来世にて、今一度
冷たい風が、紗良の頬を打った。
白い光が消える。
次に目を開けた時、紗良は宇治川のほとりに立っていた。
水の流れる音は変わらない。
けれど川の向こうには、見慣れた灯りが並んでいる。
遠くから、車の走る音が聞こえた。
夜の空気に、かすかな機械の音が混じっている。
千年後の宇治だった。
「雅継さま」
紗良は振り返った。
そこに雅継の姿はない。
清景もいない。
満月に照らされた川辺には、紗良一人だけが立っていた。
「雅継さま!」
声を上げても、返事はなかった。
水面に映る月は一つだけだ。
手を伸ばしても、白い光はもう現れない。
紗良は川辺に膝をついた。
胸の前で握った手には、まだ雅継の温かさが残っている。
最後まで重なっていた指先。
離すまいと握りしめた手。
そして、自らその手を離した雅継の顔。
――行け、紗良。
「行きたくなかったです」
涙が次々とこぼれた。
「本当は、帰りたくなかった」
川の音が、紗良の声を飲み込んでいく。
それでも、戻ってきた。
雅継が守った時の先へ。
雅継が生きた千年の先へ。
震える手でスマートフォンを取り出す。
暗かった画面に光がともった。
表示された日付は、紗良が宇治川から姿を消したあの夜のままだった。
この時代では、ほとんど時が過ぎていない。
けれど紗良の中には、雅継と過ごした日々が確かに残っている。
夢ではない。
夢であるはずがなかった。
紗良はスマートフォンを胸へ抱きしめた。
「生きます」
雅継のいない時でも、生きよ。
最後にそう言われた。
「約束します。だから……」
声が震える。
「必ず、見つけてください」
満月は何も答えず、千年後の宇治川を照らしていた。
*
白い光が消えたあとも、雅継はその場を動かなかった。
春の宇治川が流れている。
水面には、一つに戻った月が映っていた。
先ほどまで握っていた紗良の手は、もうどこにもない。
それでも雅継は、何もない空間へ手を伸ばしたまま立っていた。
「関白さま」
清景が静かに呼びかける。
雅継は答えなかった。
「道は閉じました」
「分かっている」
掠れた声が出た。
「紗良は、戻ったのか」
「確かめることはできません」
雅継が清景を見る。
清景はその視線を受け止め、続けた。
「ですが、道は紗良を受け入れてから閉じました。時の狭間に残されたのなら、あのようには消えません」
「ならば、戻ったのだな」
「おそらく」
「おそらくでは困る」
「これ以上は、陰陽師にも分かりません」
いつもなら役に立たぬと言い返すところだった。
けれど、今はその気力もなかった。
雅継は川の向こうへ目を向けた。
千年の先。
想像することさえできないほど遠い時に、紗良は一人でいる。
泣いているだろうか。
それとも、雅継との約束どおり笑おうとしているのだろうか。
「生きております」
清景が言った。
雅継は黙って清景を見る。
「紗良は、簡単に消えるような女ではありません」
「それは知っている」
「ならば、お信じください」
「信じるほかないのであろう」
「はい」
清景は、それ以上何も言わなかった。
雅継も再び川へ目を向ける。
紗良が消えた場所に、満月の光だけが落ちていた。
*
宇治の別邸へ戻ると、室には紗良の気配が残っていた。
いつも座っていた場所。
並んで庭を眺めた廊。
夜遅く戻る雅継を、灯りを消さずに待っていた室。
戸を開ければ、「お帰りなさいませ」と声が聞こえそうだった。
けれど、どこを探しても紗良はいない。
雅継は一人で室へ入った。
紗良が座っていた場所へ手を触れる。
まだ温かいような気がした。
今朝まで、ここにいた。
くだらぬことを言い、雅継へ言い返し、最後の日まで笑おうとしていた。
千年の先では、この別邸も残っていないかもしれない。
紗良と歩いた庭も、共に眺めた池も、すべて失われる。
ならば、何を残せばよい。
何を残せば、千年後の紗良へ届くのだろう。
雅継は文机の前へ座った。
紙を広げ、筆を取る。
けれど、何を書けばよいのか分からなかった。
都の政についてなら、いくらでも書ける。
誰に何を命じ、どのように動かすべきか、迷うことはない。
それなのに、たった一人の女へ送る言葉が見つからない。
紗良がここにいたなら、きっと尋ねただろう。
――私がここにいるのに、誰へ書くのですか。
「そなたがここにおらぬから、書いている」
答えても、言い返す声は聞こえなかった。
雅継は筆を置きかけた。
紗良へ文を書いても、渡すことはできない。
千年という時を越えて届くはずもない。
それでも、何も残さなければ、紗良との日々まで消えてしまうように思えた。
雅継はもう一度、筆を取った。
紗良は生きると約束した。
ならば、自分も生きなければならない。
この時代で果たすべきことを果たし、紗良が生きる未来へ時をつながなければならない。
たとえ、この身では会えなくても。
命が尽き、別の姿になったとしても。
再び紗良を見つければよい。
雅継は、ゆっくりと筆を動かした。
書いたのは、たった一行だった。
――来世にて、今一度、そなたを見つけよう。
筆を置いたあとも、雅継はその文を見つめていた。
どれほど時が流れても、この約束だけは失わせない。
雅継は文を手に、清景を呼んだ。
ほどなく室へ入ってきた清景が、文机の前に置かれた紙を見る。
「これは」
「残せ」
「どなたへお渡しする文ですか」
「千年の先にいる女へだ」
清景は文へ目を落とした。
「千年先まで残るとは限りません」
「ならば、残るようにせよ」
「また無理をおっしゃいますね」
「陰陽師であろう」
「陰陽師は、紙を千年も保たせる者ではありません」
「役に立たぬな」
清景は小さく息をついた。
それでも、文を丁寧に手に取った。
「できる限りのことはいたします」
「必ず残せ」
「承知いたしました」
清景は一礼し、文を懐へ収めた。
雅継は開け放たれた戸口から、夜空を見上げた。
満月は、紗良のいる時代にも浮かんでいるはずだった。
同じ月を、紗良も見ている。
それだけで、二人の時がまだ完全には途切れていないように思えた。
「待っておれ、紗良」
千年の先にいる女へ向けて、雅継は静かに告げた。
「今一度、必ずそなたを見つける」
その声を乗せるように、春の風が宇治の庭を吹き抜けていった。




