始まりを失えば
紗良が宇治の別邸で暮らし始めてから、季節が一つ過ぎた。
池の水面に散っていた紅葉は消え、冬のあいだ枝ばかりだった梅にも、今では白い花が咲いている。
左肩の傷は、細い痕を残して塞がった。
腕を高く上げると、まだ少し引きつる。それでも、衣を整えることも、筆を持つことも、以前と変わらずできるようになっていた。
朝、池のほとりを歩き、昼には女房たちと言葉を交わす。
雅継が都にいる日は文を待ち、宇治へ戻る日は、その気配を待った。
不便なはずの暮らしが、いつの間にか日常になっていた。
「紗良」
庭を眺めていた紗良は、背後から呼ばれて振り返った。
雅継が板敷きを歩いてくる。
昨日まで都にいたはずなのに、知らせもなく戻ってきたらしい。
「お帰りなさいませ」
「ああ」
雅継は紗良のそばへ来ると、手にしていた文を差し出した。
「二の宮からだ」
紗良は受け取り、結ばれた紐を解いた。
二の宮の文字は、以前より力強くなっている。
暖かくなれば宇治へ行く。
それまで勝手に都へ戻ってくるな。
書かれているのは、それだけだった。
「お元気そうですね」
「この文で分かるのか」
「はい。二の宮さまらしいですから」
紗良が笑うと、雅継は文へ目を落とした。
「私の邸にいるそなたへ、なぜ戻るなと命じる」
「心配してくださっているのです」
「私では足りぬと申しているように見える」
「そういうところへ張り合わなくても」
「張り合ってはおらぬ」
間を置かずに返ってきた。
紗良は笑いをこらえながら、文を丁寧に畳んだ。
こんなやり取りが、これからも続くのだと思っていた。
春が来ても、夏が来ても。
その次の秋も、またこの庭で紅葉を見るのだと。
「関白さま」
庭の向こうから清景の声がした。
その顔を見た瞬間、紗良の胸に小さな影が差した。
清景は宇治へ来るたび、池に現れた春の景色と、あの文について調べていた。
――始まりを失えば、今も消える。
あの言葉の意味を確かめるために。
雅継も何かを感じ取ったらしい。
「分かったのか」
「はい」
清景は短く答えた。
「中でお話しいたします。紗良も来い」
*
室には、雅継と紗良、清景の三人だけが残った。
清景は一通の古びた文を二人の前へ置いた。
「まず、関白さまを狙った者については、ほぼ明らかになりました」
雅継の表情がわずかに硬くなる。
「申せ」
「関白さまが病で伏せておられた折、呪いを忍ばせた文を届けさせた者。宇治で矢を放たせた者。そして、三条の方へ文を送り、紗良への疑いを抱かせようとした者。いずれも同じ男の命によるものでございます」
清景が告げたのは、雅継と政の場で対立していた一人の公卿の名だった。
雅継をすぐに死なせるのではなく、病のあいだに力を削ぎ、周囲との関係を崩そうとしていた。
けれど雅継が回復し、紗良の存在が知られるようになると、手段を選ばなくなった。
「今朝、捕らえました」
「そうか」
雅継の声は静かだった。
長く自分を狙っていた者の名を聞いても、驚きは見せない。
「では、終わったのですか」
紗良が尋ねると、清景は首を横へ振った。
「人の企てはな」
その答えに、室の空気が変わった。
清景は、もう一通の紙を取り出した。
池のほとりに残されていた、あの警告の写しだった。
『始まりを失えば、今も消える』
「この文を残した者も見つけました。十年以上前、禁じられた術を用いて陰陽寮を追われた男だ」
「襲撃に関わっていた者か」
「金を受け取り、池の水を通してこの邸を探らせたことは認めました。ですが、あの夜、池に光が現れることまでは知らなかったようでございます」
清景の指が、紙に書かれた文字をなぞる。
「男は水面を通して、二つの異なる時が重なるのを見た。そして、このまま紗良がこちらに留まれば何が起こるかにも気づいた」
雅継が清景を見据えた。
「何が起こる」
清景はすぐには答えず、紗良へ目を向けた。
「そなたがこの世へ来た時のことを、もう一度話せ」
「前にもお話ししました」
「文を見たところからだ」
紗良は膝の上で手を組んだ。
現代の宇治にあった博物館。
薄暗い展示室。
ガラス越しに見た、千年ほど前に書かれた一通の文。
「すべてを読むことはできませんでした。ただ、『来世にて』と『今一度』という文字が見えました」
なぜか、その文の前から離れられなかった。
知らない人が、知らない誰かへ宛てたはずの言葉だった。
それなのに、自分へ向けられているように感じた。
「博物館を出たあと、宇治川のそばを歩きました。急に霧が出て……男の人の声で、名前を呼ばれた気がします。そのあと足元が分からなくなって、気づいた時にはこちらにいました」
室の中が静まり返った。
雅継の手が、紗良の手へ重なった。
「その文を書いた者は、まだこの世にいる」
清景が言った。
紗良は顔を上げた。
「どういうことですか」
「そなたが千年後に見た文は、この時代から残されたものだ。だが、今はまだ書かれていない」
紗良は言葉を失った。
清景の視線が、雅継へ移る。
「おそらく、その文を書くのは関白さまでございます」
重ねられた雅継の手に、力がこもった。
「私が、紗良を呼んだと申すのか」
