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京都で見つけた千年前の恋文――それを書いたのは、これから私が恋をする関白さまでした  作者: EMo


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遠くへ行く顔


それから五日が過ぎた。


雅継は都と宇治を何度も往復していた。


清景が集めた古い記録を読ませ、陰陽寮に残された文を調べさせ、宇治の山に住む術者まで呼び出した。


夜遅く別邸へ戻っても、紗良には何も話さない。


話せることがないのだと、紗良にも分かっていた。


「お帰りなさいませ」


その夜も、紗良は灯りを消さずに待っていた。


雅継は室へ入ると、紗良の前へ座った。


「まだ起きていたのか」


「待っていましたから」


「先に休めと申したはずだ」


「文には書かれていませんでした」


紗良が返すと、雅継はわずかに眉を動かした。


「次から書く」


「そういう意味ではありません」


「ならば、どのような意味だ」


「雅継さまに、お帰りなさいと言いたかっただけです」


雅継は黙った。


紗良の手を取り、指先へ触れる。


帰る道を探し続けている人の手は、冷えていた。


「今日は、何か分かりましたか」


「まだだ」


「そうですか」


紗良は、それ以上尋ねなかった。


見つかっていないものを、何度尋ねても答えは変わらない。


雅継の顔には疲れが見える。


眠れていないのだろう。


「食事はなさいましたか」


「都で済ませた」


「本当に?」


「疑うのか」


「雅継さまは、都合の悪いことをお話しにならないので」


「そなたに言われたくはない」


返す言葉がなく、紗良は口を閉じた。


雅継の言うとおりだった。


紗良の胸にも、すでに雅継へ話していないことがある。


もし別の道が見つからなかった時、自分がどうするのか。


まだ決めたわけではない。


けれど、選べる道は一つしかないように思えていた。


「明日は宇治にいる」


雅継が言った。


「都へ戻らなくてよいのですか」


「二の宮が来る」


「二の宮さまが?」


思わず声が大きくなった。


暖かくなれば宇治へ行くと文にはあったが、こんなに早いとは思わなかった。


「お身体は大丈夫なのでしょうか」


「医師と橘を伴う。途中で一度休むようにも命じた」


「素直に従ってくださるでしょうか」


「従わせる」


迷いのない答えに、紗良は少し安心した。


「関白に命じられたと知れば、かえって急ぐかもしれぬがな」


「それでは逆効果ではありませんか」


「もう遅い」


雅継はそう言うと、紗良の手を引いた。


不意に身体が傾き、その胸元へ寄せられる。


「雅継さま?」


「今夜は、何も考えるな」


耳元で低い声がした。


紗良は一瞬迷ったあと、雅継の胸へ頬を寄せた。


衣に染みついた香りがする。


もう懐かしいとさえ感じる、雅継の香りだった。


目を閉じれば、十五日という期限も、消えてしまうかもしれない未来も、少しだけ遠ざかる。


雅継の腕が、紗良の背へ回った。


「ここにおれ」


押し殺すような声だった。


紗良は返事をせず、その衣を握った。


今はまだ、嘘をつきたくなかった。


*


翌日の昼を少し過ぎた頃、二の宮の牛車が宇治の別邸へ到着した。


紗良が迎えに出ると、先に橘が降りてくる。


続いて姿を見せた二の宮は、以前より顔色がよく、足取りも確かだった。


それでも、長い道のりに疲れたのか、降りたところで一度息を整えている。


紗良が手を差し出そうとすると、二の宮はその手を見た。


「そなたに支えられるほど弱ってはおらぬ」


「では、橘さまにお願いいたします」


「なぜそうなる」


橘が何も言わず、二の宮の腕を支えた。


二の宮は不満そうにしながらも、振り払わなかった。


「お久しぶりでございます」


紗良が頭を下げると、二の宮はその姿を上から下まで確かめた。


視線が左肩で止まる。


「腕を動かしてみよ」


「ここで、ですか」


「傷は癒えたと聞いた」


紗良は左腕をゆっくり上げてみせた。


少し引きつるが、痛みはない。


