↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
京都で見つけた千年前の恋文――それを書いたのは、これから私が恋をする関白さまでした  作者: EMo


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
60/65

この身が、私一人のものであったなら


それから十二日が過ぎた。


雅継は都と宇治を何度も往復した。


陰陽寮に残された文を調べさせ、清景が集めた古い記録を読ませ、わずかでも可能性があると聞けば、人を遣わした。


紗良をこの時代へ残す道。


二つの時が重なっても、どちらも失わずに済む道。


あるいは、雅継も紗良と共に千年の時を越える道。


けれど、どこを探しても答えは見つからなかった。


夜遅く宇治の別邸へ戻ると、紗良はいつも灯りを消さずに待っていた。


「お帰りなさいませ」


そう言って微笑む顔を見るたび、雅継は今日も何も見つからなかったとは言えなくなった。


紗良も尋ねなかった。


聞かずとも、雅継の顔を見れば分かるのだろう。


二人は吉野の桜について話さなくなった。


帰ることも、手放すことも口にしなかった。


ただ、朝になれば共に庭を歩き、夜になれば同じ室で過ごした。


そうして、一日ずつ時が失われていった。


*


満月を翌日に控えた夕暮れ、清景が別邸へ来た。


雅継と紗良の前に座った清景は、しばらく何も言わなかった。


その沈黙だけで、答えは分かった。


「見つからなかったのですね」


紗良が尋ねた。


「ああ」


清景は短く答え、雅継へ向き直った。


「残る道も、お二人で時を越える道も、見つけることはできませんでした」


雅継は黙って清景を見た。


「まだ、一夜ある」


「あります。ですが、今から新しい道が見つかるとは思えません」


「思えぬだけで、ないとは限らぬ」


「関白さま」


清景の声は静かだった。


「明日の夜、月が最も高く昇る頃に、宇治川のほとりへお越しください。それを逃せば、次に道が開く時は分かりません」


「次の満月ではないのか」


「二つの時が、いつまでも重なっているとは限りません。明日を逃せば、紗良がこの時代にとどまれるとも、元の時へ帰れるとも言えなくなります」


雅継の手が、膝の上で固く握られた。


「明日の夜、また参ります」


清景は立ち上がった。


紗良も立ち上がり、頭を下げる。


「清景さま、ありがとうございます」


「まだ何も終わっていない」


「それでも、ずっと探してくださったので」


清景は何かを言いかけ、やめた。


代わりに紗良の顔を見つめる。


「今夜は眠れ」


「清景さまに言われたくありません」


「明日、川のほとりで倒れられては困る」


「倒れません」


「そなたの大丈夫は、信用していない」


聞き慣れた言葉に、紗良は少しだけ笑った。


清景は雅継へ一礼し、室を出ていった。


その姿が廊の向こうへ消えても、雅継は動かなかった。


明日の夜。


言葉にすれば、それだけだった。


もう十三日ではない。


あと一日しか残されていなかった。


*


夜が更けても、雅継は眠れなかった。


隣では、紗良が静かな寝息を立てている。


清景に眠れと言われた紗良は、眠れるはずがないと申していた。


それでも、長い間目を閉じているうちに、いつの間にか眠りに落ちたらしい。


雅継は横になったまま、その寝顔を見つめた。


初めて会った時から、妙な女だった。


見たことのない衣をまとい、聞いたことのない言葉を使い、関白である雅継を前にしても、恐れるより先に言い返した。


放っておけばよいと思っていた。


いずれ元いた場所へ戻る者なら、深く関わる必要はない。


そう思っていたはずだった。


それなのに、いつからか姿を探すようになった。


紗良がほかの男と話していれば気に障った。


二の宮が紗良をそばに置こうとすれば、連れ戻さずにはいられなかった。


清景が紗良の知らない顔を知っていることさえ、面白くなかった。


自分が女一人に嫉妬するなど、考えたこともなかった。


紗良の姿が見えなければ、どこへ行ったのかと気にかかる。


戻れば安堵し、何も言わずに出歩けば腹が立った。


