「返して」と泣いた女が、手放したもの
「紗良」
廊の向こうから呼ばれ、紗良は振り向いた。
清景が柱にもたれ、こちらを見ている。
「清景さま。どうなさったのですか」
「そなたに会いたがっている者がいる」
「私に?」
「ああ。関白殿ではない」
「聞いていません」
「顔に書いてある」
清景はそれだけ言うと、先に歩き出した。
紗良は小さく息をつき、その後を追った。
春の満月まで、あと十五日。
元の時代へ帰らなければ、雅継と出会ったことさえ失われるかもしれない。
そう分かっていても、まだ決められずにいた。
「どこへ行くのですか」
「池だ」
紗良の足が止まりかけた。
「何か出るのですか」
「出ると分かっているなら、少しは怖がれ」
「清景さまも一緒なのでしょう」
清景が振り返った。
「そなたは妙なところで人を信用するな」
「信用してはいけませんか」
「……勝手にしろ」
そう答えた清景の歩みが、わずかに緩くなった。
連れていかれたのは、邸から少し離れた古い庭だった。
手入れをする者もいないのか、池の周囲には枯れ枝が落ち、草が伸びている。
水面は夕暮れの空を映し、薄い紫色に染まっていた。
紗良は池を見つめた。
ここには覚えがあった。
濡れた長い髪。
青白い顔。
何かを抱くように曲げられた、空の腕。
そして、何度も繰り返された言葉。
――返して。
「まだ、ここにいるのですね」
「ああ」
清景は懐から札を一枚取り出した。
「消えたのではなかったのですか」
「姿を見せなくなっただけだ。あれほど深くこの世に縛られたものが、簡単に消えるものか」
「清景さまでも、送れないのですか」
「陰陽師なら何でもできると思うな」
以前にも聞いた言葉だった。
「前にも、そうおっしゃいましたね」
「そなたが何度も同じことを尋ねるからだ」
清景は札を水面へ放った。
札は沈まず、吸い寄せられるように池の中央へ進んでいく。
風もないのに、水面に波紋が広がった。
その中心から、黒い髪がゆっくりと浮かび上がる。
紗良は息をのんだ。
女が、水の中に立っていた。
白い衣は濡れ、細い身体にまとわりついている。
けれど以前ほど、恐ろしいとは思わなかった。
女はただ、悲しみに疲れ果てているように見えた。
その両腕は、今も何かを抱くように曲げられている。
けれど、腕の中には何もなかった。
「返して」
掠れた声がした。
「私の子を、返して」
紗良は池の縁に膝をついた。
「誰が、その子を連れていったのですか」
女の唇が震えた。
「いないと」
「え?」
「あの子など、初めからいなかったと」
池の水がざわめいた。
「抱くことも、名を呼ぶこともできなかった」
女は空の腕を強く胸へ引き寄せた。
「返して」
その声は恨みではなかった。
ただ一度でいいから我が子を抱きたかった、母親の声だった。
紗良は静かに女を見つめた。
「その子は、いました」
水面の揺れが止まった。
「あなたのお腹の中で、確かに生きていました」
女が顔を上げる。
「誰にも見てもらえなくても、名を呼んでもらえなくても、いなかったことにはなりません」
紗良は胸の前で、両手を重ねた。
「あなたは、その子のお母さんです」
池の底に、小さな光がともった。
淡い光はゆっくりと水の中を昇り、水面を離れた。
女の腕の中へ、白い光が収まる。
女は驚いたように、それを見下ろした。
「いた……」
細い指が、光を包む。
「この子は、いたのですね」
「はい」
紗良はうなずいた。
「ずっと、あなたと一緒にいました」
女の目から、一筋の涙が流れた。
その口から、かすかな歌がこぼれた。
以前にも聞いた子守歌だった。
けれど今夜は、失ったものを呼び戻す歌ではなかった。
腕の中で眠る子に聞かせる、穏やかな歌だった。
歌い終えると、女は小さな光を見つめた。
長い間、求め続けたもの。
一度も抱くことのできなかった我が子。
女の腕に力がこもった。
それでもしばらくすると、その腕はゆっくりと開かれた。
白い光が、ふわりと浮かび上がる。