「もう大丈夫です」


「そなたの大丈夫は、信用ならぬ」


雅継と同じことを言われ、紗良は思わず笑った。


「何がおかしい」


「いいえ。皆さま、同じことをおっしゃるので」


「そなたが同じことばかり申すからだ」


二の宮はそう言うと、先に室へ向かった。


その後ろを歩きながら、橘が紗良へ小声で告げる。


「今日まで、何度も宇治へいらっしゃろうとなさいました」


「やはり、そうだったのですね」


「医師の許しが出るまで、関白さまがお止めになっておられました」


紗良は少し離れたところを歩く雅継へ目を向けた。


二の宮の身体を案じながら、紗良には何も知らせなかったらしい。


「聞こえているぞ」


前を行く二の宮が振り返った。


橘はすぐに口を閉じる。


「橘。余計なことを申すな」


「まだ、ほとんど何も申し上げておりません」


「これから申すつもりであっただろう」


「何を申し上げるかまで、お分かりになるのでございますか」


二の宮が橘を睨んだ。


二人の変わらないやり取りに、紗良の胸が温かくなる。


この時間を失いたくないと思った。


だからこそ、壊してはいけないとも思った。


*


しばらく室で休んだあと、二の宮は池を見たいと言った。


橘と医師を残し、紗良と二人で庭へ出る。


雅継も同行しようとしたが、二の宮が止めた。


「女一人と歩くのに、関白の許しが要るのか」


「要らぬ。だが、遠くへは行くな」


「ここはそなたの邸だ。どこへ行っても見張られている」


「それが分かっているならよい」


「関白は、いつからこれほど狭量になった」


雅継は答えず、紗良を見た。


「池の向こうへは行くな」


「はい」


返事をすると、二の宮が呆れたように息をついた。


「そなたは関白の言うことには素直なのだな」


「時と場合によります」


「今の返事を聞かせてやりたいものだ」


二人は並んで池のほとりを歩いた。


水面には、春の空が映っている。


あの夜に現れた白い光も、季節の違う景色も、今は見えない。


梅の花びらが風に散り、静かな波の上へ落ちていく。


「檜扇は持っているか」


二の宮が尋ねた。


「はい。大切にしまってあります」


「使わぬのか」


「宴へ出る機会がありませんから」


「扇は宴のためだけにあるものではない」


「そうなのですか」


「私がそなたに贈ったものだ。持っているだけでよい」


いかにも二の宮らしい理屈だった。


紗良は小さく笑った。


「では、今度お会いする時には持ってきます」


二の宮が足を止めた。


紗良も立ち止まり、その横顔を見る。


「今度とは、いつだ」


「それは……」


答えられなかった。


二の宮が紗良へ顔を向ける。


「また、遠くへ行く顔をしているな」


紗良の胸が詰まった。


以前も、考え込む紗良に二の宮はそう言った。


この邸にいながら、よく遠くへ行く女だ、と。


「まだ、ここにおります」


「その答えは聞いておらぬ」


二の宮の声は静かだった。


「何があった」


紗良は池へ目を向けた。


詳しいことを話してよいのか分からない。


二つの時が重なり、このままでは自分が消えるかもしれないなど、簡単に説明できることでもなかった。


それでも、黙って消えないと約束した。


「遠くへ行かなければならなくなるかもしれません」


二の宮の表情から、わずかに色が消えた。


「都を離れるのか」


「もっと遠くです」


「関白も知っているのか」


「はい」


「それで、行かせると申したのか」


紗良は首を横に振った。


二の宮はしばらく黙り、池の向こうにいる雅継を見た。


雅継は二人から距離を置きながら、こちらへ目を向けている。


「ならば、そなた一人で決めるつもりか」


「まだ、何も決めてはいません」


「嘘だな」


紗良は二の宮を見返した。


「そなたは、決めてから迷う」


「普通は、迷ってから決めるものではありませんか」


「そなたは違う。心の内では決めているくせに、ほかに道がないかと探す」


否定できなかった。


二の宮は再び歩き始めた。


歩みはゆっくりだが、もう息は乱れていない。


「私と関白が、気づかぬとでも思ったか」