「意図して術をかけるわけではございません。文に込められた思いと、宇治の池に残る力、千年後の満月。それらが重なり、紗良へ道を開いたのでしょう」
「ならば、今ここで書けばよい」
雅継は迷いなく言った。
「同じ文を残せば、始まりは失われぬ」
「同じものにはなりません」
「なぜだ」
「関白さまは、今、紗良を失っておられないからでございます」
清景の言葉に、雅継の目が鋭くなる。
それでも清景は視線を逸らさなかった。
「千年もの時を越えて人を呼ぶほどの思いが、どのようにして生まれるのか。それは、文字だけを写せば足りるものではございません」
「確かめてもいないことを、決まったように申すな」
「では、池に春が映った理由を、ほかにどうお考えになりますか」
雅継は答えなかった。
清景が続ける。
「紗良がこちらに留まれば、別れは起こらない。別れが起こらなければ、文は書かれない。文が残らなければ、千年後の紗良はそれを見ることがない」
紗良の背を冷たいものが伝った。
「私が、こちらへ来なくなる……」
「そうだ。そなたが来なければ、今ここにいるそなたも存在できぬ」
紗良は、雅継と重ねた手を見つめた。
触れている。
温かい。
確かに、ここにいる。
それなのに、すべてがまだ起きていない何かの上に成り立っている。
「それが、『始まりを失えば、今も消える』という意味か」
雅継が低い声で言った。
「はい」
「紗良が残れば、いつ消える」
「分かりません。次の満月かもしれぬ。もっと先かもしれぬ」
「消えるのは紗良だけか」
清景は一度、口を閉ざした。
その沈黙が、答えよりも重かった。
「二つの時の重なりは、すでに広がり始めています。池に違う季節が映ったのは、そのためでございます。このまま歪みが大きくなれば、関白さまに何が起きるか、この邸だけで済むのか、それすら私には申せません」
「ならば歪みを止めろ」
「その方法を探しております」
「探している、では足りぬ」
「承知しております」
「紗良を帰す以外の道を見つけよ」
清景は、すぐには返事をしなかった。
「清景」
「できる限りのことはいたします」
「違う」
雅継の声が低くなる。
「必ず見つけよ」
清景はしばらく雅継を見つめ、やがて頭を下げた。
「承知いたしました」
*
清景が去ったあとも、紗良と雅継は手を離さなかった。
庭では、梅の枝が風に揺れている。
つい先ほどまで穏やかだった春の景色が、急に遠いものに見えた。
「次の満月は」
雅継が尋ねた。
「十五日後だそうです」
「まだ十五日ある」
紗良は雅継の横顔を見た。
十五日しかない、とは言わなかった。
雅継も、言わなかった。
「清景は別の道を見つける」
強い口調だった。
紗良を安心させるための言葉ではない。
そうさせると、すでに決めている声だった。
「はい」
紗良は、それだけを返した。
けれど、胸の奥では別の声がしていた。
もし雅継のそばで消えるのなら、それでもよい。
この人を失って千年後へ戻ったところで、自分に生きていく気力が残るとは思えなかった。
だったら、この手を握ったまま、最後までここにいたい。
けれど、失われるかもしれないのは紗良だけではない。
雅継にまで何かが起きるかもしれない。
この邸だけでは済まないかもしれない。
雅継は、紗良一人のものではなかった。
三条の方がいる。
若君がいる。
二の宮や姫がいる。
政を託し、この人の決断によって暮らしを支えられている、名も知らない大勢の人々がいる。
紗良がそばにいたいと願ったために、そのすべてを危うくすることはできない。
雅継を失うことだけは、何としても避けなければならなかった。
それはもう、自分一人の悲しみで済むことではないから。
愛する人と離れずにいることが、愛なのだと思っていた。
けれど、本当にこの人を守ろうとするなら、いつか自分から手を離さなければならないのかもしれない。
女性が家と家を結ぶために嫁ぎ、人の心まで誰かのものとして扱われるこの時代で、愛は人を所有することではないと知る。
愛するからこそ、手放さなければならないことがある。
そんなことを千年も昔の世で学ぶとは、なんとも因果な話だった。
「紗良」
「はい」
「何を考えている」
雅継の目が、紗良をまっすぐに捉えている。
紗良は少し迷い、重ねられた手を握り返した。
「雅継さまのことです」
「ならば、私に申せ」
「まだ、うまく言葉にできません」
「そなたは、すぐ一人で遠くへ行く」
以前、二の宮にも似たことを言われた。
紗良は小さく笑った。
「今は、ここにいます」
「今だけでは足りぬ」
雅継の指が、紗良の指の間へ入り込む。
逃がさないように、しっかりと結ばれた。
「十五日のうちに、必ず道を見つけさせる」
「もし、見つからなかったら」
思わず口からこぼれた。
雅継は答えなかった。
ただ、つないだ手に力を込めた。
その強さだけで、分かってしまった。
雅継は、紗良を手放せない。
そして紗良も、別れを告げてしまえば、この手を離せなくなる。
だから、選ばなければならない時が来たなら。
雅継には、選ばせてはいけないのかもしれない。
白い梅の花が一枚、風に運ばれて室へ入り、二人の手のそばへ落ちた。
紗良はそれを見つめながら、まだ形にもならない決意を胸の奥へ沈めた。




