この身が、私一人のものであったなら
それから十二日が過ぎた。
雅継は都と宇治を何度も往復した。
陰陽寮に残された文を調べさせ、清景が集めた古い記録を読ませ、わずかでも可能性があると聞けば、人を遣わした。
紗良をこの時代へ残す道。
二つの時が重なっても、どちらも失わずに済む道。
あるいは、雅継も紗良と共に千年の時を越える道。
けれど、どこを探しても答えは見つからなかった。
夜遅く宇治の別邸へ戻ると、紗良はいつも灯りを消さずに待っていた。
「お帰りなさいませ」
そう言って微笑む顔を見るたび、雅継は今日も何も見つからなかったとは言えなくなった。
紗良も尋ねなかった。
聞かずとも、雅継の顔を見れば分かるのだろう。
二人は吉野の桜について話さなくなった。
帰ることも、手放すことも口にしなかった。
ただ、朝になれば共に庭を歩き、夜になれば同じ室で過ごした。
そうして、一日ずつ時が失われていった。
*
満月を翌日に控えた夕暮れ、清景が別邸へ来た。
雅継と紗良の前に座った清景は、しばらく何も言わなかった。
その沈黙だけで、答えは分かった。
「見つからなかったのですね」
紗良が尋ねた。
「ああ」
清景は短く答え、雅継へ向き直った。
「残る道も、お二人で時を越える道も、見つけることはできませんでした」
雅継は黙って清景を見た。
「まだ、一夜ある」
「あります。ですが、今から新しい道が見つかるとは思えません」
「思えぬだけで、ないとは限らぬ」
「関白さま」
清景の声は静かだった。
「明日の夜、月が最も高く昇る頃に、宇治川のほとりへお越しください。それを逃せば、次に道が開く時は分かりません」
「次の満月ではないのか」
「二つの時が、いつまでも重なっているとは限りません。明日を逃せば、紗良がこの時代にとどまれるとも、元の時へ帰れるとも言えなくなります」
雅継の手が、膝の上で固く握られた。
「明日の夜、また参ります」
清景は立ち上がった。
紗良も立ち上がり、頭を下げる。
「清景さま、ありがとうございます」
「まだ何も終わっていない」
「それでも、ずっと探してくださったので」
清景は何かを言いかけ、やめた。
代わりに紗良の顔を見つめる。
「今夜は眠れ」
「清景さまに言われたくありません」
「明日、川のほとりで倒れられては困る」
「倒れません」
「そなたの大丈夫は、信用していない」
聞き慣れた言葉に、紗良は少しだけ笑った。
清景は雅継へ一礼し、室を出ていった。
その姿が廊の向こうへ消えても、雅継は動かなかった。
明日の夜。
言葉にすれば、それだけだった。
もう十三日ではない。
あと一日しか残されていなかった。
*
夜が更けても、雅継は眠れなかった。
隣では、紗良が静かな寝息を立てている。
清景に眠れと言われた紗良は、眠れるはずがないと申していた。
それでも、長い間目を閉じているうちに、いつの間にか眠りに落ちたらしい。
雅継は横になったまま、その寝顔を見つめた。
初めて会った時から、妙な女だった。
見たことのない衣をまとい、聞いたことのない言葉を使い、関白である雅継を前にしても、恐れるより先に言い返した。
放っておけばよいと思っていた。
いずれ元いた場所へ戻る者なら、深く関わる必要はない。
そう思っていたはずだった。
それなのに、いつからか姿を探すようになった。
紗良がほかの男と話していれば気に障った。
二の宮が紗良をそばに置こうとすれば、連れ戻さずにはいられなかった。
清景が紗良の知らない顔を知っていることさえ、面白くなかった。
自分が女一人に嫉妬するなど、考えたこともなかった。
紗良の姿が見えなければ、どこへ行ったのかと気にかかる。
戻れば安堵し、何も言わずに出歩けば腹が立った。
食事をしたか、眠ったか、どこか痛むところはないか。