女は追わなかった。
涙を流しながら、その光が空へ昇っていくのを見送っている。
やがて、女の姿も淡く透け始めた。
濡れた衣が光に変わり、風にほどけていく。
女は空になった腕を見下ろした。
その顔には、もう苦しみはなかった。
「ありがとう」
小さな声だけを残し、女は消えた。
池には、夕暮れの空を映す静かな水面だけが残った。
もう、「返して」という声は聞こえなかった。
紗良はその場に座り込んだまま、動けなかった。
ようやく抱くことのできた我が子を、女は手放した。
愛していないからではない。
愛していたから、行くべき場所へ送り出したのだ。
紗良の頬を、涙が伝った。
「帰りたくありません」
気づけば、そう口にしていた。
清景は驚かなかった。
「そうだろうな」
「雅継さまのそばにいたいです」
「ああ」
「もし、この時代と一緒に消えるのなら、それでもよいと思ってしまいます」
清景は何も言わず、紗良の隣に腰を下ろした。
「雅継さまを失った後、私はどうやって生きればよいのでしょう」
「それを私に聞くのか」
「陰陽師でしょう」
「陰陽師は、別れた後の生き方までは占わぬ」
清景らしい答えに、紗良は涙の中でわずかに笑った。
けれど、すぐに唇を噛んだ。
「それでも、帰らなければならないのですよね」
「私が決めることではない」
清景は池を見つめた。
「そなたが決めることだ」
紗良も、水面へ目を向けた。
この人のもとで消えるのなら、それでもよいと思った。
雅継を失えば、生きていく気力さえ失うかもしれない。
それでも、雅継を失うことだけは避けなければならない。
雅継は、この人一人のものではない。
彼を頼る人々がいる。
彼が守る都がある。
彼がこれから作る歴史がある。
自分の寂しさだけで、それらを奪うことはできなかった。
そして紗良が帰らなければ、二人が出会ったことさえ消えてしまう。
あの女が、我が子の存在をなかったことにさせなかったように。
紗良も、雅継との日々をなかったことにはしたくなかった。
「帰ります」
声にした途端、涙が落ちた。
「元の時代へ、帰ります」
清景は何も言わなかった。
紗良が自分でその言葉を受け止めるまで、黙って隣にいた。
やがて紗良は、涙を拭って立ち上がった。
「満月まで、あと十五日ですね」
「ああ」
「それまでに、雅継さまへ話します」
「今夜ではないのか」
紗良は困ったように笑った。
「決めることと、伝えることは別です」
「面倒だな」
「人の気持ちは、そういうものです」
「そなたを見ていると、よく分かる」
「それはどういう意味ですか」
清景は答えず、歩き出した。
紗良も、もう一度だけ池を振り返ってから、その後を追った。
邸へ戻ると、廊の先に雅継が立っていた。
紗良を見つけた途端、険しかった顔がわずかに緩む。
それだけで、決めたはずの心が揺れた。
「どこへ行っていた」
「清景さまと、池へ」
「また、あの陰陽師か」
「また、とは何ですか」
いつもなら笑って返せるやり取りだった。
けれど今夜は、声が震えた。
雅継が紗良の顔を覗き込む。
「泣いたのか」
紗良は答えられなかった。
あと十五日しか、あなたのそばにいられない。
そう言わなければならない。
けれど、口にした瞬間から、二人で過ごす時間のすべてが別れに変わってしまう。
「紗良?」
雅継の手が、紗良の頬に触れた。
「何があった」
「雅継さま」
「何だ」
紗良は唇を開いた。
帰ります。
池のほとりでは言えた、たった一言が出てこなかった。
代わりに一歩近づき、雅継の胸に額を押しつけた。
雅継は戸惑いながらも、すぐに紗良の背へ腕を回した。
「どうした」
「少しだけ、このままでいてください」
「少しだけと言うな」
雅継の腕に力がこもる。
「そなたが離れたいと思うまで、ここにいればよい」
紗良は目を閉じた。
離れたい日など、永遠に来ない。
それでも、別れの日は来る。
春の満月まで、あと十五日。
紗良は雅継の衣を握りしめた。
今夜はまだ、言えなかった。




