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京都で見つけた千年前の恋文――それを書いたのは、これから私が恋をする関白さまでした  作者: EMo


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届かなくても、返事を


「――待っているのに」


暗闇の中で、声がした。


男とも女ともつかない。


遠くから聞こえるようでいて、すぐ耳元にいるようでもある。


萩が小さく悲鳴を上げ、紗良の腕へ縋りついた。


「来た……」


その指は冷たく、震えている。


「また、来た……」


「萩、私を見て」


紗良は両手で萩の肩を支えた。


「ここにいます。息を吐いて。ゆっくり」


「返事をしなければ」


萩の呼吸が、どんどん速くなる。


「返事をしなければ、あの子は――」


「あの子?」


萩は答えない。


御簾の向こうで、衣を引きずる音が近づいてくる。


清景が札を掲げた。


「姿を現せ」


低い声が闇を裂く。


札の先に、青白い火が灯った。


小さな炎が部屋を照らす。


御簾の向こうには、誰もいない。


けれど、白い紙の上には、先ほどまでなかった文字が残っている。


――なぜ、返さぬ。


紗良には読めない。


それでも、黒い線が生き物のように濡れ、僅かに蠢いているのは分かった。


「清景、あれは何?」


「まだ分からぬ」


「それ、本当に便利な言葉ね」


「分からぬものを、分かったふりで語るなと、そなたも申していただろう」


確かにそうだった。


「今は言い返してる場合じゃないでしょう」


「ならば黙っていろ」


清景は紙へ近づき、札を一枚重ねた。


青白い炎が揺れる。


次の瞬間、見えない何かに弾かれたように、札が宙へ舞った。


清景が僅かに顔をしかめる。


「祓えないの?」


「祓うべきものか、まだ定かではない」


「どういう意味?」


「これは、外から入り込んだ物の怪とは違う」


清景は萩へ視線を向けた。


「この女が、ここへつなぎ止めている」


萩が大きく首を振った。


「違います」


「何が違う」


「わたくしは、呼んでなどおりませぬ」


「ならば、なぜ七夜も文を受け取った」


「分かりません」


「誰からの文だ」


「申し上げられません」


「話さなければ分からぬ」


清景の声は容赦がない。


萩は唇を噛み、顔を背けた。


「ちょっと」


紗良は清景を睨んだ。


「そんな言い方をしたら、余計に話せなくなるでしょう」


「隠し事をしたままでは、術の施しようがない」


「分かってる。でも、怖がっている人を追い詰めないで」


「では、そなたが聞け」


「今は話したくないと言ってるでしょう」


「ならば、このまま朝まで待つのか」


「待つことが必要な時もあるの」


「それで手遅れになれば、どうする」


紗良は言葉に詰まった。


清景の言い方は冷たい。


だが、間違っているとも言い切れない。


患者が話せるまで待ちたいと思っても、身体の状態によっては待てないことがある。


聞かなければ命に関わる情報もある。


待つことと、何もしないことは違う。


「萩」


紗良は声を落とした。


「全部を話さなくていい。今、あれをどうしてほしいのかだけ教えて」


萩は紙を見つめた。


「消して、ほしいのです」


「本当に?」


肩が震える。


「分かりません……」


萩の目から涙がこぼれた。


「消えてほしい。けれど、消えてしまえば、もう二度と……」


その言葉で、紗良はようやく分かった。


萩は、ただ恐れているのではない。


あの文を待っている。


届くたびに怯えながら、それでも七日間、捨てることができなかった。


「会いたい人なの?」


萩は顔を伏せた。


長い沈黙のあと、小さく答える。


「妹です」


女房たちの間に、微かなざわめきが起きた。


清景は黙っている。


「妹さんは、どこにいるの?」


紗良が尋ねる。


「もう、この世にはおりません」


甘く濡れた花の香りが、また濃くなった。


青白い火が激しく揺れる。


「三年前の春、妹は夫と共に、遠い東の国へ下りました」


萩は途切れ途切れに話し始めた。


「幼い頃より、何をするにも一緒でした。父も母も早くに亡くなり、わたくしたちには互いしかおりませんでした」


「離れるのが、寂しかったのね」


「寂しいなどと……言いませんでした」


萩の指が、自分の衣を強く握る。


「妹は、共に来てほしいと申しました。けれど、わたくしには、この邸での役目がございました。ここを離れることなど、できなかった」


「それで、妹さんは一人で?」


「はい」


妹は東の国へ下ってから、何通も文を寄こしたという。


道中で見た山のこと。


新しい家のこと。


慣れない土地で心細いこと。


姉の身を案じる言葉。


そして、最後には必ず同じ言葉が記されていた。


――返りごとを、お待ちしております。


「返事をしなかったの?」


紗良が尋ねると、萩は目を閉じた。


「初めの文へは、すぐに返しました。次の文にも」


「では、どうして」


「妹が、楽しげに暮らしているように思えたのです」