そのようなことばかりを考えるようになった。
この女を愛おしいと思った。
そばに置きたいと思った。
誰にも渡したくないと思った。
関白として何を得ても、感じたことのない思いだった。
自分の中に、このような感情があることを、雅継自身が最も驚いていた。
人の心とは、なんと厄介なものか。
思いどおりにならぬ者など、これまでいくらでもいた。
けれど、思いどおりにならぬからこそ失いたくないと思ったのは、紗良だけだった。
雅継は眠る紗良の頬へ、そっと手を伸ばした。
触れれば起こしてしまうかもしれない。
そう思い、指先をわずかに手前で止める。
明日の夜、この女は千年の先へ帰る。
雅継の手が届かない場所へ。
関白の力も、どれほどの財も、何の役にも立たない。
この身が、私一人のものであったなら。
関白の座も、これまで築いたものも、すべて手放して構わなかった。
名誉も、権勢もいらない。
紗良と共に行けるのなら、それもよかろうと思った。
千年後がどのような世であろうと、紗良の隣に立てるのなら、それでよい。
けれど、雅継の命は雅継一人のものではなかった。
都には、雅継の判断を待つ者がいる。
その力を頼り、生きている者がいる。
守らなければならない人々がいる。
捨てられるのは、自分のものだけだ。
自分を頼る者たちの明日まで、道連れにはできない。
それは、紗良が帰ると決めた理由と同じだった。
自分の望みだけで相手の生きる時を奪うことはできない。
紗良はそれに気づき、雅継より先に手を放そうとした。
愛しているからこそ、行くべき場所へ送り出す。
池の女が我が子を送り出したように。
だが、それが正しいことだと分かっても、手放したいと思えるわけではなかった。
雅継は止めていた指先を伸ばし、紗良の頬に触れた。
温かい。
今はまだ、ここにいる。
紗良の瞼がゆっくりと開いた。
「雅継さま」
「起こしたか」
「いいえ」
紗良は雅継の手へ、自分の手を重ねた。
「眠れないのですか」
「そなたには言われたくない」
「私は眠っていました」
「清景に命じられたからであろう」
「命じられてはいません」
「似たようなものだ」
紗良がかすかに笑った。
その笑顔さえ、明日には見られなくなる。
そう思った途端、雅継の胸に鈍い痛みが走った。
「紗良」
「はい」
雅継は頬に触れていた手を下ろし、紗良の手を握った。
「明日、宇治川へ行く」
紗良の笑みが消えた。
それでも目をそらさず、静かに頷く。
「はい」
たった一言だった。
けれど、その返事によって、決して認めたくなかった時が動き始めた。
「清景が道を開いたら、そなたは戻れ」
言葉にするたび、胸の奥が引き裂かれる。
紗良の目に涙が滲んだ。
「雅継さま」
「何だ」
「本当に、よいのですか」
よいはずがなかった。
帰すと決めたわけではない。
明日になっても、最後の瞬間まで引き止めたいと思うだろう。
けれど、紗良を愛したことまで、自分の執着に変えたくはなかった。
「よいとは申しておらぬ」
雅継は握った手を引き寄せた。
「明日になれば、また気が変わるかもしれぬ」
「それでは困ります」
「そなたは、私に手放せと申すのか」
「……申せません」
紗良の声が震えた。
雅継はその身体を腕の中へ抱き寄せる。
紗良も逆らわず、雅継の胸へ顔を埋めた。
「今夜だけは、まだ私のそばにおれ」
「はい」
「夜が明けるまで、どこへも行くな」
「行きません」
「私より先に、手を離すな」
紗良の腕が、雅継の背へ回る。
「離しません」
二人は互いを抱きしめたまま、長い夜を過ごした。
眠れば、明日が早く来てしまう。
そう思うと、どちらも目を閉じることができなかった。
戸の向こうでは、満ちかけた月が宇治の山を照らしている。
春の満月まで、あと一日。
雅継が紗良を手放す夜は、もうすぐそこまで来ていた。




