私が、そなたを送る
「私は、元の時代へ帰ります」
紗良の言葉が、灯りのともる室へ落ちた。
雅継は何も言わなかった。
驚いた顔もしなければ、怒りもしない。
ただ、紗良を見つめている。
その静けさに耐えられず、紗良は膝の上の手を強く握った。
「雅継さま」
「いつ決めた」
ようやく返ってきた声は、低く、静かだった。
「昨日です」
「あの陰陽師と池へ行った時か」
「清景さまに決められたのではありません。私が、自分で決めました」
「それは分かっている」
雅継の視線が、紗良から外れた。
「清景に決められるような女なら、私はこれほど困らされておらぬ」
いつもなら笑えたかもしれない。
けれど今は、唇を動かすことさえできなかった。
「帰りたいのか」
紗良は息を止めた。
雅継が再びこちらを見る。
「元の時へ、帰りたいのかと聞いている」
「……いいえ」
ほかの答えなど言えなかった。
「帰りたくありません」
声にした途端、涙が落ちた。
「雅継さまのそばにいたいです。吉野にも行きたい。雅継さまと一緒に桜を見たいです。もっと、この時代にいたいです」
「ならば、なぜ帰る」
「私が残れば、雅継さまを失うかもしれないからです」
「それは、まだ決まっておらぬ」
「決まってからでは、遅いのです」
「ゆえに、私に何も言わず、そなた一人で決めたのか」
雅継の声は荒らげられていない。
それでも、押し殺した痛みが伝わってきた。
紗良は涙を拭わず、雅継を見つめた。
「雅継さまに言えば、止めると思いました」
「当然だ」
「帰らずに済む道を、最後まで探してくださるとも思いました」
「それの何が悪い」
「雅継さまは、ご自分を後回しになさるからです」
雅継の眉がわずかに動いた。
「都も、雅継さまを頼る方々も、すべて置いて、私を残す方法を探し続けてしまう。私がそばにいたいと申せば、きっとそうなさいます」
「そなたに、私が何を選ぶかまで決める権利はない」
紗良は言葉を失った。
雅継は膝の上に置いていた手を伸ばし、紗良の手首をつかんだ。
強くはない。
けれど、逃がすつもりはないのだと分かる。
「愛しているから手放すのだと、申したな」
「はい」
「それを美しいことのように申すな」
紗良の胸が痛んだ。
雅継の指先に、わずかに力がこもる。
「手放される者が、同じように望んでいるとは限らぬ」
「分かっています」
「分かっておらぬ」
雅継の目の奥に、初めて隠しきれない感情が揺れた。
「そなたは私を守るためと言いながら、私がそなたを失う痛みを、勝手に選んでいる」
紗良の唇が震えた。
何も言い返せなかった。
自分が消えることより、帰ることの方が雅継のためになる。
そう決めたのは紗良だ。
けれど、それを雅継が望んでいるか、尋ねてはいなかった。
「申し訳ありません」
「詫びてほしいのではない」
「では、どうすればよいのですか」
「私にも考えさせよ」
雅継の声が低くなる。
「そなたは昨日決めたのであろう。私は今、初めて聞いた」
その言葉に、紗良はようやく気づいた。
自分は池のほとりで泣き、清景の隣で迷い、ひと晩かけて決めた。
けれど雅継には、その時間さえなかった。
吉野の桜を見に行こうと話した直後、突然、帰ると告げられたのだ。
「はい」
紗良は小さく頷いた。
「お待ちします」
「待てるのか」
「努力します」
雅継は紗良を見つめたあと、深く息を吐いた。
「そこは、はいと申すところであろう」
二の宮と同じことを言われ、紗良は泣きながら少しだけ笑った。
けれど雅継は笑わなかった。
つかんでいた手首を引かれ、紗良の身体が雅継の胸元へ倒れ込む。
腕が背へ回り、強く抱きしめられた。
「雅継さま」
「今夜は、もう何も申すな」
耳元で、苦しげな声がした。
「帰るとも、手放すとも、二度と申すな」
紗良は目を閉じた。
「はい」
少なくとも今夜だけは、別れの言葉を口にせずにいられる。
紗良も雅継の背へ腕を回した。
この温かさを覚えておこうとは、もう考えなかった。
覚えておこうとすることさえ、別れの準備のように思えた。
今はただ、雅継の腕の中にいたかった。
*
翌朝、清景が宇治の別邸へ呼ばれた。
室へ入ってきた清景は、雅継と紗良の間に流れる重い空気を見て、足を止めた。
「帰ってもよろしいですか」
「座れ」
雅継が言った。
「私を呼ぶ前に、お二人で話を終えておいていただきたかったのですが」
「終わらぬから、そなたを呼んだ」
「陰陽師は、男女の仲裁まではいたしません」
「誰が夫婦ですか」
思わず紗良が返すと、雅継がこちらを見た。
「違うのか」
「今は、そこではありません」
清景が呆れたように息をつき、二人の前へ座った。
「それで、何をお聞きになりたいのですか」
雅継がすぐに口を開く。
「紗良が帰る道について、分かっていることをすべて話せ」
清景の目が紗良へ向けられた。
「話したのか」
「はい」
「昨夜ではないと言っていたくせに」
「人の気持ちは変わるものです」
「わずか一日で変わりすぎだ」
紗良へ無愛想に返したあと、清景は懐から一枚の文を取り出した。
古びた紙には、墨で細かな文字が書かれている。
「陰陽寮に残されていた文と、この土地に伝わる話を照らし合わせました」
雅継が文へ目を落とす。
「道は見つかったのか」
「まだ確かめられたわけではありません。ですが、見当はつきました」
清景は二人を順に見た。
「次の満月の夜、二つの時が最も深く重なります」
