行け、紗良
夜が明けても、二人はしばらく離れなかった。
戸の隙間から朝の光が差し込み、鳥の声が聞こえ始める。
紗良は雅継の胸に頬を寄せたまま、その鼓動を聞いていた。
いつもと同じ音だった。
力強く、確かに生きている音。
この人が生きる時を守るために、自分は帰る。
そう決めたはずなのに、腕を離すことができなかった。
「朝になりました」
紗良が言うと、雅継の腕に力がこもった。
「まだ暗い」
「もう明るいです」
「私が暗いと申している」
「無理があります」
「関白が申すのだから、暗い」
紗良は雅継の胸元で、小さく笑った。
「そのようなことに、お力をお使いにならないでください」
「何のための力だ」
「もっと大切なことのためです」
雅継は答えなかった。
紗良にも、これ以上は言えなかった。
やがて雅継の腕が、ほんの少し緩んだ。
けれど、完全には離れない。
「紗良」
「はい」
「今日一日、私のそばを離れるな」
「はい」
「勝手に庭へも行くな」
「それでは、どこにも行けません」
「それでよい」
「雅継さまも、ご一緒ならよいのですか」
「私から離れぬのならな」
紗良は顔を上げた。
「では、今日はずっとご一緒します」
雅継は紗良を見つめたあと、ようやく腕を解いた。
それでも、紗良の手だけは握ったままだった。
*
二人は朝の庭を歩いた。
何度も眺めた池。
風に揺れる木々。
廊を歩く時に聞こえる、かすかな衣擦れの音。
目に映るものすべてが、今日で最後になる。
そう思うと、何でもない景色まで胸に残った。
「よく見ておけ」
雅継が言った。
「はい」
「千年の先では、この邸も残っておらぬかもしれぬ」
「そうですね」
紗良は池の向こうへ目を向けた。
千年後の宇治に、この別邸はない。
それでも川は流れ、山は残り、春になれば花が咲く。
雅継が見たものと同じものを、いつか現代の自分が見ることはできるかもしれない。
けれど、その隣に雅継はいない。
「吉野の桜も、見たかったです」
紗良が言うと、雅継の歩みが止まった。
「過ぎたことのように申すな」
「申し訳ありません」
「詫びるなとも申した」
「難しいですね」
「そなたが難しくしている」
聞き慣れた言葉だった。
紗良は笑おうとした。
けれど、うまく笑えなかった。
雅継の指が、紗良の頬に触れる。
「泣くのは、まだ早い」
「いつならよいのですか」
「私が見えなくなってからにせよ」
「それでは、雅継さまが泣いているか分からないではありませんか」
雅継の眉がわずかに動いた。
「私が泣くとでも思っているのか」
「思っています」
「関白は、人前では泣かぬ」
「では、私が見えなくなってから泣くのですね」
「そなたは最後の日まで、口が減らぬな」
「最後の日だからです」
口にしてから、紗良は息を止めた。
雅継の表情が静かに消える。
「その言葉を使うな」
「はい」
「今日が最後だと、まだ決めたわけではない」
雅継は再び歩き始めた。
紗良の手を握ったまま、いつもよりゆっくりと。
紗良も、それ以上何も言わなかった。
*
日が傾くにつれ、東の空から白い月が昇り始めた。
二人は並んで、その月を見ていた。
かつては、元の時代へ帰るための目印だった。
今は、二人を引き離すものにしか見えない。
「そろそろ参りましょう」
廊の向こうから、清景の声がした。
いつ来たのか、庭の端に立っている。
雅継が冷たい目を向けた。
「もう来たのか」
「お待ちになっても、月の出は遅くなりません」
「そなたが来なければ、まだ夜ではない」
「そのような理屈は、月には通じません」
雅継は何も言い返さなかった。
紗良の手を握り、立ち上がる。
その手は、朝から一度も離れていなかった。
*
宇治川は、満月の光を受けて白く輝いていた。
水の流れる音が、夜の静けさの中へ絶え間なく響いている。
紗良がこの時代へ来た時と同じ場所だった。
けれど、あの夜とは季節も、紗良の心も違う。
あの時は、何が起きたのか分からないまま、見知らぬ時代へ流れ着いた。
今は、自分がどこへ帰り、誰を置いていくのかを知っている。
清景は川のほとりに札を並べ、紗良には分からない言葉を唱え始めた。
風がないのに、札がかすかに揺れる。
水面へ映る月がゆがみ、二つに分かれた。
一つは春の宇治川。
もう一つには、季節の違う川辺が映っている。
紗良が知る、千年後の宇治だった。
「道が開いた」
清景が告げた。
その額には、薄く汗が滲んでいる。
「長くは保てない」
雅継は、紗良の手を強く握った。
「まだだ」
「関白さま」
「もう少し待て」
「お待ちできません。二つの時が最も近づいている今しかありません」
「まだ、何か方法があるはずだ」
「十二日間、探しました」
清景の声は静かだった。
「これが、今ある唯一の道です」