声が震える。


「わたくしを一人残したのに。共に生きようと申していたのに、自分だけ新しい場所で、新しい家族を得たのだと」


「腹が立ったのね」


萩が目を開けた。


責められると思っていたのかもしれない。


紗良は責めなかった。


置いていかれた寂しさが、怒りに変わることはある。


本当は会いたいのに、相手も同じように苦しんでほしいと願ってしまうこともある。


人の気持ちは、いつも美しい形ばかりではない。


「はい」


萩は初めて、はっきりと認めた。


「腹が立ちました。寂しかった。わたくしがいなくてもよいのなら、もう文など寄こさなければよいと思いました」


それから届いた文に、萩は返事を書かなかった。


次の文にも。


その次にも。


それでも妹からの文は届き続けた。


やがて、その便りが途絶えた。


「夏の終わりに、知らせが参りました」


萩の声が掠れる。


「妹は病で亡くなったと」


部屋の誰も、言葉を発しなかった。


「最後の文には、何と?」


萩は首を振った。


「読んでおりません」


「どうして?」


「怖かったのです」


あれから三年。


妹から最後に届いた文を、萩は箱へしまったまま、一度も開けていなかった。


見ることもできず、捨てることもできず、邸の東にある古い倉へ隠した。


「では、あの文は、倉にあるの?」


「あるはずでした」


萩は白い紙を見る。


「入内のための品を整えることとなり、七日前に倉を開けました。その夜から、白い文が届くようになったのです」


「入内の品と一緒に、箱が動かされたんだ」


「誰かが開けたのかもしれません。けれど、確かめることができませんでした」


「この香りは?」


清景が尋ねた。


「妹が好んでいた梅花の香にございます」


清景は白い紙へ手をかざした。


「この紙そのものが、妹の魂とは限らぬ」


「では、何なのですか」


小夜が尋ねる。


「萩の悔いと、開かれぬ文に残った思い。それらが長い時を経て、形を得たのかもしれぬ」


「かもしれぬ、なのね」


紗良が言うと、清景が睨んだ。


「物の怪には、人と同じ名札がついているわけではない」


「分かってる。確認しただけ」


紗良は萩の前へ座った。


「最後の文を、読んでみませんか」


萩が怯えたように後ずさる。


「できません」


「うん」


「妹がわたくしを恨んでいたら」


「恨んでいたかもしれない」


小夜と千代が紗良を見る。


萩も目を見開いた。


優しい嘘を言うことはできた。


妹はきっと恨んでいない。


あなたを許している。


けれど、会ったこともない人の心を、紗良が勝手に決めることはできない。


「怒っていたかもしれないし、寂しかったかもしれない。どうして返事をくれないのって、泣いていたかもしれない」


萩の頬を涙が伝う。


「でも、読まなければ、ずっと分からないままです」


「分からないままでも、よいのです」


「本当に?」


萩は答えなかった。


御簾の向こうから、また衣の擦れる音がした。


――待っているのに。


今度は、はっきりと女の声だった。


若い声。


怒っているようにも、泣いているようにも聞こえる。


萩は両手で顔を覆った。


「ごめんなさい……」


清景が立ち上がる。


「倉へ行く」


「今から?」


「元の文を確かめる。あれを置いたままでは、白い文をいくら祓っても同じことだ」


「私も行く」


「ならぬ」


「どうして」


「そなたは姫付きの女房だ。夜間、一人で出歩くことを禁じられている」


「一人じゃないでしょう。清景と一緒だから」


「私がそなたのお守りをする理由はない」


「でも、萩を一人で連れていくつもり?」


清景が黙る。


「今、萩を一人にするのはよくない。私も行きます」


「雅継さまの仰せに背くことになります」


小夜が心配そうに言う。


「夜に一人で歩くなと言われただけ。今日は団体行動です」


「その言い分が雅継さまに通じるとは思えません」


「その時は、その時」


紗良は立ち上がった。


今度は裾を踏まなかった。


東の倉は、邸の華やかな場所から離れたところにあった。


清景を先頭に、紗良と萩、小夜、千代が続く。


年嵩の女房たちは来なかった。


夜気は冷たく、庭の草が風に揺れている。


月は雲に隠れ、灯りの届かない先は深い闇だった。


倉の戸を開けると、古い木と香の匂いが流れ出した。


入内の準備で動かされた箱が、いくつも積まれている。


萩は、その奥にある小さな文箱を見つけた。


「これです」


箱の蓋へ手を伸ばす。


震えが止まらない。


紗良は隣に座った。


「私が開けようか」


萩は首を振った。


「わたくしが、開けます」


何度も息を吐き、萩は自分の手で蓋を開けた。


中には、一通の文が残されていた。


紙は少し変色している。


それでも、焚きしめられた梅花の香は消えていなかった。


萩は文を取り出した。


けれど、開くことができない。


「紗良さま」


「うん」


「そばに、いてくださいませ」


「いるよ」


紗良は、それ以上何も言わなかった。


萩の指が、ゆっくり文を開く。


流れるような文字が現れた。