紗良は息を詰めた。
「紗良がこの時代へ来た時と同じく、宇治川のほとりに道が開くはずです」
「そこを通れば、元の時代へ戻れるのですか」
「おそらくな」
紗良へ答えた清景に、雅継が低い声を向ける。
「おそらく、では困る」
「千年の時を越えた者を、私はほかに存じません。確かだと言い切る方が怪しいでしょう」
「戻れなければ、どうなる」
「こちらへ残るか、二つの時の狭間に取り残されるか。それも分かりません」
紗良の背に冷たいものが走った。
雅継の手が伸び、隣に座る紗良の手を握った。
「危険は避けられぬのか」
「時を越えること自体が、すでに道理の外にあります」
「そなたは、そのためにいるのであろう」
「陰陽師を何だと思っておられるのですか」
「役に立つ者だ」
「それほど役に立つとお思いなら、もう少し敬っていただきたいものです」
「戻せるのか」
雅継の問いに、清景はしばらく答えなかった。
やがて古い文を畳み、静かに言う。
「道が開けば、私がつなぎ止めます。ですが、渡るのは紗良一人です」
雅継の手に力がこもった。
「私も行く」
「それはできません」
「なぜだ」
「道は、紗良が来た時へつながります。関白さまの時ではありません」
「ならば、私が渡ればどうなる」
「戻れなくなるか、道そのものが崩れます」
「試さねば分からぬだろう」
「お試しにならないでください。関白さまお一人の命ではないのでしょう」
清景の言葉に、雅継は黙った。
それは、紗良が帰ると決めた理由と同じだった。
雅継一人の命ではない。
彼が背負う人々がいる。
守るべき都がある。
紗良は握られた手を、そっと握り返した。
「満月までに、ほかの道は見つかりませんか」
清景が紗良を見る。
「探す。だが、あまり期待はするな」
「あと十三日ある」
雅継が言った。
清景は雅継へ視線を戻した。
「十三日しかありません」
その違いが、二人の願いを表しているようだった。
雅継にとっては、まだ十三日ある。
清景にとっては、もう十三日しかない。
紗良にとっては、そのどちらでもあった。
「ほかの道を探せ」
「探します。ですが、見つからなかった時のこともお考えください」
「見つからぬと決まったわけではない」
「満月は、関白さまがお決めになるまで待ってはくれません」
雅継の手に、再び力がこもった。
「満月の夜までに、また参ります」
清景は立ち上がり、古い文を懐へ戻した。
「それまでに、お二人でお決めください」
「紗良はすでに決めている」
雅継が言った。
「私はまだ、何も認めておらぬ」
清景はしばらく雅継を見たあと、静かに一礼した。
「それでも、時は進みます」
清景が室を出ていく。
その足音が遠ざかっても、雅継は紗良の手を握ったままだった。
強く握られた指先が、少し痛い。
けれど紗良は、何も言わなかった。
この痛みまで、失いたくないと思った。
「吉野の桜は、来年も咲く」
雅継が庭を見つめたまま言った。
「はい」
「その次の年も、咲くであろう」
「はい」
「だが、今年そなたと見るはずだった桜は、二度と咲かぬ」
紗良の胸が締めつけられた。
同じ山に、同じように花が咲いても、それは二人が約束した桜ではない。
雅継と並んで見るはずだった、今年の吉野の桜。
「申し訳ありません」
「詫びるな」
雅継は紗良の手を握ったまま、こちらを向いた。
「詫びられれば、私がそなたを許さねばならぬようになる」
「では、何と申せばよいのですか」
「何も申さず、ここにおれ」
「雅継さま」
「満月まで、まだ十三日ある」
雅継の声は静かだった。
「私は最後まで、そなたが残る道を探す」
紗良は頷いた。
「はい」
「ゆえに、そなたも今から別れたような顔をするな」
「そのような顔をしていますか」
「吉野へ行けぬと申した時から、ずっとしている」
紗良は俯きかけた。
けれど、握られた手に引かれ、逃げることを許されなかった。
「私を見よ」
紗良は顔を上げた。
雅継の目にも、別れを恐れる色があった。
それでも雅継は、そこから目をそらさなかった。
「ほかの道が見つからなかった時は」
雅継の声が、わずかに途切れた。
「宇治川まで、私がそなたを連れていく」
「でも、道を渡れるのは私一人です」
「分かっている」
「その先へは、一緒に来られません」
「それも分かっている」
「では、なぜ」
雅継の指が、紗良の指の間へ深く重なる。
「そなた一人で、別れの場所へ行かせるつもりはない」
紗良の目から涙があふれた。
「雅継さまが、おつらいだけです」
「それを決めるのは、そなたではない」
昨夜と同じ言葉だった。
「そなたが帰ると決めたように、どのように見送るかは私に選ばせよ」
紗良は握られた手へ、もう一方の手を重ねた。
「私は、本当は行きたくありません」
「ならば、今は行くな」
「ですが、満月が来れば」
「今は、まだ来ておらぬ」
雅継は紗良の手を引き寄せた。
「今はここにおれ」
「はい」
「明日も、その次の日もだ」
「はい」
「満月の夜まで、そなたは私のそばにいる」
「はい」
雅継は、それ以上何も言わなかった。
紗良も、帰るという言葉を繰り返さなかった。
別れの日は来る。
どれほど願っても、時は止まらない。
それでも今は、まだ十三日ある。
二人の重なった手は、清景が去ったあとも、長い間離れなかった。
春の満月まで、あと十三日。
雅継はまだ、紗良を手放してはいなかった。