雅継は清景を睨んだ。
けれど、反論はしなかった。
紗良は雅継へ向き直った。
月の光の下で見る顔を、決して忘れまいと見つめる。
「雅継さま」
「行くな」
雅継の口から、初めてその言葉がこぼれた。
関白としてではない。
一人の男の声だった。
紗良の目から涙があふれた。
「はい」
「はいではない」
「私も、行きたくありません」
「ならば、ここにおれ」
「ここにいたいです」
「紗良」
「ずっと、雅継さまのそばにいたいです」
雅継の腕が、紗良を強く抱き寄せた。
紗良もその背へ腕を回す。
川の音も、清景の唱える声も、何も聞こえなくなった。
この腕の中にいれば、千年という時さえ越えられるような気がした。
「関白さま」
清景の声が響く。
「道が閉じます」
雅継の腕が、さらに強くなる。
紗良はその胸に頬を押しつけた。
「雅継さま」
「何だ」
「私を、忘れないでください」
「忘れられると思うのか」
「思いません」
「ならば、なぜそのようなことを申す」
「聞きたかったのです」
雅継の手が、紗良の髪へ触れた。
何度も、その形を覚えるように撫でる。
「そなたこそ、私を忘れるな」
「忘れません」
「千年の先で、ほかの男を見るな」
涙の中で、紗良は笑った。
「それは、難しいかもしれません」
雅継の眉が寄る。
「なぜだ」
「雅継さまを探さなければなりませんから」
「私以外を見る必要はない」
「では、すぐに見つけてください」
紗良は顔を上げた。
「千年後でも、もう一度、私を見つけてください」
雅継の目が揺れた。
「見つける」
迷いのない声だった。
「どれほど時が隔たろうと、必ずそなたを見つける」
紗良は泣きながら頷いた。
「待っています」
「道が閉じる!」
清景の声が鋭くなる。
水面に映る千年後の景色が、ゆっくりと揺らぎ始めた。
紗良は雅継の衣を握りしめた。
離せない。
自分で帰ると決めたのに、指が動かなかった。
「紗良」
雅継が紗良の名を呼ぶ。
「はい」
「私を見よ」
紗良は顔を上げた。
雅継の両手が、紗良の頬を包む。
その顔が近づき、唇が重なった。
何度触れられても、これが最後だとは思いたくなかった。
紗良は目を閉じ、雅継の衣をつかんだまま、その温かさを受け止めた。
やがて唇が離れる。
雅継の額が、紗良の額へ触れた。
「愛している」
初めて聞く言葉だった。
紗良の胸から、声にならない息がこぼれた。
「私も、愛しています」
雅継の目が閉じられる。
ほんの一瞬だけだった。
再び開いた時、その目には関白としての強さが戻っていた。
けれど、紗良の頬を包む手は震えている。
「行け」
紗良は首を横に振った。
「行けません」
「そなたが決めたのであろう」
「それでも、行けません」
「ならば、私が送る」
雅継は紗良の頬から手を離し、その身体を川の方へ向けた。
けれど、片方の手だけは握ったままだった。
一歩。
紗良が水辺へ近づく。
雅継も、その隣を歩いた。
もう一歩。
水面から白い光が立ち上がり、紗良の足元を包む。
つないだ手が、少しずつ離れていく。
指先だけが、最後まで重なっていた。
「雅継さま」
「振り返るな」
「でも」
「私が手を離せなくなる」
紗良は前を向いた。
水面の向こうに、千年後の宇治川が見える。
あと一歩進めば、雅継のいる時代には戻れない。
「紗良」
背後から、雅継の声がした。
紗良は振り返らずに立ち止まった。
「生きよ」
涙で、目の前の光が滲んだ。
「私のいない時でも、生きよ」
紗良は口元を押さえた。
それでも声を絞り出す。
「はい」
「笑え」
「それは……難しいです」
「努力せよ」
「はい」
聞き慣れた返しだった。
紗良は泣きながら、少しだけ笑った。
「さようならは、申しません」
「ああ」
「また、お会いしましょう」
「必ずだ」
雅継の指が、最後に紗良の指先を強く握った。
そして、自らその手を離した。
「行け、紗良」
紗良は光の中へ一歩踏み出した。
白い光が視界を覆う。
宇治川の音が遠ざかる。
最後に聞こえたのは、もう一度、自分の名を呼ぶ雅継の声だった。
紗良は振り返らなかった。
振り返れば、きっと戻ってしまう。
光の中で、紗良は胸の前に両手を重ねた。
雅継の手の温かさが、まだそこに残っている。
その温かさを抱いたまま、紗良の姿は光の向こうへ消えた。
水面から白い光が失われる。
二つに分かれていた月が、一つに戻る。
あとには、春の宇治川と、満月だけが残った。
雅継は、紗良を送り出した場所に立っていた。
もう、その手の中には何もない。
それでも指を閉じれば、紗良の指先がまだ触れているように思えた。
「行きました」
清景が静かに告げた。
雅継は答えなかった。
ただ、紗良が消えた水面を見つめている。
月は何事もなかったように、千年前の川を照らしていた。