「雅継さまも?」


「気づいている。だから、そなたから目を離さぬ」


紗良は池の向こうを見た。


雅継と目が合う。


離れていても、その視線は紗良を逃がさない。


「私は、黙ってはいなくなりません」


「それだけでは足りぬ」


二の宮が言った。


「行くと決めた時は、私にも申せ」


「ですが……」


「見送りたいわけではない」


強い声に、紗良は口を閉じた。


「止めるためだ」


二の宮らしい言葉だった。


その横顔は、以前より大人びて見える。


病から回復し、また自分の足で歩けるようになったこの人を置いていく。


そう思った途端、胸の奥が痛んだ。


「二の宮さま」


「何だ」


「お元気になられて、本当によかったです」


「急に何を申す」


「ずっと、お伝えしたかったので」


二の宮は足を止めなかった。


けれど、その歩みがわずかに遅くなった。


「そなたとの約束どおり、元気になった」


「はい」


「ならば、今度はそなたが約束を守れ」


「何をお約束すればよいのですか」


「どれほど遠くへ行こうと、消えるな」


紗良は答えられなかった。


できるかどうか分からない約束を、軽々しく口にはできない。


沈黙した紗良に、二の宮は不機嫌そうに眉を寄せた。


「そこは、はいと申すところだ」


「では、努力します」


「足りぬ」


「難しいことをおっしゃいますね」


「そなたが難しくしている」


二の宮は池のほとりに立ち、水面へ目を向けた。


「戻れぬほど遠い場所など、この世にはない」


紗良は何も言わず、その言葉を胸に刻んだ。


二の宮は知らない。


紗良が戻るかもしれないのは、この世ではなく、千年後だということを。


それでも、その言葉を信じたかった。


どれほど遠くへ行っても、もう一度会える道があるのだと。


*


夕暮れ前、二の宮は都へ戻っていった。


牛車が見えなくなるまで見送った紗良のそばへ、雅継が立つ。


「何を話した」


「檜扇を持っているかと聞かれました」


「それだけか」


「遠くへ行く顔をしている、とも」


雅継の表情が変わった。


紗良は庭へ戻ろうとしたが、手首をつかまれた。


強くはない。


けれど、振りほどくことはできなかった。


「何と答えた」


「遠くへ行かなければならなくなるかもしれない、と」


「なぜ、そのようなことを申した」


「黙っていなくならないと、お約束しましたから」


「まだ、行くと決まってはおらぬ」


「はい」


「清景は、ほかの道を探している」


「分かっています」


雅継は紗良の顔を見つめた。


紗良が隠しているものを、すべて見つけようとするように。


「私に黙って、何か決めるな」


「決めていません」


「本当か」


紗良は頷いた。


今はまだ、決めていない。


ただ、雅継を失う道だけは選ばないと、心に決めているだけだ。


「ならば、私を見よ」


俯きかけた顔へ、雅継の指が触れる。


紗良は顔を上げた。


「そなたが何を恐れているかは分かる」


雅継の声は静かだった。


「だが、私が守るべきものの中から、勝手にそなた自身を除くな」


息が止まりそうになった。


三条の方や若君、二の宮や姫。


雅継が背負う多くの人々の中へ、自分を数えてもよいのだろうか。


「私は、雅継さまを困らせたくありません」


「すでに十分困らされている」


思いがけない答えに、紗良は目を瞬いた。


「それは、申し訳ありません」


「詫びろとは申しておらぬ」


雅継の腕が紗良の腰へ回る。


「そなたに困らされることまで、ほかの者へ譲るつもりはない」


紗良は泣きそうになりながら、少しだけ笑った。


雅継の胸へ額を寄せる。


離れなければならないのなら、この温かさを覚えておきたかった。


けれど、そんなことを考えていると知られれば、雅継はきっと腕を解かない。


「紗良」


「はい」


「私を置いて、遠くへ行くな」


紗良は答える代わりに、雅継の衣を握った。


宇治の山へ日が沈み、池の水面から光が消えていく。


次の満月まで、あと十日だった。

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