食事をしたか、眠ったか、どこか痛むところはないか。


そのようなことばかりを考えるようになった。


この女を愛おしいと思った。


そばに置きたいと思った。


誰にも渡したくないと思った。


関白として何を得ても、感じたことのない思いだった。


自分の中に、このような感情があることを、雅継自身が最も驚いていた。


人の心とは、なんと厄介なものか。


思いどおりにならぬ者など、これまでいくらでもいた。


けれど、思いどおりにならぬからこそ失いたくないと思ったのは、紗良だけだった。


雅継は眠る紗良の頬へ、そっと手を伸ばした。


触れれば起こしてしまうかもしれない。


そう思い、指先をわずかに手前で止める。


明日の夜、この女は千年の先へ帰る。


雅継の手が届かない場所へ。


関白の力も、どれほどの財も、何の役にも立たない。


この身が、私一人のものであったなら。


関白の座も、これまで築いたものも、すべて手放して構わなかった。


名誉も、権勢もいらない。


紗良と共に行けるのなら、それもよかろうと思った。


千年後がどのような世であろうと、紗良の隣に立てるのなら、それでよい。


けれど、雅継の命は雅継一人のものではなかった。


都には、雅継の判断を待つ者がいる。


その力を頼り、生きている者がいる。


守らなければならない人々がいる。


捨てられるのは、自分のものだけだ。


自分を頼る者たちの明日まで、道連れにはできない。


それは、紗良が帰ると決めた理由と同じだった。


自分の望みだけで相手の生きる時を奪うことはできない。


紗良はそれに気づき、雅継より先に手を放そうとした。


愛しているからこそ、行くべき場所へ送り出す。


池の女が我が子を送り出したように。


だが、それが正しいことだと分かっても、手放したいと思えるわけではなかった。


雅継は止めていた指先を伸ばし、紗良の頬に触れた。


温かい。


今はまだ、ここにいる。


紗良の瞼がゆっくりと開いた。


「雅継さま」


「起こしたか」


「いいえ」


紗良は雅継の手へ、自分の手を重ねた。


「眠れないのですか」


「そなたには言われたくない」


「私は眠っていました」


「清景に命じられたからであろう」


「命じられてはいません」


「似たようなものだ」


紗良がかすかに笑った。


その笑顔さえ、明日には見られなくなる。


そう思った途端、雅継の胸に鈍い痛みが走った。


「紗良」


「はい」


雅継は頬に触れていた手を下ろし、紗良の手を握った。


「明日、宇治川へ行く」


紗良の笑みが消えた。


それでも目をそらさず、静かに頷く。


「はい」


たった一言だった。


けれど、その返事によって、決して認めたくなかった時が動き始めた。


「清景が道を開いたら、そなたは戻れ」


言葉にするたび、胸の奥が引き裂かれる。


紗良の目に涙が滲んだ。


「雅継さま」


「何だ」


「本当に、よいのですか」


よいはずがなかった。


帰すと決めたわけではない。


明日になっても、最後の瞬間まで引き止めたいと思うだろう。


けれど、紗良を愛したことまで、自分の執着に変えたくはなかった。


「よいとは申しておらぬ」


雅継は握った手を引き寄せた。


「明日になれば、また気が変わるかもしれぬ」


「それでは困ります」


「そなたは、私に手放せと申すのか」


「……申せません」


紗良の声が震えた。


雅継はその身体を腕の中へ抱き寄せる。


紗良も逆らわず、雅継の胸へ顔を埋めた。


「今夜だけは、まだ私のそばにおれ」


「はい」


「夜が明けるまで、どこへも行くな」


「行きません」


「私より先に、手を離すな」


紗良の腕が、雅継の背へ回る。


「離しません」


二人は互いを抱きしめたまま、長い夜を過ごした。


眠れば、明日が早く来てしまう。


そう思うと、どちらも目を閉じることができなかった。


戸の向こうでは、満ちかけた月が宇治の山を照らしている。


春の満月まで、あと一日。


雅継が紗良を手放す夜は、もうすぐそこまで来ていた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。