忘れていくもの、残るもの
宇治川から戻った翌朝、紗良は自分の部屋にいた。
見慣れた天井。
窓の外を走る車の音。
枕元には、充電器につながれたスマートフォンが置かれている。
何もかもが、元のままだった。
けれど紗良だけが、元の自分には戻れなかった。
起き上がり、恐る恐る左肩へ触れる。
矢が刺さった場所。
深く傷つき、腕を動かすたびに痛んだはずの肩には、傷痕一つ残っていなかった。
鏡の前に立ち、衣服をずらして確かめる。
白い肌があるだけだった。
紗良は左腕を上げてみた。
引きつる感じもない。
痛みもない。
それなのに、雅継が心配そうに傷を見つめていた顔だけは、はっきりと思い出せた。
――そなたの大丈夫は、信用ならぬ。
声まで耳元によみがえる。
紗良は鏡の前で、左肩を抱いた。
「いましたよね」
問いかけても、答える人はいない。
「雅継さまは、本当にいましたよね」
*
現代へ戻ってから、紗良は一つずつ連絡を取った。
連絡の途絶えていた“コロナ友だち”とも、ようやく話すことができた。
画面の向こうから聞こえる声は、以前と変わらなかった。
心配したのだと言われ、紗良は何度も謝った。
どこにいたのかと尋ねられても、うまく答えられなかった。
「少し、遠いところに行っていたの」
そう答えるのが精いっぱいだった。
遠いどころではない。
千年も前の宇治にいた。
そこで一人の男と出会い、愛し、二度と会えないかもしれない別れをしてきた。
話したところで、信じてもらえるとは思えなかった。
何より、口に出した途端、雅継と過ごした日々が作り話へ変わってしまいそうで怖かった。
*
紗良は病院にも戻った。
白い廊下。
消毒液の匂い。
呼び出しの音。
足早に行き交う人々。
すべてが、以前と変わらない。
身体は自然に動いた。
必要なものへ手を伸ばし、声をかけ、相手の表情を確かめる。
長く続けてきた仕事を、身体は忘れていなかった。
けれど、心だけが追いつかなかった。
時計を見て動き、次の仕事へ向かい、目の前の一日を終える。
それを繰り返していれば、いつか元の自分へ戻れるのかもしれない。
そう思う一方で、元の自分へ戻ってはいけないような気もした。
雅継は、紗良に生きよと言った。
ただ以前と同じ生活へ戻れという意味ではなかったはずだ。
何日か考えたあと、紗良は退職願を出した。
差し出した紙を見た上司は、驚いた顔で紗良を見た。
「急に、どうしたの」
「少し、時間が必要なんです」
「辞めなくても、休む方法はあるでしょう」
そう言って引き止められた。
紗良自身、長い間続けてきた仕事を手放してよいのか、迷いがなかったわけではない。
けれど、今の自分に必要なのは、元の生活へ戻るための休みではなかった。
これから、どのように生きるのか。
それを一度、自分で選び直す時間だった。
「戻るためではなく、先へ進むために考えたいんです」
すべてを説明することはできなかった。
それでも、紗良の意志が変わらないと分かると、上司は最後には受け取ってくれた。
部屋を出たあと、胸に寂しさが広がった。
病院で過ごした時間まで否定したかったわけではない。
ここで出会った人も、学んだことも、紗良の中に残っている。
それでも、今は立ち止まる必要があった。
雅継のいない時代で、自分の足でもう一度歩き始めるために。
*
日が過ぎるにつれて、紗良は別の恐怖を覚えるようになった。
記憶が、少しずつ薄れていく。
雅継が身につけていた香り。
衣に触れた時の感触。
宇治の別邸へ差し込んでいた朝の光。
清景の呆れたような顔。
二の宮の不機嫌そうな声。
思い出そうとすれば、まだ浮かぶ。
けれど以前より、形が曖昧になっていた。
何より怖かったのは、雅継の顔だった。
目を閉じれば会えるはずなのに、細かな輪郭が少しずつぼやけていく。
目元は思い出せる。
声も分かる。
けれど、すべてを一つの顔として結ぼうとすると、霞がかかったように遠ざかる。
「忘れたくない」
紗良は何度も記憶をたどった。
初めて会った時の顔。
紗良を問い詰めた時の目。
嫉妬を隠そうともしなかった横顔。
最後に「行け」と告げた、満月の下の姿。
忘れるはずなどないと思っていた。
けれど、人の記憶はどれほど強く願っても、同じ形では残らない。
紗良は、覚えている限りのことを書き始めた。
雅継の言葉。
清景や二の宮と交わした会話。
池の女と、その腕に宿った白い光。
吉野の桜を見る約束。
宇治川で、最後まで離れなかった手。
書くたびに泣いた。
それでも、書くことをやめなかった。
この記憶だけは、なかったことにさせたくなかった。
*
しばらくして、紗良は宇治へ向かった。
元の生活から逃げるためではない。
自分に起きたことを、もう一度ゆっくりと受け止めるためだった。
宇治川は、あの満月の夜と変わらず流れていた。
昼間の川辺には人が行き交い、遠くから楽しそうな声が聞こえる。
それでも水の流れる音に耳を澄ませれば、千年前の夜と同じだった。
紗良は川のほとりに座り、長い間、その音を聞いた。
目を閉じる。
――私のいない時でも、生きよ。
今も、雅継の声を思い出すことができた。
「生きていますよ」
川へ向かって答える。
「まだ、うまくはできていませんけれど」
風が髪を揺らした。
その風の中に、雅継のいた春の匂いが混じったような気がした。
*
それから紗良は、何度も博物館へ通った。
初めは、あの文を見ることしかできなかった。
――来世にて、今一度、そなたを見つけよう。
