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京都で見つけた千年前の恋文――それを書いたのは、これから私が恋をする関白さまでした  作者: EMo


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あなたと見るはずだった、吉野の桜


翌朝、紗良が目を覚ますと、隣に雅継の姿はなかった。


まだ薄暗い室の中には、昨夜まで雅継がいた気配だけが残っている。


紗良は起き上がり、自分の手を見つめた。


池のほとりで口にした言葉が、胸の奥によみがえる。


――帰ります。


清景には言えた。


けれど雅継を前にすると、どうしても言葉にならなかった。


言えば、雅継は止めるだろう。


怒鳴ることも、無理に閉じ込めることもしない。


ただ、紗良が帰らずに済む道を、最後まで探し続ける。


眠ることも忘れ、都と宇治を行き来し、自分が背負うものすべてを後回しにしてでも。


それが分かるからこそ、言えなかった。


紗良は衣を整え、廊へ出た。


朝の空気は冷たく、池の上には薄い霧がかかっている。


雅継は廊の端に立ち、庭を見ていた。


「おはようございます」


声をかけると、雅継が振り向いた。


「もう起きたのか」


「雅継さまこそ、お早いですね」


「眠れなかっただけだ」


あまりに素直な答えに、紗良は足を止めた。


「昨日のことを、考えていらしたのですか」


「そなたが何も話さぬからな」


責める声ではなかった。


それがかえって、紗良には苦しかった。


雅継のそばまで歩き、同じように庭を見る。


池は静かだった。


昨日、女が消えた古い池とは違う。


それでも、水面に残る朝の光を見ていると、腕の中から我が子を送り出した女の姿を思い出した。


愛しているから、そばに置く。


それだけが愛ではない。


愛しているからこそ、手放さなければならないこともある。


頭では分かっている。


けれど、自分がそれをできるかどうかは別だった。


「清景は、何と申した」


雅継が尋ねた。


「帰る方法については、まだ何も」


「ならば、なぜ泣いた」


紗良はすぐには答えられなかった。


雅継は急かさず、庭へ目を戻した。


「話したくないのなら、今は話さずともよい」


「よいのですか」


「よくはない」


雅継は淡々と答えた。


「だが、無理に聞き出したところで、そなたは肝心なところだけ黙る」


「そのようなことは」


「ないと申せるか」


紗良は口を閉じた。


雅継が小さく息をつく。


「そなたは、分かりやすいのか分かりにくいのか、時折分からぬな」


「それは私にも分かりません」


「ならば、私に分かるはずもない」


思わず紗良が笑うと、雅継はようやくこちらを見た。


その目には、ほとんど眠っていないような疲れが残っている。


紗良の笑みはすぐに消えた。


「雅継さま」


「何だ」


帰ります。


そう言おうとした。


けれど雅継の目を見た途端、喉の奥で言葉が止まる。


代わりに出てきたのは、まるで違う言葉だった。


「今日は、都へお戻りになるのですか」


「ああ。昼には出る」


「いつ、お帰りになりますか」


「日のあるうちには戻る」


雅継は少し間を置いた。


「必ず戻る。ゆえに、そのような顔をするな」


「どのような顔ですか」


「二度と会えぬ者を見送る顔だ」


胸の内を見透かされたようで、紗良は俯いた。


「まだ、お出かけにもなっていません」


「そうだ。私は都へ行き、戻ってくるだけだ」


雅継の指が、紗良の顎へ触れた。


そっと顔を上げさせられる。


「そなたも、ここにいる」


「はい」


答えた声が、わずかに震えた。


雅継は気づいたはずだった。


それでも、それ以上は尋ねなかった。


*


昼前になると、雅継は都へ戻る支度を整えた。


紗良は牛車の前まで見送りに出た。


「遅くならないでくださいね」


「分かっている」


「食事も、きちんとなさってください」


「そなたは私を何だと思っている」


「放っておくと、ご自分のことを後回しになさる方です」


雅継は牛車へ乗りかけた足を止めた。


「それは、そなたも同じであろう」


「今は雅継さまのお話です」


「都合が悪くなると、すぐに話を変えるな」


「お気をつけて」


紗良が頭を下げると、雅継はしばらく動かなかった。


やがて、低い声で言う。


「戻ったら、話がある」


紗良は顔を上げた。


「お話、ですか」


「ああ」


「今ではいけませんか」


「そなたこそ、私に話すことがあるのではないか」


何も答えられない紗良を見て、雅継は牛車へ乗り込んだ。


「戻るまでに、決めておけ」


「何をですか」


「私に話すか、まだ黙っているかだ」


牛車がゆっくりと動き始める。


紗良はその姿が見えなくなるまで、同じ場所に立っていた。


次の満月まで、あと十四日。


雅継に告げずにいられる時間も、もう長くはなかった。


*


その日の午後、紗良は一人で池のほとりに座っていた。


春の風が水面を渡り、伸び始めた草を揺らしている。


何をしていても、雅継へどう伝えるかばかりを考えてしまう。


元の時代へ帰ります。


言葉にすれば、それだけだった。


けれど、その一言の中には、あまりにも多くのものが含まれている。


雅継のそばを離れること。


この時代で出会った人々と別れること。


二度と戻れないかもしれないこと。


そして、雅継を置いて千年後へ帰ること。


紗良は膝の上で両手を握った。


本当は、雅継に決めてほしかった。


帰るなと言われたら、ここに残る理由にできる。


帰れと言われたら、雅継のためだと思って歩き出せる。


けれど、それではいけない。


清景が言ったとおり、決めるのは自分だった。


誰かに選ばされた別れにしてしまえば、きっと後悔する。