萩の目から涙が落ち、紙の上へ小さな染みを作った。


「何て書いてあるの?」


紗良が尋ねる。


萩は何度か声を出そうとした。


それでも言葉にならず、ただ首を振る。


しばらくして、ようやく一節を読み上げた。


「姉上が、今もお怒りであっても……わたくしは、姉上を恋しく思っております」


声が途切れる。


「新しい土地で楽しく暮らしていると書けば、姉上が安心してくださると思っていた。けれど本当は、心細くてならない」


萩は文を胸へ抱いた。


「帰りたい。姉上に会いたい、と……」


倉の中を、風が通り抜けた。


閉じていたはずの戸が僅かに揺れる。


梅花の香りが広がった。


清景が札へ手を伸ばす。


紗良はその腕を押さえた。


「待って」


「何をする」


「今は、まだ」


白い文が、萩の前へひらりと落ちてきた。


誰も持ってきていない。


真っ白だった紙に、黒い文字が浮かぶ。


――なぜ、返さぬ。


萩は涙を拭い、近くに置かれていた筆を取った。


しかし、手の震えでうまく持てない。


紗良がその手を支える。


「きれいに書かなくてもいい」


「けれど、返りごとは、歌を添えて――」


「今は、上手な歌じゃなくていいんじゃない?」


「何と書けばよいのでしょう」


「萩が、本当に伝えたいことを」


長い間、萩は白い紙を見つめた。


やがて、震える筆先が動き始める。


寂しかった。


置いていかれたと思った。


腹が立って、返事をしなかった。


本当は、毎日文を待っていた。


もう一度会いたかった。


ごめんなさい。


萩は、飾らない言葉を一つずつ書いた。


最後に、涙をこらえながら記す。


――わたくしも、あなたを恋しく思っております。


筆を置いた瞬間、倉の灯りが消えた。


暗闇の中で、小夜と千代が息を呑む。


清景の札が青白く光る。


萩の返事が、誰の手も触れていないのに宙へ浮かんだ。


紙の端から、小さな火がつく。


「燃えてる!」


紗良が声を上げる。


「触るな」


清景が制した。


炎は紙だけを静かに包み、萩の指にも、床にも燃え移らない。


黒い灰が、花びらのように舞う。


そして、あの声が聞こえた。


「――遅いわ」


萩が顔を上げる。


声には、ほんの僅かに笑いが混じっていた。


「ごめんなさい」


萩が答える。


「本当に……ごめんなさい」


返事はなかった。


ただ、甘く濡れていた梅花の香りが、春の日差しのように柔らかく変わった。


やがて、それも夜気の中へ消えていった。


清景の札から光が消える。


「終わったの?」


紗良が尋ねる。


「分からぬ」


「こういう時くらい、終わったと言ってよ」


「確かめようのないことは言えぬ」


相変わらずだった。


けれど、萩の顔からは、七日間まとわりついていた怯えが消えていた。


「今夜は、眠れそう?」


紗良が尋ねる。


萩は涙を拭い、頷いた。


「はい」


清景が倉の外へ出る。


紗良もあとを追った。


「結局、物の怪だったの?」


並んで歩きながら尋ねる。


「妹の魂そのものだったのか、萩の悔いが声を得たのか、それは私にも分からぬ」


「でも、返事を待っていた」


「ああ」


「亡くなったあとでも?」


清景は空を見上げた。


雲の切れ間から、月が現れている。


「文とは、届いた時ではなく、読まれた時に初めて届くものなのかもしれぬ」


紗良は清景を見た。


「今、ちょっといいこと言ったでしょう」


「気のせいだ」


「照れてる?」


「置いていくぞ」


清景は歩く速度を上げた。


「待って。まだ一人で道が分からないの!」


「団体行動ではなかったのか」


「小夜たちは萩と一緒でしょう!」


「ならば、そこで待っていろ」


「ちょっと、清景!」


その夜、部屋へ戻った紗良は、スマートフォンを取り出した。


電源を入れる。


充電は、四十九パーセント。


友人との最後のやり取りを開いた。


コロナ陽性を知らせる言葉。


何度も謝る友人へ、紗良はこう返していた。


――気にしないで。せっかくだから、一人で行ってくる。


そのあと、友人から届いた最後のメッセージ。


――本当にごめんね。京都に着いたら連絡して。気をつけてね。


紗良は返事をしていなかった。


宇治へ着き、博物館に入り、古い文を見て、霧の中で名前を呼ばれた。


それから、すべてが変わった。


紗良は文字を打った。


――京都には着いたよ。心配しないで。


送信する。


画面に、小さな表示が出る。


送信できませんでした。


分かっていた。


電波など届くはずがない。


それでも紗良は、送れなかった文を消さなかった。


「返事ができなくて、ごめん」


暗くなった画面へ、小さく呟く。


待っている人がいる。


家族も、友人も。


紗良がどこにいるのか分からないまま、今も探しているかもしれない。


萩だけではない。


自分もまた、大切な人を待たせている。


平安の夜は静かだった。


遠い未来へ続く月明かりの中で、送れない返事だけが、紗良の手のひらに残っていた。


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