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京都で見つけた千年前の恋文――それを書いたのは、これから私が恋をする関白さまでした  作者: EMo


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恋の仕方を忘れていた


雅継が都へ戻ったあと、紗良は文机に向かっていた。


目の前には、雅継から届いた文を収めた箱がある。


蓋を開けると、短い文が何通も重なっていた。


『今宵は戻れぬ。先に休め。』


『戻る。』


『口答えだけは、遠くにいても変わらぬな。』


歌が添えられているわけでも、愛を伝える言葉が並んでいるわけでもない。


それでも紗良は、一通ずつ広げてしまう。


少し右上がりの文字。


急いで書いたのか、最後の線だけが強く払われた文字。


短い一言でも、墨の濃さや筆の運び方は少しずつ違っている。


雅継がどのような顔で書いたのか、想像できる気がした。


LINEなら、送った瞬間に届く。


読まれたかどうかも分かる。


返事が来なければ、忙しいのか、困らせたのか、画面を見ながら何度も考えただろう。


この時代の文には、既読も送信時刻もない。


使いが都と宇治を行き来し、返事が届くまでには時間がかかる。


最初は不便だと思った。


けれど今は、返事を待つ時間も嫌いではない。


紙に残された文字へ触れる。


この字を書くために、雅継が筆を持った。


同じ紙を、雅継の手も押さえていた。


そう思うだけで、短い一行まで愛おしかった。


「何度お読みになるのですか」


そばにいた女房から声をかけられ、紗良は顔を上げた。


「見ていましたか」


「同じ文を、先ほどから三度は開いておられます」


「三度も?」


女房は楽しそうに笑っている。


紗良は慌てて文を畳んだ。


「文字を見ていただけです」


「関白さまの御文字を?」


「そうです」


「それほどお好きなのでございますね」


「文字が、です」


「さようでございますか」


明らかに信じていない顔だった。


女房が下がったあと、紗良はもう一度文を開いた。


『戻る。』


たった二文字なのに、見れば胸が温かくなる。


*


三十歳にもなって、何をしているのだろう。


社会人になってから、恋愛はずっと遠いものになっていた。


仕事を覚えることに必死だった時期。


夜勤や不規則な勤務で、約束を合わせることさえ難しかった時期。


誰かと食事をしたり、好意を寄せられたりしたことが、なかったわけではない。


それでも仕事や生活を優先するうちに、恋は始まる前に終わっていった。


そのまま何年も過ぎた。


一人でいることにも慣れていた。


誰かを待つ暮らしを、もう自分には必要のないものだと思っていた。


それなのに今は、牛車の音が聞こえるたびに耳を澄ませている。


文が届けば、すぐに開きたい。


雅継の姿を見つければ嬉しい。


口づけられれば、どうしてよいか分からなくなる。


紗良は、自分の唇へ指先で触れた。


雨の夜に交わした口づけを思い出す。


あの時、自分はどのような顔をしていたのだろう。


嬉しいと伝えるべきだったのか。


もう一度と、自分から言ってもよかったのか。


考えただけで顔が熱くなる。


この時代に来て、もののけにも、病にも、身分の高い人々にも向き合ってきた。


それなのに恋愛だけは、何をどうすればよいのか分からない。


しかも相手は、ただの男性ではなかった。


関白という、この時代で最も大きな権力を持つ人。


すでに妻と呼ばれる女性がいて、若君もいる。


この時代では、身分のある男性に複数の妻がいることは珍しくない。


現代の結婚と同じではないことも分かっている。


理解はできても、現代で生きてきた感覚が、すぐに消えるわけではなかった。


雅継を好きになればなるほど、時々立ち止まる。


自分は、何をしているのだろう。


誰かの大切な人を、奪ってはいないだろうか。


都では、自分は宇治の方と呼ばれ始めている。


それがこの時代で、自分に与えられる立場なのだろうか。


三条の方にも、若君にも、傷ついてほしくない。


それと同時に、雅継のそばから離れたくないと思っている。


どちらも本当の気持ちだった。


紗良は、手元の文へ目を落とした。


この字を見て嬉しいと思う自分まで、否定したくはなかった。


*


その日の午後、都から使いが来た。


『今宵、戻る。』


いつもの短い文だった。


それでも、紗良は何と返すか迷った。


『分かりました。』


それだけでは、少し冷たい気がする。


『お気をつけてお戻りください。』


今度は、よそよそしい。


LINEなら、短い言葉でも気軽に送れた。


絵文字を一つ添えれば、気持ちも伝えられる。


けれど、文では書いた文字が、そのまま雅継の手へ渡る。


迷った跡まで見られてしまいそうだった。


紗良は新しい紙を広げた。


『待っています。』


一言だけを書いた。


短いけれど、一番伝えたい言葉だった。


「これを、関白さまへお願いします」


使いへ渡した直後、恥ずかしさが押し寄せてきた。


「少し待ってください」


男が振り返る。


「いえ……何でもありません」


取り戻して書き直したい。


けれど、待っていることは本当だった。


使いは文を懐へ収め、宇治を出ていった。


もう取り消せない。


LINEなら、送信を取り消せたのに。


やはり不便だと思いながら、紗良は少しだけ笑った。