紗良は池の水面へ目を向けた。


昨日の女は、自分の腕で我が子を抱き、自分の腕を開いて送り出した。


誰かに奪われたのではない。


最後は、自分の意志で手放した。


それは諦めではなかった。


愛した存在を、確かにいたのだと認めたうえで、その先へ進ませるための選択だった。


「できるでしょうか」


問いかけても、答える者はいない。


紗良は目を閉じた。


雅継の声が浮かぶ。


紗良と呼ぶ声。


時折、呆れたように名を呼ぶ声。


心配を隠しきれず、低くなる声。


離すまいとするように、すぐ近くで呼ぶ声。


忘れられるはずがなかった。


たとえ元の時代へ帰っても、この人を知らなかった自分には戻れない。


ならば、出会ったことを失わないために帰る。


雅継が生きる時を守るために。


自分が雅継を愛したことを、なかったことにしないために。


紗良はゆっくりと目を開けた。


「今夜、話します」


声に出すと、胸の奥が痛んだ。


それでも今度は、言葉を取り消さなかった。


*


雅継が戻ったのは、夕暮れより少し前だった。


牛車を降りた雅継は、待っていた紗良の姿を見ると、足を速めた。


「ずっと、ここにいたのか」


「今、出てきたところです」


「本当か」


「本当です」


雅継は紗良の顔を確かめるように見つめた。


「今朝よりは、ましな顔をしている」


「決めましたから」


その言葉に、雅継の目がわずかに細くなった。


「何をだ」


「お話しすることを、です」


雅継は何も言わなかった。


そのまま二人で室へ戻る。


灯りがともされ、外の光が少しずつ薄れていく。


紗良は雅継と向かい合って座った。


昨日までと同じ室だった。


同じ距離に、同じ人がいる。


それなのに、これから告げる一言で、すべてが変わってしまう。


「雅継さまのお話とは、何ですか」


紗良が尋ねると、雅継はしばらく黙っていた。


「吉野へ行こうと思う」


「吉野へ?」


思いがけない言葉に、紗良は目を瞬いた。


「ああ。都の桜が散る頃でも、吉野ならまだ咲いているところがある」


雅継の声は、いつもと変わらず落ち着いていた。


「そなたは、この時代の桜をまだよく見ておらぬだろう」


「はい」


「満月が過ぎ、すべて片づいたら行けばよい」


すべて片づいたら。


雅継は、次の満月を越えた先にも紗良がいると思っている。


吉野の山を並んで歩き、二人で桜を見る未来を思い描いている。


紗良も、見たかった。


雅継と一緒に、吉野の桜を。


風に舞う花びらの下で、雅継がどんな顔をするのか見たかった。


「泊まりになっても構わぬよう、都のことは整えておく」


雅継が続ける。


「そなたは何も案じず、私と来ればよい」


紗良の目に、涙が滲んだ。


行きたい。


何も知らなかったことにして、頷いてしまいたい。


次の満月も、その先のことも忘れて、雅継の差し出した未来へ手を伸ばしたい。


けれど、それはできなかった。


「行けません」


雅継の表情が止まった。


「なぜだ」


「私は、吉野へは行けません」


「吉野が嫌なのか」


「いいえ」


紗良は首を横に振った。


「行きたいです。雅継さまと一緒に、桜を見たいです」


「ならば行けばよい」


「行けないのです」


声が震えた。


一度こぼれた涙が、頬を伝う。


雅継の手が伸びかけ、止まった。


「清景から、何か聞いたのか」


「帰る方法については、まだ何も聞いていません」


「ならば、なぜ行けぬと決める」


紗良は膝の上で手を握った。


「昨日、池にいた女は、ずっと子どもを探していました」


雅継は何も言わず、紗良を見ている。


「その子が確かにいたのだと分かって、ようやく腕に抱くことができました」


「それで、消えたのか」


「はい」


紗良は頷いた。


雅継には、女の詳しい事情を話さなかった。


今伝えなければならないのは、もののけのことではない。


その姿を見て、自分が何を決めたのかだった。


「女は、ようやく会えた子を、自分の腕から送り出しました」


声が震えそうになり、紗良は一度息を吸った。


「愛しているから、ずっとそばに置くのだと思っていました。でも、愛しているからこそ、手放さなければならないこともあるのですね」


雅継の表情が、静かに変わった。


「何を言おうとしている」


紗良は雅継を見つめた。


逃げてはいけない。


この人のためだと、自分に言い聞かせるだけでもいけない。


自分で選び、自分の言葉で伝えなければならない。


「私がこの時代に残れば、雅継さまと出会ったことまで失われるかもしれません」


「まだ、そうと決まったわけではない」


「はい。帰る方法も、まだ分かっていません」


「ならば、清景が調べるのを待てばよい」


「それでも、決めておかなければならないと思いました」


雅継の手が、膝の上でわずかに動いた。


けれど、紗良へは伸ばされなかった。


「そなたは、何を決めた」


紗良の目から、また涙が落ちた。


言いたくない。


言えば、もう戻れない。


けれど、黙ったまま残りの日々を過ごすことは、雅継と共にいることではない。


吉野の桜を見る約束をしながら、満月の夜にいなくなることなどできなかった。


雅継の目を見たまま、紗良は唇を開いた。


「私は、元の時代へ帰ります」


室の中から、すべての音が消えたように感じた。


雅継は何も言わない。


ただ、紗良を見つめている。


紗良は泣かないように、膝の上の手を強く握った。


雅継と見るはずだった、吉野の桜。


その景色は、まだ見たこともないのに、もう失った思い出のように胸を締めつけた。


春の満月まで、あと十四日。


初めて、二人の間に別れの言葉が置かれた。

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