透明な展示ケースの中に置かれた、千年前の約束。
その前に立つたび、涙がこぼれた。
けれど何度か通ううちに、ほかの展示にも目を向けられるようになった。
当時の衣。
人々が使っていた道具。
都と宇治を結ぶ道。
貴族たちが残した文。
歴史の説明の中に、紗良が知る人々の名はほとんどなかった。
雅継の人生も、清景の言葉も、二の宮の笑顔も、わずかな記録の向こうへ消えている。
それでも、彼らは確かに生きていた。
教科書の中の時代ではない。
笑い、迷い、誰かを愛し、失うことを恐れながら生きていた。
紗良は一つ一つの展示を、急がずに見て回った。
分からないことがあれば調べ、また川へ戻って考えた。
宇治川の音を聞き、博物館へ通う。
そんな日々を繰り返すうちに、千年前の出来事は、ただ失った恋ではなくなっていった。
雅継に出会う前の自分と、別れたあとの自分をつなぐ、大切な時間になり始めていた。
*
博物館へ通ううちに、紗良は一人の男を何度か見かけるようになった。
いつも一人で来るわけではなかった。
博物館の職員らしい者がそばに立ち、展示について説明していることもある。
男は相手の話を黙って聞いていた。
けれど一度口を開けば、周囲の者はすぐに手元の資料へ何かを書き留める。
声を荒らげることも、人を急かすこともない。
それでも、男が立つ場所だけ空気が変わる。
誰かの上に立ち、命じることに慣れている人なのだと、遠くからでも分かった。
関白として人々の中心に立っていた雅継も、同じような空気をまとっていた。
そう思った瞬間、紗良は自分で打ち消した。
似ているわけではない。
雅継の顔さえ、もうはっきりと思い出せなくなっている。
寂しさが、誰かの中に面影を探させているだけだ。
男は古い地図の前にいる日もあれば、宇治に残された文を熱心に読んでいる日もあった。
あの一行が展示された場所にも、何度か立っていた。
ある時、職員が男へ「藤原様」と呼びかけるのが聞こえた。
その名に、紗良の胸がかすかに痛んだ。
けれど男は、紗良に気づいている様子もなく、職員と共に展示室を出ていった。
*
ある日の午後、紗良は再び、あの文の前に立っていた。
――来世にて、今一度、そなたを見つけよう。
今日は泣かずに読むことができた。
それが少しうれしくて、少し寂しかった。
涙を流さなくなることまで、忘れていくことのように思えた。
「その文を、よくご覧になっていますね」
背後から、低い声がした。
紗良の胸が大きく鳴った。
何度も聞いたはずの声。
けれど、誰のものだったのか、すぐには思い出せない。
振り向くのが怖かった。
もし、まったく知らない人だったら。
もし、期待した自分だけが取り残されたら。
紗良は、ゆっくりと振り返った。
そこには、博物館で何度か見かけた男が立っていた。
今日は職員を連れていない。
男は紗良を見たまま、なぜか驚いたように動かなかった。
紗良も、息をすることさえ忘れていた。
知らない顔のはずだった。
少なくとも、この時代では一度も話したことがない。
それなのに、その目を知っている。
何かを言い返せば、わずかに眉を動かすことも。
大切なものを決して逃がすまいと、まっすぐ見つめることも。
「失礼」
先に目をそらしたのは、男だった。
「急に声をかけるつもりはなかったのですが」
現代の言葉だった。
丁寧で、雅継の話し方とは違う。
それでも、声の奥にある響きが胸へ残った。
「この文がお好きなのですか」
紗良は展示ケースへ目を戻した。
「好き、という言葉では足りないかもしれません」
「では、この文を書いた人物に興味がある?」
「……はい」
「誰に宛てたものか、分かっていない文です」
「分かっています」
「それでも?」
紗良は、古びた一行を見つめた。
「私には、届いたので」
男の表情が変わった。
「届いた?」
「すみません。変なことを言いました」
その場を離れようとすると、男が半歩、紗良の前へ出た。
道を塞ぐほどではない。
けれど、行かせるつもりもないのだと伝わる立ち方だった。
「お名前を伺っても?」
紗良は男を見上げた。
初めて会ったはずなのに、名を告げれば何かが変わってしまうような気がした。
「水城紗良です」
男の目が大きく見開かれた。
「紗良」
考えるより先に、その名を呼んでしまったようだった。
紗良の胸を、鋭い痛みが貫いた。
千年前、何度も同じように名を呼ばれた。
けれど、目の前の男はその理由を知らない。
男自身も、なぜ初めて聞いた名を懐かしく感じるのか分からないようだった。
「申し訳ありません」
男はわずかに眉を寄せた。
「初対面の方を、呼び捨てにするつもりはなかった」
「いいえ」
紗良は首を横に振った。
「その呼び方を、知っている気がしただけです」
二人の間に沈黙が落ちる。
男は紗良を見つめたまま、静かに名乗った。
「藤原雅臣です」
雅臣。
雅継ではない。
けれど、一文字を残したその名が、千年の時をつなぐように響いた。
「雅臣……さん」
紗良が呼ぶと、男の目がわずかに揺れた。
その呼び方に、何かが足りないと感じたように。
「やはり」
雅臣が呟く。
「あなたとは、以前どこかで会っている気がする」
紗良は答えられなかった。
これは再会なのか。
それとも、失った人に似た誰かと出会っただけなのか。
まだ、分からない。
千年前に交わした約束は、すぐには記憶を戻さなかった。
ただ、二人をもう一度、同じ文の前へ導いた。