取り消せないからこそ、嘘のない気持ちが届く。


それも悪くない。


*


雅継が宇治へ着いたのは、日が暮れて間もない頃だった。


紗良は室の前まで出て迎えた。


「お帰りなさい」


「ああ」


雅継の衣の内から、見覚えのある紙の端がのぞいている。


紗良は目を逸らした。


「なぜ、こちらを見ぬ」


「見ています」


雅継は文を取り出した。


「これを書いておきながらか」


「返してもらえませんか」


「返さぬ」


「少し恥ずかしくなったんです」


「私へ届いたものだ」


紗良が手を伸ばすと、雅継はその手をつかんだ。


「向こうでは、送ったあとに取り消すこともできたのに」


「誰に送った文もか」


「文というより、LINEです。家族や友人と、すぐ言葉を送り合えるもので」


「男ともか」


紗良は雅継を見た。


「そこが気になるのですか」


雅継は答えず、文を衣の内へ戻した。


「雅継さまは、ずるいです」


「何がだ」


「私のことだけ聞いて」


紗良は少し迷ったあと、口にした。


「雅継さまには、妻も若君もいるでしょう」


雅継の目が紗良へ向けられる。


「私だって、気にならないわけではありません」


言ってしまうと、胸の奥へ隠していたものまで溢れそうになった。


「この時代では普通だと分かっています。でも、私には、どう考えればいいのか分からないんです」


雅継は黙って聞いている。


「私が、どういう立場なのかも分かりません」


「宇治の方と呼ばれることか」


「それもあります」


紗良は視線を落とした。


「誰かの大切なものを、私が奪っているのではないかと思うこともあります」


雅継の手に、わずかに力が入った。


「三条も若君も、そなたをそうは思っておらぬ」


「分かっています。でも、気持ちはすぐに割り切れません」


「ならば、割り切らずともよい」


短い答えだった。


紗良が顔を上げる。


「女を、その背後にある家とともに見てきた」


雅継は紗良の手を離さなかった。


「家と家を結び、政を支えるもの。それが当然だと思っていた」


三条の方も、ほかの女性たちも、雅継にとっては家や立場と切り離せない存在だった。


それは、この時代に生まれた雅継が背負ってきたものでもある。


「そなたは違う」


「何が違うのですか」


「そなたを見ている時、家も位も考えぬ」


雅継の視線が、まっすぐに紗良へ向けられる。


「紗良だから、欲しいと思った」


それ以上の説明はなかった。


「初めてだ」


紗良は何も言えなくなった。


雅継は多くを語らない。


だからこそ、その言葉が胸の奥まで届いた。


誰かの代わりではない。


政のためでも、家を結ぶためでもない。


紗良自身を求めてくれた。


「そんなことを言われたら、何て返したらいいか分からなくなります」


「先ほどから、そればかりだな」


「仕方ないでしょう。恋愛なんて、しばらくしていなかったんです」


雅継の眉が寄る。


「なぜだ」


「仕事が忙しかったですし、一人でいることに慣れてしまって」


「千年後の男は、何をしていた」


「千年後の男性全員に責任があるように言わないでください」


「そなたを見る目がなかったのだな」


あまりにも当然のように言われ、紗良は目を瞬いた。


「それは、どうでしょう」


「違うのか」


「私にも原因はあります。仕事ばかりしていましたから」


「だから、待つと書くだけで恥じるのか」


「それは言わないでください」


「口づけるたびに、初めてのような顔もする」


「雅継さま」


「何だ」


「少し、意地悪です」


雅継の口元が、わずかに緩んだ。


「困っているそなたを見るのは、嫌いではない」


「やっぱり、ずるいです」


紗良は手を引こうとした。


けれど、雅継は離さない。


そのまま引き寄せられ、顔が近づく。


「また困るか」


「もう、困っています」


「ならば同じだ」


雅継の手が、紗良の頬へ触れた。


紗良は迷わず目を閉じた。


唇が重なる。


短く触れたあと、一度離れる。


紗良が目を開ける前に、もう一度唇が重なった。


今度は少し長かった。


胸の鼓動が速くなる。


紗良は雅継の衣へ手を添え、その温もりを確かめるように指へ力を込めた。


やがて唇が離れる。


「まだ慣れぬか」


雅継が尋ねる。


紗良は小さく首を振った。


「やっぱり、慣れません」


「まだ足りぬのだろう」


「そういう意味ではありません」


雅継の目に笑みが浮かぶ。


紗良は恥ずかしさから逃れるように、その胸元へ額を寄せた。


衣の内には、紗良が書いた文が入っている。


『待っています。』


墨はもう乾いている。


それでも文字には、書いた時の気持ちが残っていた。


すぐには届かない。


一度渡せば、取り消せない。


けれど筆で書いた文字には、画面に並ぶ言葉とは違う温かさがあった。


平安時代は、不便なことばかりだと思っていた。


今は、そうは思わない。


返事を待つ時間も。


紙へ触れた雅継の手を想像することも。


愛おしいと思える人がいるなら、悪くなかった。


「雅継さま」


「何だ」


「今夜は、文を書かなくてもよいですね」


「私がここにいるのに、誰へ書く」


「そうですね」


紗良は雅継の胸元で笑った。


今夜は、墨の文字を待たなくてもよい。


伝えたい気持ちは、すぐそばにいる人へ、自分の声で届けられた。

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