一歩遠ざかったように見える。
「待って」
紗良は無意識に足を踏み出した。
もう一歩。
男へ近づこうとした瞬間、足元の感覚が消えた。
「え……?」
身体が傾く。
伸ばした手は何にも届かない。
視界いっぱいに、白い霧が広がった。
「ちょっと、嘘でしょう――!」
声は宇治川の水音に飲み込まれた。
最後に見えたのは、霧の向こうからこちらへ手を伸ばす男の姿だった。
触れられそうで、触れられない指先。
その手を、紗良は遠い昔にも離したことがあるような気がした。




